第二十七話「恐怖」
粉塵で逃げおおせる。本来ならば最もあってはならない失態だった。
ラムダは切り落とされた足首を見やる。まさかあの少年があれほどの力を発揮するとは予想外だった。自分の見立てでは確実に食われる側の存在に見えたのに。
オノンドとやらのポケモンを操ってみせた瞬間、あの時の冷たい眼差しはトレーナーカードの写しで見た少年のそれではない。殺人者の持っている狂気に近い。実際、下された身となれば恐怖以外のなにものも感じられなかった。
「報告、しなければ」
ラムダは予め穴抜けの紐を使ってオツキミ山の中腹にある広場に出ていた。本来ならば山越えには必要のない場所のため人気はない。幸いにして通信が生きている場所でもある。男二人は完全に先ほどの攻撃に恐怖を感じて竦み上がっていた。目をやられた男は、「血が、血がぁ」と呻いている。肩口をやられた男は立っているだけでも苦しそうだった。
「うるさい! オレなんて足だ! 一生残る傷だぞ」
ラムダは慎重に通信のチャンネルを合わせた。周波数が少しでもずれると暗号化に失敗する。元々、暗号化に時間がかかり、この通信はポケギア側にも残らないものになっている。ようやく繋がったポケギアから、『ラムダか』と低い声が聞こえてきた。
「はい。現在、オツキミ山です。その、報告に上がっていたオーキド・ユキナリと交戦しました」
通信の相手は、『どうであったか?』と簡潔に尋ねた。自分の荒い息からもその結果は明らかであろうに。
「敗れました」
苦渋の滲んだ言葉にも相手は別段意外そうではない。むしろ当然の帰結だとでも言うように、『そうか』と応じた。
「報告通り、彼の闘争心を高める戦い方をしましたが、あれは何です? 報告書とまるで違います」
報告書に上がっていたのは「内向的、戦闘向きではない、未確認のポケモンを所持」というだけだった。留意すべき敵だとは思えなかったが、自分は深手を負い、他の二人も重傷である。
『実戦は常に流動的だ。彼をその戦いの中に置けただけでもよしとする』
何を考えているのだろうか。ラムダは思案する。本当にユキナリを下すつもりならばこのようなまどろっこしい戦いをせずに、奇襲をかけるだけでよかった。だが目的はあくまで闘争心を引き出す事だ。そのための駒に過ぎなかったのだと思うとラムダは歯噛みする。その代償にしては、足一本は大き過ぎた。
『オーキド・ユキナリに関してはさらに調査を進めよう。彼がどのように戦うのか。どの程度までならば、彼は耐え得るのか』
「何のためです?」
思わず尋ねていた。過ぎた真似だと分かっていても納得し切れない。相手は答えないかに思われたが、『彼は面白い』という意想外の声が返ってきた。
『その進化、どこまで来るのか楽しみだ。キバゴと呼称しているポケモンに関しても、だがな』
「そのキバゴとか言うポケモン、進化しました」
ラムダの報告に相手は、『ほう』と感嘆の息を漏らす。
『あれは進化するポケモンだったか』
「攻撃範囲が急速に伸びて……、頑丈特性のレアコイルが一撃です。過ぎた言葉かもしれませんが、あれは害悪ですよ」
自分の立場からしてみればそのような忠言は意味を成さないだろう。しかし言うべきだと感じた。このままでは組織もろとも瓦解しかねない。あの力の行き着く先は危険だとラムダの本能が告げていた。
『頑丈を破る、か。未だにそういう特性のポケモンは見られていないが』
「型破り、と言っていました、確か。通常のポケモンではないのかもしれません」
伝説のポケモンか、と考えたがあまりにもお粗末だ。それに普通のトレーナーが制御出来るものではない。
『どちらにせよ、とても面白い材料だ。引き続き観察対象としよう。オーキド・ユキナリ。オーキドの血を引く者がどこまでやるのか。この眼で確かめたいのでな』
その言葉には愉悦すら感じさせられた。ラムダは背筋が凍るのを覚えながら相手の名前を呼ぶ。
「――キシベ様。我々の組織を発足するに当たって、本当にあのような子供の力が必要だとお考えなのですか?」
ラムダからしてみれば甚だ疑問である。通話越しの相手であるキシベは、『そう急く事はない』と返した。
『全ては順調に回っている。ロケット団をシルフカンパニーの中で発言権を増す措置も取られている。お前達が心配するほど、ロケット団という組織は脆くはない。磐石に、物事は進んでいるのだ』
暗に兵士である自分に口を出す資格はないと告げられているようだった。所詮はロケット団という巨大組織を回す歯車だ。
「しかし、オーキド・ユキナリは危険です。あれがもし、我らに対抗するべく動いたとすれば、どうするのです?」
最も危惧しなければならない事態だったがキシベの声は冷静だった。
『それはありえないのだよ。あれの目的を作ったのは誰でもないこの私だ。私に歯向かうという事は自身の目的を否定する事になる。今まで培ってきたものを捨てられるほど、あれは強くない』
「一度接触しただけでしょう?」
『一度の邂逅でも一生分の影響力というものはあるのだ。彼は私との出会いが仕組まれていたなど、考えもしないだろう』
運命さえも弄ぼうというのか。キシベという男の深淵をラムダは覗き見たような気がした。この男は全てを見透かしているような事を度々口にする。仕組まれていた出会いにユキナリは気づくのだろうか。しかし、気づいた時には――。
ラムダの心には既に足を切り落とされた憎しみよりも仕組まれた子供であるユキナリへの同情があった。これまでの事もこれからの事も全て誰かの手の上にあるなど思いもしないだろう。
「キシベ様。オレは――」
『早急に救助隊を寄越そう。傷は酷いのだろう?』
キシベはラムダの迷いを汲み取ったように話題を変えた。ラムダは、「ええ」と首肯してポケギアの通信を切ろうとする。
その時、男の一人が自分を呼びかけた。
「ラムダさん。あの子供は……」
その声にラムダが目を向ける。視線の先にいたのは灰色の髪の少女だった。先ほど人質にした少女の一人だという事に気づき、ラムダは疑問符を浮かべた。
「どうして人質がここに?」
「分かりません。気づいたらここにいて」
困惑の眼差しを交わし合う中、赤い瞳の少女は告げる。
「ねぇ、おじさん達、怖い人?」
ラムダは顔をしかめた。先刻、恐怖を味わわせたはずなのに、少女の言葉にはそれを感じさせないものがあった。
「何言ってんだ、このガキ」
昂った精神で歩み寄りかけた男を手で制し、ラムダはポケギアの通信をオンにしたまま、「お嬢ちゃん」と声をかける。
「オレ達は悪い大人なんだぜぇ。何ついてきちゃってんのかなぁ」
「もしかして、気があるんじゃないんですか?」
男の一人が発した言葉にラムダは厳しい声音を振り向けた。
「よせ。そういうのはさっきの演技で充分だろう。オレ達ロケット団は崇高な理念で立っているんだ。ガキの前だからって必要以上に自分達を貶める事はない」
ラムダの声音に、「怖い人じゃないの?」と少女は小首を傾げる。男の一人が、「怖い人だよぉ」と少女の肩に触れた。それに注意する前に、「そっか」と少女が口にしていた。
次の瞬間、少女の肩に触れた男から見る見る間に血の気が引いた。一瞬にして青白い顔になった男はその場に倒れ伏す。ラムダは、「おい!」と呼びかけた。男はぴくりとも動かない。何が起こったのか。それを類推する前に、「ガキが!」ともう一人の男が片目を押さえながら手を伸ばす。
「そんなに乱暴されてぇか!」
その手が少女に触れる前に凍りついたように硬直した。男が目を見開く。ラムダもその様子が普通ではない事を悟った。
「何が……」
「おじさん、怖い人?」
赤い瞳が尋ねる。男は、「何しやがって……!」と声を張り上げようとする。その瞬間、指先が折れ曲がった。青い思念の光が纏いつき、男の五指を纏めて砕いていた。男が苦痛に喚く前に、「怖かったんだよ」と少女が呟く。
「とっても怖かった。それってあっちゃいけないの。怖いのは仕舞っちゃいなさい、って先生が言っていたから」
ラムダは空間を歪めて何かが発生するのを視界に入れた。紫色のガスが凝固し、黒い球体が実体化する。鋭角的な眼差しが光り、裂けた口腔を開く。
「ゴース」
そのポケモンの名を少女は紡ぐ。次の瞬間、ゴースと呼ばれたポケモンの背後に黒いシルエットが浮かび上がった。それが両手を伸ばし、男の首根っこを締め上げる。ラムダは黙って見つめるしか出来なかった。男がやく殺されていく様を。
やがて男を殺した黒いシルエットは消え去り、ゴースと少女が同時にラムダへと視線を移す。ラムダは立つ事も儘ならず首を横に振った。
「い、嫌だ……。何なんだ、お前は!」
「怖い人?」
まだ問いかける少女へとラムダは拾い上げた小石を投げつけた。小石は少女の頬を切りつける。少女は心底不思議そうに頬をさすった。血が滲んでおり、何度かの瞬きを繰り返してそれを認識したようだった。
「痛いね」
まるで他人事のような声にそら恐ろしくなる。ラムダは身も世もなく逃げ出したくなったがその足を何かが絡め取っていた。青い光が切り裂かれた足首から身体を這い登ってくる激痛がある。皮膚が捲れ上がっているのだと分かりラムダは悲鳴を上げた。
「助けて……」
「怖いのは、やだよ」
ゴースから黒いシルエットが浮き上がる。ラムダは絶叫した。