第二十五話「警戒網」
「何の役にも立たないじゃない」
呟かれた声にユキナリは、「失礼だな」と返していた。発言の元であるナツキは振り返りながら、「そもそも」と口を開いた。
「どうして同行者が一人増えるわけ?」
ナツキの視線はキクコへと向けられていた。攻撃的な眼差しにキクコがユキナリの袖を引いて隠れる。ユキナリは、「一人でも多いほうが気が紛れるだろ」と返す。
「それに、キクコさんをそのままにしておくわけにはいかないだろうが」
ユキナリが抗弁を発するとキクコはちょんちょんとユキナリの袖を引っ張った。「何?」と振り返ると、「……さんって呼ばれるのは、慣れてないので」と控えめな声が発せられる。
「ああ、ゴメン。でも、年上か年下かも分からないし……」
ユキナリが語尾を濁していると、「じゃあ呼び捨てでいいんじゃない?」とナツキが提案する。
「それはちょっと……。だってさっき会ったばかりだよ?」
「あ、私は別にいい。呼び捨てでも」
「ほら。キクコちゃんはそう言っているじゃない」
そう言いつつナツキはちゃん付けをしている辺り勝手だとユキナリは感じた。ユキナリはどうしてだか呼び捨ては憚られたがこの際仕方がない、と腹を決める。
「キクコ、は、変わったポケギアを付けているよね」
歯切れ悪く発した言葉にキクコは首から提げたネックレス型のポケギアを取り出す。
「ほとんどのトレーナーは腕時計型なのに」
「変わり者なんでしょ」
ナツキはキクコには素っ気ない。ユキナリはその後姿に続きながら洞窟を見渡した。野生のズバットが壁に張り付いており、時折羽音を響かせて端から端へと飛んだ。
「オツキミ山って思っていたよりもずっと地ならしされているな。やっぱりポケモンリーグがあるから事前にコース設定がされたんだろうなぁ」
ユキナリは足元を踏み締めて確認する。
「予め下見したにしては、杜撰だと思うけどね」
オツキミ山洞窟内部にはランタンが点在しており、特に暗くなる洞窟の奥地に向けては五メートルごとに設置されていた。ランタンの明かりに向けてズバットが突進する。
「良心的じゃないかなぁ。一応、山なんだし」
「でも、この洞窟内部で観測はされないわけでしょ? それって闇討ちされても文句は言えないって事じゃない」
「だからポケモン出してるんだろ」
ユキナリは足元に続くキバゴを見やった。ナツキの隣にもストライクが侍っている。いつでも迎え撃つ準備は出来ていたが、今のところ襲撃はない。安心半分、肩透かしを食らわされた気分もあった。内部は奇襲には打ってつけだ。ここでポイントを荒稼ぎ、という輩がいても不思議ではない。暗がりで分からなかったが戦闘が散発している様子もなく、洞窟は静寂に保たれていた。
「……おかしい。静か過ぎる」
ユキナリが足を止める。ナツキが振り返り、「平和って事でしょ」と言ったがそれだけでは解決しないと感じられた。
「いいや、おかしいよ。全く戦闘の気配がないんだ」
ポイントを稼ぎ、戦う事でしか玉座は目指せない。だというのにこの暗がりに乗じて何もして来ないなどあるはずがない。
「あたし達のところには偶然来ないとか」
「それにしたって周囲に敵の気配すらないって」
ユキナリの疑問に、「分かった」とナツキはストライクへと指示を飛ばした。
「あたしのストライクで周囲を確認する」
「でも、ナツキだけで」
「キバゴじゃそう遠くに行かせられないでしょ」
翅のあるストライクならば適任だとナツキは買って出た。しかし、ナツキを一人にする事にユキナリは一抹の不安もあった。
「ナツキ。もしもの時は」
普段にはない緊張の声音に、「報せるわよ。分かってる」とナツキは首肯する。
「ストライク。行くわよ」
ストライクを伴ってナツキが暗がりへと進んでいく。ユキナリは動かないのが吉だと感じてその場に留まった。キクコが、「あの」と口を開く。
「いいの? 行かせて」
「ああ。周囲に敵の気配はないし、すぐに帰ってくるだろうと思う」
ユキナリの言葉に、「ううん」とキクコはすぐに応じた。怪訝そうな眼差しを送る前に、「敵はいるよ」とキクコは断じた。
「いるって、どこに」
「先ほどから、私達を見てる。三人。じっとしているから分かりづらいだろうけれど」
キクコの言葉にユキナリはすぐに周囲を見渡したがそれらしい気配は探れない。キクコは鋭い眼差しを暗闇へと投げている。赤い瞳が細められ、「一人が」と口にした。
「ナツキさんのところへ」
その言葉にユキナリはナツキが消えていった暗がりへと視線を向けたがナツキからの報せはない。
――まさか、既に敵に?
嫌な予感が蔓延する。姿を隠しているのか、それとも潜んでいるのか、それすら分からない。ユキナリが迷いを持て余していると、「一人が」とキクコが告げた。
「こちらへ」
身体を強張らせる。ユキナリは緊張を走らせた。キバゴもそれに同期したように身構える。すると暗闇から人影が歩み出てきた。「そこで止まれ」とユキナリは自分らしからぬ厳しい声を出していた。
「どうして近づいてくる?」
「ど、毒にやられちまって……。ズバットに噛み付かれた。毒消しを持っていないか?」
男の声だった。暗がりで顔までは分からない。
「毒? 本当か?」
疑う声に、「何で疑うんだよぉ」と男は情けない声を出した。
「この暗がりでズバットに噛みつかれれば終わりだ。毒消しをくれ! 持っていないのか?」
ユキナリは人間用の毒消しも鞄に詰め込まれている事を思い出したがその前に相手の身分を明らかにしてもらう必要があった。
「あなたは誰です? それが分かれば渡します」
「オレかぁ? オレはラムダ。なぁ、もうちょっと近づかせてくれよ。怪しい者じゃないんだって」
決死の声に聞こえたがキクコは「敵」なのだと言う。ユキナリは完全に信じ込む事はなれなかった。大人の男の声だというのが余計に警戒心を強める結果になったのかもしれない。
「信用なりませんね。僕達はこれでも余裕がない」
「オレだってそうだよぉ。毒が回ったら死ぬんだぜ?」
必死の声に本当に毒が回っているのかも知れない、とユキナリは踏み出そうとした。その袖口をキクコは引っ張る。彼女は首を横に振った。
「でも、もし本当に怪我をしているのなら」
「そんな事はない」
どうしてだか断言する響きにユキナリが逡巡していると、ラムダと名乗った男は悲鳴を上げた。
「駄目だ……、意識が、朦朧と……」
これは本当にまずい声だ、とユキナリは判じてキクコの制止を振り切って歩み寄る。「大丈夫ですか?」と近づくと男は痩せぎすで紫色の髪の毛をしているのが分かった。
「今、毒消しを……」
ユキナリが鞄へと手を伸ばそうとした、その瞬間である。
「電磁波」
ラムダの放った短い命令の声にユキナリは手の甲を電流が貫いたのを感じ取った。痛みに顔をしかめる。毒消しを取り出そうとした右手の甲が痙攣していた。
「何を……」
「やれやれだねぃ。お子ちゃまってのは騙しやすくって」
ラムダは何でもない事のように立ち上がりユキナリを見下ろした。ユキナリは今さらの感情を浮かべる。
「騙したな」
「騙されるほうが悪いんだよ。監視がないんだぜ? だったら、騙し合いには慣れたもん勝ちってな。おい」
呼びかけた声に、「へい」ともう一人の男の声が耳朶を打った。ユキナリが振り返るとキクコが手首を掴まれている。その手からモンスターボールが零れ落ちた。
「やれやれだねぃ。どうやらその子のほうが抜かりないらしい。オレの事を最後の最後まで信用ならないって思っていたみたいだしよぉ」
ラムダが手でひさしを作ってキクコを観察する。キクコは手首を掴まれてほとんど無力化された様子だ。抵抗する気配もない。
「何をする気だ!」
張り上げた声に、「ポイントをごっそりいただくのさ」とラムダは下卑た笑みを浮かべた。
「その後は、まぁ、どうとでも」
ユキナリは歯噛みする。好き勝手にさせるわけにはいかなかった。「キバゴ!」と名を呼ぶと身を沈めていたキバゴが躍り上がる。
「ダブルチョップで無力化しろ!」
「うお、見た事のねぇポケモンだな。だが、電磁波のフィールドは既に張られているんだぜ?」
その言葉の直後、目に見えるほどの電流が視界を横切った。ちょうどラムダともう一人の男を結ぶ形で一本の電流の線が走っている。ユキナリは、「何を……」と声を詰まらせた。
「電磁波でトレーナーをやりゃあ、モンスターボール開閉は出来なくなる。それは同時に、オレ達が奪える絶好の隙があるって事さ」
「奪う? ポイントをか」
ユキナリの言葉にラムダは、「小さいねぇ」と肩を竦めた。
「ポケモンだって奪う対象になるんだぜ?」
放たれた言葉に、「馬鹿な」とユキナリは言う。
「ポケモンの乱獲は大会の規定違反だ」
「だからさ、既に捕まえてあるポケモンを奪うわけよ。個体識別番号で戦うポケモンは確かに限られている。でも、所有自体は禁じられていない。それを横流しすれば、金とポイントを得られるわけ。分かるかい? 色男君よ」
ラムダはわざわざユキナリと同じ目線に立って喋った。今すぐにでもその鼻筋に噛み付きたい気分だったが右手を押し包んでいる電流が強まり手枷のように痛んだ。
「キバゴ! 相手のポケモンがいるはずだ!」
「お優しいねぇ。この状況でもポケモンを狙うとは。でもよ、多分見えないぜ。ご自慢のキバゴとやらでも」
ユキナリはそんなはずはないと視線で探したが電流以外相手ポケモンの存在を示唆するものはなかった。鳴き声も、気配も感じられない。
「見えない、ポケモン……」
目を戦慄かせると、「怖いだろぉ?」とラムダは挑発した。ユキナリは屈しないという意思の現れのように睨み付ける。「おお、怖い」とラムダがおどけた。
「だがよ、色男君。お前の連れはどうなんだろうなぁ」
その言葉にユキナリはキクコへと目を向ける。男の太い指先がキクコの顎にかかった。ユキナリは叫ぶ。
「やめろ! キクコは関係ないだろう!」
「関係なくはねぇだろ? お前の連れだ。当然、オレ達の略奪の対象になるわけだよな?」
ユキナリは歯軋りを漏らしキバゴへと命じた。
「キバゴ! こいつらをぶっ潰してくれ!」
もうトレーナーを狙わないだとかいう範疇を超えている。ユキナリの怒りを引き移したかのようなキバゴは片牙をラムダへと打ち下ろそうとした。しかし、突然固まった土くれが持ち上がったかと思うとキバゴの攻撃を弾いた。
「何だ?」
それは黒い塊だった。異様なのは白い単眼だ。その中心に小さな瞳孔があった。細められ、ポケモンだ、という判断がようやく下せた。
「これは――」
「コイル」
電磁の網を広げてU字型磁石を両端につけた球体の全貌が露になる。鉛色の体表を電流が波打っている。電気ポケモンか、とユキナリは自身に降りかかっている攻撃も鑑みて判断した。
「でも、どうして接近に気づけなかった?」
キバゴも、もっと言えばナツキだって先ほどまで同行していた。だというのにキクコ以外、誰一人として敵だという判断を下せなかった。ユキナリはコイルと呼ばれたポケモンにこびりついている黒い砂礫を目にした。ざざっ、と身体から零れ落ちる。それがびっしりと体表に張り付き、コイルの身体をまるで迷彩のようにカモフラージュしているのだ。正体不明の物体は攻撃の範疇かもしれない。ユキナリは慎重にならざるを得なかった。
「どうやらお前ら、トレーナー初心者みたいだな。ちょどいいぜ。ポイント稼ぎにゃよう!」
ラムダの声にユキナリは舌打ちを漏らした。キバゴが飛びかかるが、コイルは黒い砂のような影を残して横に移動する。掻っ切ったのは黒い砂だ。ユキナリはその正体を看破する。
「砂鉄……!」
「コイルは磁力を操る。砂鉄を集めてその姿を見えなくした」
ユキナリはまんまと相手の範囲に入ってしまった事を悔やんだ。砂鉄はオツキミ山の至るところにある。最初から張られていたのだ。
自分一人では勝てない。ユキナリは経験が浅いなりに理解していた。
ナツキが帰ってくれれば少しでも戦力になる。それを期待して目線を暗闇に送っていると、「そろそろかな」とラムダが舌なめずりした。どういう事なのか、とユキナリが窺っていると闇の中から二つの足音が聞こえてきた。
現れた影に絶句する。ナツキとストライクが、後方の男に両手を上げさせられていた。ストライクは鎌を電磁の網で縛られている。ナツキは両手をユキナリと同様に痺れさせられているようだった。
「……ナツキ」
絶望的に口にするとナツキは、「やられたわ」と吐き捨てる。
「こいつら、最初からあたし達を張っていたのよ。分散するのを待っていた。この段階に至るまでね」
つまり最初から踊らされていたという事なのか。その事実にユキナリは視界が揺れるのを感じた。
「気づかないのが悪いんだよぉ」とラムダが甲高い笑い声を上げる。
「子供だけでここまで来るのは危険だったなぁ。まぁ、正義ぶった大人がついていても、オレ達にかかればいちころだが」
背を丸めて卑屈に嗤うラムダに対してユキナリは怒りの沸点を超えた声を上げる。
「キバゴ! そいつらをやれ!」