第十五話「空牙」
「キバゴの左側の牙が生えてこないのには、多分、理由があるんじゃないのかな」
博士は「ダブルチョップ」の鍛錬中、出し抜けに口にする。ユキナリとしては習得したばかりの「ダブルチョップ」をどうにか実戦で使えるように仕立て上げるので精一杯でその事には頭が回っていなかった。いや、本当ならば考えるところであろうが、キバゴは元々そういうポケモンなのではないかと諦めていた。
「人間の永久歯と同じで、一度折れると生えないんじゃないんですか?」
「いや、キバゴはまだ成長途中だよ。現に見てみなさい」
博士が呼びつけると、キバゴへとユキナリは行くように指示をした。もうキバゴはユキナリ以外の命令は聞かなくなっている。お陰でナツキともやり合えるようになったが、それでも勝率が三割を超える事はない。キバゴの鋭い牙へと博士は臆する事なく手を伸ばす。研究者としての血が騒いでいるのだろう。
「やっぱりそうだ」と博士は納得したように頷く。
「何がやっぱりなんです?」
「この牙を見たまえよ」
博士が指差したのはキバゴの右側の牙だ。ユキナリが覗き込むと、何度かの研鑽があったお陰か、最初より逞しくなったような気がする。
「ちょっと太くなりました?」
「それもあるが、牙の光沢を見てくれ」
博士の言葉にユキナリは注目する。乳褐色に近い牙は太陽の光を受けて照り輝いている。
「……何だか、前よりもつやがよくなったような……」
「そうなんだよ。私も深く観察したわけではないが明らかに! 戦いの度、キバゴの牙は強固に、さらに強い段階へと進化している」
熱弁を振るう博士へと、「でも、気のせいかもしれませんよ」とユキナリは冷静な声を返す。
「いいや、気のせいではない。キバゴの牙は磨かれれば磨かれるほど強くなる。打たれれば打たれるほど、さらに鋭く、攻撃に適した形になるはずだ。よぉく、見てくれよ」
博士はそう言ってキバゴの牙へと手を伸ばす。覚えずユキナリは目を瞑った。博士はキバゴの牙を撫でた。それだけで薄皮が捲れていた。
「最初はこんなにも鋭く、攻撃的な牙ではなかった。それは私が保証する。やはり強くなるのだ。骨折と同じさ。折れればなおさらだろう」
ユキナリはだとすれば余計に分からない、とキバゴの左側を見やる。折れた牙は一向に再生の気配はない。
「でも、牙が折れた状態で発見されたんですよね? だったら、折れた牙はもう生えないのでは?」
「かもしれないが、私は折れた牙は生えないのではなく、生える必要がないのではないのかと考える」
ユキナリは小首を傾げた。どういう意味なのか。
「ユキナリー! 博士ー! 次の試合は?」
痺れを切らしたのかナツキが呼びかけてくる。「ちょっと待てって」とユキナリは応じた。
「生える必要がないってのは?」
「この牙には既に役割が与えられていると見るべきだろう」
「でもダブルチョップの際にキバゴはこっちも使おうとしますよね? それなのに、毎回失敗する」
だとすれば本来、牙が生えているのが正しいのではないか。博士は、「推論だが……」と前置きした。
「何かしら意味があるのではないかな。あえて、キバゴ自身が牙の再生能力を抑制している」
「何のために?」
それこそ意味が分からない。自分の武器を使おうとしない理由など。博士はユキナリへろ向き返り、「ちょっと試そう」と懐からモンスターボールを取り出した。投擲して出現したのは黄色い四速歩行のポケモンだ。背が高く、尻尾が影のように黒い。長い首の先には耳を有しており、一見すると馬の様相なのだが、尻尾にも口と眼があり、どっちが前なのか分からなかった。黄色を基調としていながらピンク色の鬣が印象的で鼻もその色だ。
「キリンリキ、というポケモンだ」
博士はそう説明してキリンリキの首を撫でる。よくしつけられているのか、キリンリキはくすぐったそうに顔を振るった。
「ユキナリ君。キリンリキは遠距離型、ノーマル・エスパーのポケモン。近距離型のキバゴとは相性がよくないと思われるが」
博士はそこで言葉を切り、一つ提案をした。
「キリンリキでキバゴのもう片方の牙、そうだな、こちらを片牙とするのなら何もない牙、
空牙か。
空牙の能力を引き出そう」
ユキナリは当然驚愕する。そんな事が出来るのか。
「どうやって?」
「遠距離攻撃をぶつけてみよう。今までストライクとばかりやり合ってきたから遠距離の相手は初めてのはずだ」
キリンリキが影色の尻尾を逆立たせてキバゴを睨み据える。するとキバゴの周囲に青い光の幕が降り立った。瞬く間にキバゴが包み込まれ、籠のように絡みつく。
「サイコキネシス。これをキバゴはどう破る?」
ユキナリは見ていて不安だった。「大丈夫でしょうね?」と博士に問う。博士は事の成り行きに興味があるのか、「どうにかするはずなんだ」と繰り返した。
「そうでなければ、キバゴが一体で生き残れるわけがない」
その時、キバゴを押し包もうとしていた「サイコキネシス」の光が突然乱れ、集束した。吸い込まれるように青い光がキバゴの
空牙へと集まってくる。ユキナリは呆然としていたが博士はどこか確信を得た表情だった。
空牙を振るうと一瞬で「サイコキネシス」の呪縛を振り解いた。空中に持ち上げられていたキバゴは地面へとしこたま頭を打つが特に気に留めた様子はない。先ほどまでと同じように歩き出す。
「博士、今のは……」
「うん。やはり
空牙にも意味があったか」
博士は
空牙のほうへと手を伸ばす。しかし、当然の事ながら
空牙に攻撃性能はなかった。先ほどの像をなぞるように博士は指を振った後、「これはキバゴが習得しているもう一方の性能だ」と告げた。
「もう一方の、性能?」
ユキナリの疑問を他所に博士は、「これがあるからキバゴは生き残ったんだろうねぇ」と呟く。
「
空牙の意味があるって事ですか?」
「ユキナリ君。ここに何が見える?」
博士が指差したのは
空牙のほうだ。先ほどまでは青い光が纏いつき、牙の形状をなしているのが映ったが今は何もない。ユキナリは、「何も」と答える。博士は首肯し、「そう、今は、何もない」とその部分を指差した。
「だが、我々人間に感知出来る光、主に視界と呼ばれる範囲にある波長は800ナノメートルから400ナノメートル。光の三原色の組み合わせによってしか、人間の受容器では視覚化する事が出来ない」
博士の言わんとしている事が分からずユキナリは、「何を」と口にした。
「つまりだ、ユキナリ君。ポケモンにどれだけの範囲が見えているのか分からないが、キバゴは我々では捉えようのない光の域まで波長として捉えている。その波長を恐らくは相殺させ、
空牙に何かがあるように見せている」
ユキナリは博士の説明の意図が分からなかった。つまり
空牙には攻撃性能がないのか。
「
空牙には、何も出来ないって事ですか?」
「違うよ。いいかい? 波長は、人間からしてみれば、それは色を認識するためのものだが、ポケモンには違う。攻撃性能のある波長がぶつかってくる事もある。ちょうどさっきのサイコキネシスが好例だ。サイコキネシスは人間の眼にも見えるが、ポケモンの目にもああ見えているとは限らない。それこそ、様々なベクトルの力関係が映っているのかもしれない。キバゴはそれを視覚化する。
空牙は相手の波長を捕捉する機能を持つキバゴなりの感覚器の一つだと考えればいい」
そこまで言われればユキナリにも思い当たる節はあった。
「つまり、虫ポケモンの触覚や僕らの手足みたいなものですか?」
「そう。キバゴの
空牙はただ折れているんじゃない。キバゴは片方の牙を喪失した代わりに、新たなる生存手段を導き出した。それこそが
空牙だ」
博士の結論に、しかしユキナリは納得出来ない。
「だとしても、それを有効活用する手段が……」
肩を竦めていると、「それをこれから見つけるのさ」と博士は前向きだった。
「もしかしたらある一定の攻撃を偏向するほどの力を秘めているかもしれない。あるいは、この
空牙を相手の攻撃のキャンセルとして捉えるのもありかな。サイコキネシスを自分の牙でキャンセルし、その余剰エネルギーを攻撃に割いた」
「難しい事は分かりませんよ」
ユキナリはお手上げしたい気分だったが博士は好奇心が尽きないのかそのまま続ける。
「ユキナリ君。ただ一つ言えるのは、我々にはただ折れているだけに見えるこの牙はキバゴにとっては在るんだ。だから、新たな牙が生えてこない。そして、なのかは分からないが、この牙にはある一定の攻撃を弾き返す特性がある」
「それが、キバゴの特性ですか?」
「いいや、特性とはまた別のもの。いわば体質だよ。キバゴには相手の攻撃を打ち消す術がある。これは大きいぞ」
喜びを隠そうともしない博士に、「何が大きいんですか?」とユキナリはいい加減うんざりし始めていた。先ほどからまるで話が見えない。博士は、「考えてもみてくれ」と一度落ち着く。
「相手の遠距離攻撃を打ち消す、というのはつまり接近戦を得意とするキバゴにとっては有利なんだ。そして、この
空牙にエネルギーが充足されている間だけ、もし、通常の牙と同じ性能を発揮するとすれば」
そこまで言われればユキナリでも思考の行き着く先があった。
「――ダブルチョップは有効となる」