第十話「氷の少年」
本当に、それだけのつもりだった。
余計な事を言えば嫌われる、という意識もあったのかもしれないが自分にとってそのような女々しい意識は希薄だろうと冷静に分析する。自分はただ勝てばいい。父親もそれを望んでいるはずだ。ジョウトの地に戻された母親も、同じであろう。
ヤナギは左手に備えたポケギアを見やる。お陰で母親との会話も容易に出来るようになった。この開発に感謝はしたが、同時にこれがポケモンリーグ参加トレーナー必須アイテムとして登録された事で、恩恵の道具は忌むべき対象にもなった。母親と話せる便利な道具だとただ単純に思えるのならばどれほど楽か。これは首輪だ、とヤナギは感じていた。恐らくはポケモントレーナーを監視するための。このポケモンリーグという歯車を潤滑に回すための。
舌打ちを漏らし、ヤナギはセキエイ高原の壁を殴りつけた。収まらない噴煙のような燻りが自分の中にある。この燻りを解消せねば。そう感じていると手前から誰かが歩いてくるのが気配で伝わった。覚えず壁際に身体を寄せてやり過ごそうとする。父親と会話していた事がばれればお互いに動き難いだろう、と判じたからだった。大人達は何かしら言葉を交わしている。その中の断片的情報だけが耳に入った。
「……実戦投入は危険ではないか?」
「何を言う。……は実戦を経て完成する」
「しかし、……メンタルバランスが不安定だ。改良と改善を施さなくては」
「もう猶予はない」
一際通る声はヤナギにも聞き覚えがあった。キクコやその他の仮面の少年少女達を管理していた「先生」と呼ばれる女性の声だ。どうしてこんなところで、と思う間に、「やらねばならぬ」と先生は告げた。
「それが我らの悲願ならば」
その意味するところはヤナギには全く分からなかった。ただ正体不明の焦燥に駆られた。彼らが通り過ぎてからヤナギはいつもの道を駆け抜けた。一刻も早く、顔を見たい。その一心で、ヤナギは中庭に出る。そこには灰色の髪の少女が仮面を被って編み物をしていた。ヤナギが歩み出るとその気配を察したのか少女はハッとしてこちらを振り返る。
「ヤナギ君」
控えめな声にヤナギは安堵する胸の内を感じた。会わねば、と思っていたのだ。
「キクコ」
その名を呼ぶとキクコは仮面をずらして顔を見せた。どこか気後れしたように微笑む。ヤナギはキクコの手にある編み物を見やった。
「それは?」
尋ねるとキクコは慌ててそれを背中に隠した。何なのだろう、と感じていると、「内緒だから」とキクコは上ずった声を出す。
「内緒?」
「だって、ヤナギ君に内緒で作っていたのに。そんな、ばれちゃうなんて……」
後悔を滲ませた声にどういう事だろうとヤナギは思っているとキクコは顔を伏せて紅潮した。何か悪い事でもしただろうか。
「キクコ?」
「そのっ……、これっ!」
キクコは編み物を思い切ったようにヤナギへと差し出す。それは白色のマフラーだった。ぽかんとしているとキクコは早口で言った。
「その、下手だけど、作ったの。ヤナギ君、いつも寒そうだけれど、マフラーはしていないから、持っていないのかなって思って。でも、下手だから! 本当、下手だから! いらないかもしれないけれど」
キクコは何度か頭を振って、「ゴメン、やっぱり……」と仕舞おうとした。その手をヤナギは握る。キクコはハッとしたように顔を上げた。
「いらないわけないだろう。ありがとう、キクコ」
ヤナギの柔らかな声音にキクコは安堵したのか、瞳を潤ませる。「泣くなって」とヤナギはおどける声を出した。
「そんな大層な事じゃないだろ」
いや、キクコにとっては一大決心だったのかもしれない。だがヤナギは純粋に嬉しかった。キクコが自分のために何かをしてくれた事が。同時にヤナギは確認していた。キクコの両手にはポケギアはない。どうやら杞憂だったようだ、と自らの急いた思考をいさめる。そもそも、どうしてキクコがそのような対象になるのか。彼女のポケモンは――。
「ねぇ、ヤナギ君。手首、掴みっ放し……」
恥らう素振りを見せたキクコにヤナギまで釣られて赤くなってしまう。「ご、ごめん」と手を離してしまうが、微妙な距離感が開いてしまい次の言葉が発しづらくなった。
どうするべきか、と沈黙を繰っていると、「つけてみて」とキクコが何の打算もない声を発する。ヤナギは手にあるマフラーに視線を落とし、自分の首もとに巻いてみた。キクコが手を叩く。
「やっぱり! 似合う!」
ヤナギは自分の身の丈ほどもあるマフラーの全長に辟易していたが表情には出さなかった。キクコが一生懸命作ってくれたのだ。
「ありがとう」
こちらも打算のない感謝を述べるとキクコは、「変だったら言ってね」ともじもじした。
「もし、肌触りが悪いとか、編み加減がおかしいとかあったら」
「大丈夫だよ。見ての通り、ぴったりだ」
ヤナギの発した言葉にキクコは安心したようだ。ヤナギもまた、キクコへと尋ねる事があったのだが今は保留にしておいた。ポケモンリーグに参加しないのならば勘繰る事でもない。
「キクコ。俺は、王になる」
改めてキクコの前で宣言したかった。キクコはその意味を解していないようだ。少しばかりきょとんとしている。良くも悪くも浮世離れしているのがキクコという少女だった。
「王になって、その時に迎えに来るよ」
このちっぽけな中庭から。ヤナギは空を仰ぐ。閉ざされたような中庭から望める暮れかけた空は狭い。キクコにはもっと大きな空を見せてやりたい。そのために自分は戦う。自分の理由なんてその程度でいい。
キクコは意味が分かっていないのか小首を傾げる。「いずれ分かるさ」とヤナギは頷いた。キクコも、「うん」と微笑む。
「マフラーありがとう。大切にするよ」
ヤナギはそう言い置いてキクコの下を離れた。また一緒にいれば「先生」に咎められるかもしれないからだ。
ヤナギはセキエイ高原から出ているバスに乗車し、トキワシティに向かった。トキワシティにはこの二ヶ月で新たに設営された選手村が栄えている。いつでも昼間のお祭り騒ぎが繰り広げられていた。殊に今夜は前夜祭が催されるだろう。人々の熱狂は最高潮に達するに違いない。ヤナギはどこか醒めた頭でそれを考えていた。
自分には人々の営みなど関係がない。ただ聳え立つ敵を討てばいい。自分とキクコの未来のために。他はいらないと断じられる強さがあった。
ヤナギはトキワシティの選手村にある自室へと戻ろうとした。その背中へと声がかかる。
「よう、ボウズ」
振り返ると前夜祭だからか、顔を赤らめた男達が歩み寄ってくる。三人の屈強な男はモンスターボールを携えていた。つまりは参加者だ。
「何か?」
ヤナギが冷静に声を返すので男の一人が、「カッチョイーねー」と囃し立てる。
「参加者だろ。ちょっと金貸してくれよ」
トキワシティに集まる参加者は皆、多かれ少なかれ金を持っている。それは暗黙の了解であった。参加費がまず高いためにある程度の富裕層が参加する事は想像に難くない。
ヤナギは無言を返した。それが気に入らなかったのか男は頤を突き出す。
「おい」
低く押し殺した声にもう二人がヤナギの道を遮るように立った。ヤナギはため息混じりに口にする。
「何の真似だ?」
「何の真似もあるかよ。金出せって言ってんだろ」
男の口調が乱暴になった。ヤナギはフッと口元に笑みを浮かべる。「何がおかしい!」と男達がいきり立った。
「低俗なサル共が。そう青筋を立てるな。底が知れるぞ」
ヤナギの思わぬ言葉に男は酒で赤らんだ顔をさらに赤くした。モンスターボールのホルスターへと二人が手を伸ばす。「運の尽き、って奴だぜ。ボウズ」と男が懐からナイフを取り出した。
「明日の参加を前にして、どうやら出場辞退みたいだなぁ」
ナイフが掲げられ銀色の輝きが視界に入る。しかしヤナギは冷静に事を俯瞰していた。
「そうだな。少なくとも」
ヤナギが男達を指差す。「三人は」と告げられた言葉に男達が呆然とした。
「三人の出場枠が失われるのはもったいないな。それだけ欲しいものが買えたというのに」
「ガキぃ!」
ナイフの男が掴みかかってくる。その手がマフラーに触れた瞬間、ヤナギは怒りを露にした。
「汚らわしい手で、このマフラーを掴むんじゃない!」
振り払い様にヤナギはモンスターボールを突き出す。その威容に一瞬だけ男達がたじろいだが、「なんて事はねぇ」とせせら笑った。
「どうせ、てめぇみたいなのは最初のほうでリタイヤする底の浅いポケモンだろうがよぉ。親の威光で出てるんだかしらねぇが」
「そう思うのならば、こいつの一撃を受けてみろ」
ヤナギは親指と人差し指を使い、ボール上部のネジを回転させる。緩まったボールから圧縮された蒸気が噴出し、その場にポケモンが現れた。男達が息を呑む。その視界の先にいたのは――あまりにも小さいポケモンだった。
足首までもない大きさで、茶色い毛むくじゃらのポケモンである。小さな糸目と豚鼻を有しており、足も未発達に映った。男は一瞬でも緊張状態に置かれた自分達を嘲るように、「何だ、そのポケモン」と笑みを交わし合った。
「ちっちぇえ奴だな。そんなので俺達のポケモンを出すまでもねぇ。ガキ。金を出しな」
男が再びナイフを掲げようとするが、その刃先から凍てついた空気が噴き出した。「何を――!」と男が声に出す前にナイフを掴んだ手が凍結した。一瞬にしてナイフと手が氷によって括りつけられる。男が瞠目している間にヤナギはにたりと笑みを浮かべた。
「瞬間冷却、レベル1」
「何をしやがった!」
後ろの二人がヤナギを組み伏せようとする。しかし、それが果たされる前に指先から血色が失われた。手を覆った侵食は腕から血の気を奪い、茶色く変色していく。ヤナギの肩を掴もうとした指は、ぼろぼろと崩れ落ちた。その事実に男達は歴然とする。
「血液凍結、レベル1。お前らにはレベル1の凍結精度で充分だな」
ヤナギが顎をしゃくり、「そのナイフ」と口にした。今、この場で未だ両手が健在なのはナイフの男だけだ。
「今すぐ病院に行け。そうすれば凍傷も酷くはならない」
その言葉に男は逆上してナイフを振り上げる。
「嘗めんな、ガキが!」
「――やれやれ。それでも愚を犯すか。一つ、伝え忘れていたが」
ヤナギが指を立てると男の凍てついた手が振るわれた傍から剥がれ落ちた。ナイフをヤナギに突き立てるかに思われた男は自らの手が崩壊した事に狼狽を隠せないようである。何度か声にならない悲鳴を上げていると、「凍てついた体温は錯覚する」とヤナギが冷徹に告げる。
「まだ動くのか、動かないのか、その境目が分からなくなる。自分でも無意識のうちに組織の崩壊を早めている場合がある。そして今、お前は動かない、いわば氷の彫刻と化した腕を力一杯振るったわけだ。極度の低温に晒された人体はすぐに壊死する。それを俺のポケモンが皮一枚で防いでいたのだが、その必要はないらしい」
男はナイフを持っていた腕だけではない、身体中の感覚器の麻痺についていけないようだ。血走った眼で男がヤナギを見つめる。その瞳孔が収縮し、瞬く間に凍り付いていく。
「既にお前らは氷の虜にある。――凍てて死ね」
ヤナギが指を鳴らすと、男達はその場に膝をついて倒れた。ヤナギはポケモンをボールに戻す。余計な時間を食ってしまった。ヤナギは何食わぬ顔で選手村にある宿舎へと向かう道を歩いていった。