第九話「隔絶」
大きな動きはない。
カンザキは窓辺から窺える仮面の少年少女を視界に入れる。今日まで、彼らが大きく何かを行った形跡はなかった。だが、油断は出来ない、とカンザキは強く感じている。それは彼らが全くの無害となった、というわけでは決してないのだ。
「……いや、そもそも害悪なのか」
問いかけてみても答えは出ない。仮面の人々に関する出自をカンザキは洗おうとしたが、頑なに人々は口を閉ざし、「あれには関わらないほうがいい」という意味深な言葉を吐いてカンザキの視界から消えていった。
カンザキは時折、あの仮面の人々がカントーにとって何の災厄でもなく、むしろあらねばならぬ存在なのではないかと考える事もあったが、それにしては不穏分子という意味合いを含んでいる。第一回ポケモンリーグを取り仕切るに当たり、彼らの存在は特に大きかったわけではない。むしろ、ほとんどの介入はなかった。カンザキと他数名の重役で決められる会議にも彼らは出席しない。しかし、王の崩御の時、彼らは一番にそれを伝えに来た。カンザキは全くの無関係ではないと感じていた。
「王の死。その直接の原因ならば……」
ならば、どうするというのだ。結びかけた言葉が霧散する。王のために、今さら義憤の徒にでもなろうというのか。馬鹿な。最早後には退けぬのはカンザキとて同じだ。
暮れかけた夕日がセキエイ高原を照らし出す。セキエイ高原の表す色は石英、つまりは無色透明。その色は時勢や人間によって左右される。斜陽の時にあるのならば、その身を赤く染め、宵闇の中にあるのならば青く横たえ、真昼の陽射しの下にあれば、その身は照り輝く。
まさに千差万別。あらゆる色合いを含むのがセキエイという場所であり、同時に、王の存在が不可欠であったのもここならば頷ける。カントーの民の間にはまだ王の不在は大きな隔たりとして介在していないかもしれない。だが、いずれはこの喪失感をカントーの民草が受ける事になるのだ。
カンザキはセキエイ高原の地にてそれを感じていた。大きな虚無。喪失の苦しみ。どうとでも言い換えられるが、重要なのはその感傷をカントーの民が味わってはならない。そのためのポケモンリーグだ。カンザキは執務机にある電話を手に取った。自然と繋げる相手は決まっていた。念のため秘匿回線に紛れ込ませ、カンザキは数回コールする。すると、相手が出た。
『はい』
「私だ。カンザキだ」
電話口の相手はさして驚くでもなくむしろ当然のようにその声を受け容れる。
『そろそろ来るのだと思っていましたよ』
「ヤグルマ記者。ついに明日に迫ったポケモンリーグ開催。どうなっている?」
『どうって言うと、随分と慌しい、というのが本音ですが……。ああ、今デスクなんでちょっと外しますね』
「頼むよ」
カンザキはヤグルマが歩きながら話すつもりなのだと感じ取った。誰かに聞きとがめられれば、というのがあるのだろう。
『カンザキ執行官。集められるだけの資料を集めました。そこで得た私の推論なんですが、やはりきな臭いですよ。仮面の人々はね』
ヤグルマが自分に得られない情報を得るのは難しい事ではないと考えていた。元より、自分に接触してきた男の腹など知れたものではないが、それだけのコネクションを瞬時に持ちえる人間ならば蜘蛛の巣のようにネットワークがあっても不思議はない。
「私は全くの無駄だった。この二ヶ月、手を尽くしたつもりだったが、情報はほとんど手に入らなかった」
その言葉すらブラフの可能性はある。それを汲んだのか、『情報は手に入った速度ではないです』とヤグルマが返した。
『正確さと速さ、両方を備えていなければガセだって情報として機能する。カンザキ執行官、あなたに求められているのは正確さ。私の場合は速さです。一人では決して、この闇を掻いていく事は出来ない』
それは暗に共存関係がうまくいっていると言いたいのか。カンザキの考えを他所に、『あらゆる方面の専門家と、私は話しています』とヤグルマは続けた。
「専門家……」
二ヶ月前に情報を盗み見ようとした知り合いの事も含んでいるのだろうか。カンザキは独自の線を持ってヤグルマの事も内偵した。その結果、彼に協力者が複数いる事は確定したのだが、その協力者そのものが点在しており、今回のポケモンリーグ参加者、という人間も少なくない。カンザキはここであえて鎌をかけてみる事にした。
「マサキ、という人間の事か?」
協力者の一人として炙り出せた名前だが、それ以外の素性は一切不明。タマムシ大学出の人間である、という部分程度しか知らない。しかし、ヤグルマは感嘆したように声を上げた。
『へぇ。調べられたので?』
「随分と親しいようだ」
手元にあるのはマサキとヤグルマとの通信記録だ。しかし、これはただの記録であって、何を話されたのか、何の情報が交換されたのかに関しては依然、謎のままだ。
自分の放ったカードにどう対応するか。カンザキはその動きからヤグルマという男の本質を探ろうとしていたが次には発せられたのは意外な声だった。
『マサキは私の親友です。今回、最も信頼を寄せている人物。情報戦において彼に勝る人材はいない』
なんと、ヤグルマは自分からマサキとの関係を話し始めた。しかし、これはヤグルマからしてみれば策の一つなのだと、カンザキは早々に実感した。こちらにマサキとヤグルマを追い詰める決定的なカードがない以上、話された内容が全てだ。ここからさらに探りを入れれば、こちらの持っている情報量が分かる。逆にそれ以上探りを入れられなければ、こちらの持っているのはその程度だと判断がつけられる。やられた、とカンザキは思うと同時に食えない男だと痛感した。
『マサキは今回のポケモンリーグには不参加ですが、彼はシルフカンパニーにも顔が利く。裏方としては会う機会もあるでしょう』
ヤグルマはあえて開示した情報によって、自分の安全は確定されたと宣言しているようなものだ。同時に自分とヤグルマの密談はそこまでなのであって、マサキとやらと他の協力者に関して自分の差し挟む口はない。
「なるほどな。では、一つ。君の見解を聞きたいんだが」
カンザキは執務椅子に座って話題の矛先を変えた。
『なんでしょう?』
「今回のポケモンリーグ、勝つ見込みのある人間は絞れたか」
『それは、王の資質のある人間は、という事ですかね』
沈黙を是とすると潜めたような笑い声が聞こえてきた。眉をひそめていると、『失敬』とヤグルマが返す。
『優勝候補の選出はそちらの専売特許でしょう。私に聞くのはいささか筋違いかと存じますが』
確かに二ヶ月前に発表した優勝候補の名はある。だが、カンザキはその質問を重ねた。
「二ヶ月で、随分と参加状況が変わった。百人集まればいいほうだと考えていたのがその倍、二百人は下らない。私はこの大会の遅延だけはあってはならないと感じているが、場合と状況によっては挑戦者の選定をしなければいけないかもしれない」
『挑むに値する者達か、どうかですか』
こちらの思考の先を読んだような言い草に苦笑しつつ、「別に君に頼もうというのではないよ」と応じる事が出来た。
「二百人は確かに多い。だが、その中に王の資質を持つ人間がいるかもしれない事もまた、確かなのだ」
『リーグルールに関しては』
「ああ。君がシルフカンパニーやデボンに技術提供でもしたのか? 試作型だが、この二ヶ月で一万台以上のポケギアが発売され民間に渡った」
二ヶ月前に民間にはまだ渡っていないと言われたものが発売もされればカンザキとて焦る。しかし、当の本人であるヤグルマは涼しげな様子だった。
『あれは私の物というわけではない。簡潔に言えば開発者がそれの必要性に駆られたから世に出したんでしょう。本来なら、あと三年は世間に知れ渡らないはずでしたが、参加者が膨れ上がったのならば持っていなければ不都合です』
ポケモンリーグのルールを施行するに当たり、ポケギアの携帯は必須になった。それによって二百人の参加者を纏め上げるルールが完成したのだ。
「君の差し金ではないと、私は判断すればいいのかね」
『差し金、というのは不穏な言い草です。あれは世に出るべくして出た。そう考えてください』
妙な勘繰りは毒だと言われているようなものだ。カンザキは薮蛇になる可能性もあると早々にその話題を仕舞った。
「そうだな。私としても明日の荷が重いと感じる。執行官という立場は伊達ではない」
『ポケモンリーグは何が起こるか分かりません。明日からこそ、連絡を密に取り合う必要に迫られます』
ヤグルマの言葉にその通りだ、とカンザキは感じる一方、ここまで一参加者、あるいは一記者に傾倒するのはまずいのではないのかという危惧もあった。彼が安全だとは、誰も保障していないのだ。ただ、仮面の人々も含め、今回のポケモンリーグ、分からぬ事が多い。その闇を引っぺがすために協力関係を仰いでいるに過ぎない。そう考えるのが精神衛生上、いいような気がした。
「そうだな。今日はこの辺にしよう。ちなみに聞くが君のポケギア、通信履歴からは」
『言わずもがなでしょう。履歴は全く残りません』
「助かるよ」とカンザキは言い残して通話を切った。自分はヤグルマに踊らされているのかもしれない。いいように駒として扱われ、最後には責任を取らされる可能性もある。だが、その時には一緒に引っ張り込んでやるくらいの気概はあった。闇に堕ちるのならばせめて巻き添えにする。カンザキ自身に義憤の炎があるわけではなかったが、自分が悪と結託しているわけではないという逃げ道はない。ヤグルマは善か悪か。その本質を見極めるにはまだ早い。
ノックの音が聞こえ、カンザキは思考を中断した。「入れ」と促すと青いコートに身を包んだヤナギが恭しく頭を下げた。
「ヤナギか」
「ご多忙のところすいません。父上」
ここ最近、ヤナギにもまともに構っていられない。母親は神経衰弱のために故郷であるジョウトに帰したがヤナギは今回のポケモンリーグへの参加を強く希望し、カントーの地に居残った。しかし、大会主催者が参加者を擁立する事はいい方向には転がらないだろう、という配慮により、この二ヶ月ほとんど会わない生活が続いていた。ヤナギ自身はポケモンと己を鍛えるためにはちょうどいいと受け容れたが、年頃の息子と全く話す事なく、距離ばかりが募っていくのはカンザキの胸にもあった。
「何の用だ。言っておくが、こんなところを誰かに見られればいい心象は持たれないぞ」
何よりもヤナギのために口にした事だが、改めてみると自分のために言い繕ったように思える台詞だった。しかしヤナギは頭を下げて従順にカンザキの言葉に従う。
「分かっております。ただ一言だけ、言いに来て参りました」
「何だ」
急かす声はヤナギを必要としていないようにも聞こえるかもしれない。だが、それは何よりもヤナギのためなのだ。息子の未来を閉ざす可能性を親が持ってどうする。自分の穢れは自分のものとして処理する。それが大人のけじめというものだ。
「勝ち抜き、俺が王になります。それだけを言いに来ました」
本当に、その一言だけを、か。と問い返しそうになったほど簡素な声だった。自分の息子が急に他人のように感じられた瞬間にカンザキは狼狽の声を出す前にヤナギは身を翻した。
「それだけです。では」
閉められていく扉の向こうのヤナギの表情は窺い知れなかった。何か、決定的な断絶が親子の間に横たわったような気がしたが、それを確認する前に扉は無常にも閉ざされた。