第七話「軟弱者」
ポケモンリーグに関するニュースは電光石火のようにマサラタウンを駆け抜けた。新聞社、マサラの友はこう記している。
『第一回ポケモンリーグはカントーとポケモントレーナーの威信をかけた一大事業となるだろう』
そのキャッチコピーの通り、マサラタウンのスクールでも瞬く間にその文言は子供達の話題となっていた。だから久しぶりに顔を出したスクールでがやがやと騒がしくしている生徒達はユキナリの存在を気にも留めなかった。ただ一人、ナツキだけがユキナリへと駆け寄った。
「ユキナリ。あんた、通う気になったんだ」
「気紛れだよ。ほんの気紛れ」
実際のところ、胸中は穏やかではない。全ポケモントレーナーの出場が呼びかけられた今回の事業。ポケモンを手にしていなかった自分ならば全くの無関係を貫けたものの、ニシノモリ博士から受け取ったキバゴとポケモントレーナーになったという事実は見過ごせるものではなかった。
ユキナリはちらりと教室の中の空気を読み取り、鞄を下ろして席についた。ナツキはユキナリへと話しかける。
「久しぶりに来たって言うのに、なんて仏頂面してるの」
「放っておいてくれよ。僕だって来たくて来たわけじゃない」
博士に会うにはこれが手っ取り早いからだ。ユキナリの言葉の意味を解していないナツキは、「ねぇ、どういう……」と言葉を続けかけて入ってきた博士の声に掻き消された。
「授業を始めよう」
博士の姿を認めた子供達が一様に席につく中、ユキナリは博士へと目配せした。博士も意味するところを理解したのか、「ユキナリ君は後で私と来なさい」と口にした。その言葉でようやくユキナリの存在を認めた子供達が、「久しぶりじゃんか」と声をかける。
「どういう風の吹き回し?」
「別に。ちょっと用事があるだけだよ」
ユキナリは素っ気なく答える。授業が始まるがユキナリの目的はそれではなかった。一時間分、何を考えるでもなく過ごし、博士に呼びかけられてユキナリは教室を出た。トレーナーズスクールは研究所の裏庭にあり、大きく取られた裏庭にはポケモンが駆け回っている。
「キバゴの事だね?」
博士の発した声に、「ええ」とユキナリは応じる。
「それだけじゃないんですけど」
「分かっている。ポケモンリーグ」
「知っていたんですか?」
知っていてユキナリをあの日、誘い込んだのか。それだけは確認しておきたかった。博士は肩を竦めて、「寝耳に水だ」と答える。
「分かっていて君にキバゴを預けたわけではない。そこまで狡猾な大人だとは思わないで欲しいな」
博士は温和な声で応じたがユキナリには冷たく響いた。
「今日、僕が窺ったのは、他でもありません」
博士が研究所の裏口から入って昨日と同じ応接室にユキナリを招く。ユキナリはソファに座る事なく、冷徹に告げた。
「キバゴを返しに来ました」
ユキナリの言葉を意外と見るでもなく、博士は、「……そうだろうと思ったよ」と半ば諦め混じりの声を出す。ソファに身体を預けユキナリを見やる。ユキナリはモンスターボールを差し出した。「しかし、何でだ?」と博士はユキナリを視界に入れる。
「そこまでして戦うのが嫌な理由が分からない」
「僕は、戦いたくないんです。ポケモンバトルなんて特にそうだ」
「ナツキ君から聞き及んでいるよ。しかし、絵描きになりたいのならば、旅をするのは悪くないと思うんだが……」
博士はこめかみを掻きながら呟く。
「普通の旅ならば、まだ考えます」
ユキナリはモンスターボールに視線を落として、「でも、これは」と続けた。
「キバゴという新種を使った、実験みたいなものだ。それに、玉座に就くトレーナーを、決める? そんな大それた話、僕は乗りたくない」
率直な言葉に博士は、「言葉もないね」と応じた。
「実験、と言われてしまえば。だが、玉座に全く興味がないのかい? トレーナーならば誰しも憧れる――」
「僕はトレーナーじゃない」
博士の言葉を遮りユキナリは断じる。博士は後頭部を掻いて、「参ったな」とこぼした。
「確かにポケモンを持っていなければトレーナーではないだろう。でも、君に託したんだ。もうキバゴは君のポケモンだよ」
「無理やりみたいなものでしょう。キバゴを使って玉座に収まるなんて真っ平だ」
ユキナリがモンスターボールをつき返そうとする。博士は落ち着いた口調で、「持っているといい」と返した。
「何で。僕はいらないと言っています」
「この部屋から出たら、多分、君には必要だよ」
その言葉の意味が分からなかった。博士は、「もう少しだけ、キバゴのトレーナーをやる気はないかい?」と顎を撫でながら提案する。
「お断りです」
「でもキバゴは君に懐いている。ベストパートナーを引き剥がすほうが、私には酷に映るけどね」
「どうとでも。僕に、ポケモンは必要ない」
ユキナリは応接机にモンスターボールを置いて部屋を出ようとした。すると、目の前に立っている影があった。覚えず立ち止まる。
ナツキが、ユキナリの目を真っ直ぐに見据えていた。聞かれていた、とユキナリが感じるとナツキは早速問い詰めた。
「どういう事なのか、説明してもらえる?」
博士はナツキが立ち聞きしている事を感じ取っていたのだろう。ユキナリは舌打ちを漏らして視線を逸らす。
「何でもない。博士と僕の話だ」
「誤魔化さないで!」
ナツキはユキナリへと食ってかかった。ユキナリは醒めた眼差しを送る。
「どうしてナツキに関係があるんだよ。僕が決めた事だ」
「ポケモンリーグがあるから、そこから逃げようとしているわけ?」
「誰も逃げようとなんて――」
その言葉の先を平手打ちが遮った。頬に熱を感じる。乾いた音が響き、研究員達が呆けたようにナツキとユキナリを見つめている。
「何を……」
「軟弱者!」
弾かれた言葉はユキナリの心を鋭く抉った。ナツキは捲くし立てるように続ける。
「戦うのが怖い? 玉座に就くのが怖い? 甘ったれるな! そんなしみったれた精神で、最初から戦うのを拒否している限り、あんたは何もなれない! 何も目指すな! 夢なんて中途半端に持つんじゃない!」
ナツキの言葉にユキナリは声を詰まらせていたがやがて苛立ちを募らせた。
「聞き捨てならない。画家を目指すのと、ポケモントレーナーになるのは何の関係もない」
「いいえ。関係はあるわ。戦わないのなら、あんたに何かを夢見る事なんて出来やしない。戦わなければ、何も掴めないのよ」
「それはナツキの理屈だろ。僕にとって関係はない」
ユキナリはナツキを無視して歩き出そうとした。その背中に、「そのポケモン!」とナツキの声が飛んだ。
「あんたのなんでしょう?」
「だから、僕は押し付けられただけで……」
「それでも、あんたのなら、受けてもらうわ」
ナツキの言葉にユキナリは、「何を……」とうろたえた様子で受け答えする。ナツキは応接机に置かれたモンスターボールを手に取りユキナリに突き出した。
「あたしと戦いなさい。ポケモンバトルよ。これであたしに勝ったのなら、何をしようがもうあんたには干渉しない。でも、あたしが勝ったら、言う事を聞いてもらう」
一方的な言葉に、「何を勝手な事を」と返そうとすると博士が立ち上がった。
「そうだね。トレーナーは目を合わせたらポケモンバトルだ」
博士からしてみてもユキナリにキバゴを預ける名目が出来て都合がいいのだろう。舌打ちを漏らし、「呆れた」と口にする。
「勝負にならない。昨日今日トレーナーになった僕とナツキじゃ、対等なんて言葉はないじゃないか」
ユキナリが身を翻そうとすると、「怖いの?」とナツキが声をかけた。覚えず立ち止まり、ユキナリは振り返る。
「負けるのが怖いわけ? その程度の実力だって規定されるのが」
挑発には乗らないつもりだった。しかし、どうしてだか胸のうちからふつふつと湧いてくるものがある。これは何だ? 掴みあぐねているとナツキはモンスターボールを差し出した。
「戦いなさい」
有無を言わせぬ口調にユキナリはやけになったように、その手からモンスターボールを引っ手繰った。
「……分かったよ。ただし、僕が勝てば、もう何も言うな」
ナツキは頷き、「博士」と振り返った。
「なんだい?」
「バトルフィールドを借りても?」
「ああ、構わないよ。私も見物したいからね」
博士は読めない笑みを浮かべてナツキを先導した。ユキナリはモンスターボールを手にしながら考える。これで勝てば、もう煩わしい事に関わらなくって済む。ナツキのお節介や、博士の押し付けからも解放される。そのための一戦くらいなら泥を被ろうではないか。どうせナツキも、対等な勝負など望んではいない。やりたいようにやらせれば満足するだろう。
裏庭にバトルフィールドがあった。四角い線で縁取られた簡素なフィールドの両端にユキナリとナツキが立つ。博士は審判を買って出たようだ。手を叩き、「二人とも、準備はいいね」と声をかける。
「いつでも」と言うナツキにユキナリは、「僕も構わない」と応じる。
その様子に釣られたのか、スクールの窓から勝負を見届けようとする子供達が寄り集まってきた。ユキナリはマイナスドライバーを取り出す。ナツキも同様だった。モンスターボール上部にあるボタンを緩める。
「一対一バトル、レディ――」
博士が手を十字に組む。次の瞬間、二人同時にボールを投擲した。
「ファイト!」
その言葉に相乗するようにナツキの声が弾ける。
「いけ、ストライク!」
ボールから蒸気が迸り、中からポケモンが射出される。ナツキのモンスターボールから現れたのは緑色の外骨格を身に纏ったポケモンだった。両手に鋭い鎌を有しており、背中には翅がある。昆虫のような身体的特徴に対して、顔は獣のような作りだった。鋭い眼差しを湛え、そのポケモンは一声鳴いた。ナツキの手持ちポケモン、ストライクだ。
ユキナリの放ったモンスターボールから出てきたキバゴはその気迫に気圧されたようだった。身体を小刻みに震わせ、ユキナリをちらと見やる。ユキナリは、「キバゴ、いくんだ」と指示を出した。
「キバゴ、ってのがそのポケモンの名前ってわけ」
「何か問題でも?」
「いいえ。いい名前だわ。でもね……」
ストライクが身を沈ませる。ユキナリは、来る、と判断した。
「戦わなければ一端の名前なんて! ストライク!」
ストライクが地面を蹴りつけてキバゴへと肉迫する。その速度にキバゴは明らかに追いつけていなかった。
「真空破!」
鎌に纏い付いていた風を解放し、一気に打ち放つ。弾丸のような一撃がキバゴを打ち据えた。キバゴが吹き飛ばされる。その身へとストライクの追撃が放たれた。
「連続切り!」
鎌を振り翳し、キバゴの身体へと鋭い一撃が打ち下ろされる。キバゴは抵抗出来ずにその攻撃を満身に受けた。ユキナリが指示を飛ばす。
「引っ掻くだ! キバゴ!」
ユキナリの声を受けてキバゴは短い手で引っ掻くが、その攻撃が届く前にストライクはキバゴの腹腔へと蹴りを放った。キバゴがバトルフィールドを転がる。
「連続切り!」
ナツキの声に呼応してストライクが鎌を凶暴に輝かせた。その一撃がキバゴへと放たれる。
「耐えろ!」と指示を飛ばすがキバゴの守りは容易に打ち崩された。
「さっきよりも、威力が上がっている?」
「連続切りは出す度に威力の上がる技。どうするの? 逃げてばかりじゃ、敵は落とせないわよ!」
ナツキの挑発にユキナリは手を薙ぎ払う。
「キバゴ、連続切りをかわして引っ掻くだ」
キバゴはしかし、おろおろとするばかりでまともに指示が行き届いているとは思えない。ナツキが鼻を鳴らす。
「そんな大雑把な指示を聞けるほど、まだ信頼関係が築けていないみたいね」
ストライクが「れんぞくぎり」の猛攻を浴びせる。キバゴは懸命に手を伸ばして引っ掻こうとするがストライクの鎌のほうがリーチは長い。キバゴの距離は即ちストライクの距離でもある。しかも、至近まで近づかなければ「ひっかく」は命中しない。
「ストライク、終わりにするわよ。峰打ち!」
ストライクが鎌を大きく後ろに振りかぶり、キバゴへと接近する。ユキナリは指示を飛ばした。
「回避して反撃を――」
「遅い!」
キバゴが指示を聞き届ける前に、ストライクの一閃がキバゴの腹を打ち据える。キバゴはその場に膝を折った。博士が手を挙げる。
「キバゴ、戦闘不能。よって勝者、ストライクとナツキ」
ナツキがストライクへと歩み寄り、功績を労わってからモンスターボールに戻した。内部から網が現れストライクの身体が収縮してボールに収まる。ユキナリは倒れたキバゴを見つめ続ける事しか出来なかった。敗北、その二文字を背負うにはユキナリの勝負に対するスタンスは幼かった。
「キバゴ……」
負けた、とすぐに判ずる事は出来ず、ユキナリがぼんやりしているとナツキが歩み寄ってユキナリからモンスターボールを引っ手繰った。何をするのか、と思っているとキバゴをモンスターボールに戻す。ユキナリに振り返ったかと思うと、ナツキは、「呆れたわ!」と捲くし立てた。
「あんな戦い方! それに負けて負傷したポケモンをすぐにボールに戻さないなんて!」
ナツキの声は糾弾の響きを伴っていた。ユキナリはナツキの持つキバゴのボールを取ろうとするが、それは阻まれる結果になった。
「どうして……」
「あんたにポケモンを持つ資格はない。キバゴだって、あんたに使われるのはかわいそうよ」
ユキナリには返す言葉もなかった。自分の無力さゆえにキバゴは傷ついた。それは事実だからだ。
「どれだけ強いポケモンでも、弱いポケモンでも同じ。トレーナーが強くなければその真価は発揮出来ない」
ナツキはユキナリへと侮蔑の眼差しを向けた。
「あんた、ポケモンが勝手気ままに動いてくれるもんだと思ってるんじゃない? そうじゃないのよ。トレーナーとポケモンってのは……」
「ナツキ君、それくらいにしてあげてくれないか」
博士が歩み出てナツキを制した。ナツキはまだ言い足りないようで、「でも」と声にする。
「彼はまだ素人なんだ。ポケモンの技に関しても、育てる事に関しても、ね。君のストライクとはレベルも違うだろう。私は――」
そこから先の言葉は聞き取れなかった。ユキナリは反射的にその場から逃げ出していたからだ。
「あっ! あんた……」
ナツキの言葉が届く前にユキナリは駆け出す。自分達の戦いを面白がって眺めていたギャラリーも、全て嫌気が差した。ユキナリは自分がどこをどう走ったのか、まるで分からなかった。気がつくと一番道路の脇に出ていた。樹の幹へとユキナリは拳を叩きつける。
胸の奥から湧き上がってくるのは悔しさだ。言いようのない感情が堰を切ったように溢れ出す。それは一筋の涙となって景色を歪ませた。
「どうして……。僕は、戦いたくないのに」
最初からナツキとの戦いなど断ればよかった。馬鹿馬鹿しいと切り捨てればよかった。だというのに、あの場で逃げなかったのは自分にも意地があったからだろう。あるいは、ナツキとの戦いならば勝てるという思い過ごしがあったのかもしれない。
どちらにせよ、嘗めていたのだ。現実を。ナツキを。それは失礼に当たるものだった。
普段ならば近づきもしない一番道路の草むらに入った。もう、どうにでもなれ、というやけっぱちな気持ちがそうさせた。このままポケモンに襲われて死んでしまってもいい。少なくとも生き恥を晒すよりかは。
ユキナリは乾いた笑いを浮かべた。足元をポケモンが行き過ぎる。しかし、コラッタやポッポは向こうから怖がって飛び出しては遠ざかっていった。野生ポケモンにまで拒絶されているような気がした。
「考えてもみろよ。一番道路のポケモン程度で死ぬわけがないだろ」
自分の浅知恵にほとほと嫌になる。ユキナリは当て所なく一番道路を歩いた。しばらく歩くと果てが見えた。開けた場所には看板が刺さっている。
「トキワシティ……」
トキワシティはマサラタウンから出たトレーナーが最初に行き着く街だ。第一回ポケモンリーグのためか、平時よりも賑わっているように映った。ユキナリは全てが自分の弱さを反射する鏡に見えた。第一回ポケモンリーグという輝かしい舞台に紛れ込んだ三文役者。それが自分のように思える。
キバゴを手に入れたからと言って何かが変わったわけでもなかった。同時にキバゴを手離したからと言って何かが変わるわけでもない。自分はこの国に消費され、この国で生きていくしかない、惨めで情けない人間だ。
生きる事を諦められたら、どんなに楽か。ユキナリは中途半端な自己を持て余した。祭りの後のようにポケモンリーグのために設営されている舞台や慌しく行き交う人々が遊離して映る。街の端に座り込み、ユキナリは自嘲した。
「ナツキの言う通りかもな。僕に夢を持つ資格なんてないのかもしれない」
俯いて呟く。涙が頬を濡らす。もう何も見たくなかった。
「もし、君」
顔を伏せていると不意に声をかけられた。最初、自分を呼んでいるのだと分からなかったが、「少年」と呼ばれて顔を上げた。立っていたのはまだ歳若い男だった。全身を黒一色で包んでおり、まるで影の具現者のようだった。
「すまないがトキワシティの役所はどこかな。歩いて近くか」
ユキナリは役所までの道なりを説明した。男は、「ありがとう」と会釈する。
「なにぶん、トキワは初めてでね。もうすぐこの場所がポケモンリーグ開催の地になると考えるだけで胸が高鳴るよ」
男はまるで子供のように目を輝かせていた。ユキナリは尋ねる。
「参加者ですか?」
「うん? まぁ、みたいなものだ。少年、君もそうなんだろ?」
問われて、「いや……」とユキナリは視線を逸らした。その様子に怪訝そうに男は訊く。
「少年くらいの年齢なら、ポケモンリーグへの憧れは持っているんじゃないか。この国の王だぞ」
「僕にはそんなものは要りません。ただ夢を追う資格さえあればいいんです」
達観した物言いになっていたせいだろう。男は追及した。
「まるで、その資格すらないかのような言い草だな」
その通りだった。自分にはもう何もない。がらんどうの人間だ。男はユキナリから離れようとせずに、「夢を追う資格のない人間などいない」と告げる。
「夢諦めた人間と、世の中を斜に構えた奴らが否定するだけだ。誰しもその資格だけは奪えないんだ」
その言葉に自然と視界が滲んだ。ユキナリの様子がおかしい事に気づいたのだろう。男は肩に手をやった。
「少年、君の帰る家があるだろう。それを教えてくれ」
ユキナリはマサラタウンの住居を教えた。すると、「ポケモンもなしに来たのか」と男は驚く。
「僕には資格がないんです。夢を追う事も。ポケモンを持つのも」
「そんな事はないよ。少年、マサラタウンの出身だと言ったな。帰りながら話を聞こう」
男に道を教えるはずがユキナリは男を伴ってマサラタウンへの帰路を行く事になった。ユキナリは男の質問にどうして自分に資格がないと感じたのかを話した。男の質問はまるで万能の鍵のようにユキナリの心へと浸透した。
「なるほど。少年、君は言うなれば自らのプライドゆえに、自らが許せなかったわけか」
「そんな高尚なもんじゃないですよ。僕は、何一つ成し得ない事を証明されただけで」
「何一つ成し得ない人間などいない」
男の声は不思議と強い口調だった。ユキナリが視線を向けると、「大事なのは、そこから逃れるか、挑戦し続けるかどうかだ」と続けられた。
「少年。君には悔しいと感じられる心がある。世の中を斜めに見ている人間ではないんだ。君は、言い方は悪いが一度逃げた。これから先、何度逃げる気だ?」
ナツキの放った言葉が今さらに分かってくる。ただの嫉妬ではない。出来るのに何も成そうとしない足踏みする人間の歯がゆさがあったのだろう。
「……もう、逃げたくありません」
自分の中で結実した言葉に男は満足そうに応じた。「それでこそ、男だ」と。
「少年。君にはこの世界と戦えるだけの実力がある。さなぎの期間を経て、蝶は飛び立つんだ。君はこれからさなぎの強さを得ることになるだろう。それまでの受難、それを受け止められるか、否か」
男の言葉はユキナリの心を試しているかのようだった。これからどうするのか。それを決められるのは他ならぬ自分自身だと。ユキナリは問いかける。
「でも、僕にもう一度、出来るのでしょうか?」
一度失ったものは二度と取り戻せない気がした。しかし、男は言ってのける。
「強さを一番に理解するのに、必要なのは敗北の苦渋、弱さだ。負ける事で成長する。自分の弱さを体感し、行ける道筋を感じ取る。少年、君は今回、その苦渋を噛み締めた。ならば、自分がどこに行けるのか、もう分かっているんじゃないのか」
ユキナリは自身に問いかける。自分はどこまで行けるのか。本当に、なりたいものは何か。ぎゅっと拳を握り締め、ユキナリは自分の言葉で返す。
「……僕にも、出来る事がある」
「そうとも」
マサラタウンが見えてきた。ユキナリは道案内をするはずの人間に人生の道案内をされた事が気恥ずかしくもあった。
「すいません。トキワシティを案内するつもりだったのですが」
「いいさ。お陰で私は、人生の袋小路に迷っている一人の少年を助けられた。それだけでも功績だよ」
フッと微笑んでみせる男にユキナリは問いかける。
「あなたの、お名前は?」
ここまで自分を導いてくれたのだ。自然とその質問がついて出た。男はしばらく考える仕草をしていたが、「礼儀だな」と懐から名刺を取り出した。
「このマークは?」
ユキナリは名刺に刻まれている一文字のアルファベットを見て小首を傾げる。男は、「我が社のシンボルみたいなものでね」と答えた。
「近々、その企業を立ち上げようと思っているんだ」
男の言葉に、「じゃあ、あなたはその社長ですか」と尋ねる。後頭部を掻きながら、「恥ずかしながら道も分からぬ社長さ」とはにかんだ。
「このマーク、Rのマークですけど、どういう意味ですか?」
「まだ明かせない。ただ一つだけ、予言するとすれば、そのマークが世の中を席巻するだろう。近いうちにね」
ユキナリは名刺に刻まれている赤いRの文字を眺めた。血のように赤いRの下に名前が簡潔に印字されている。
キシベ・サトシとあった。
「キシベさん、と呼べばいいんですか?」
「好きに呼ぶといい。私は何でもいい」
ユキナリはキシベと名乗った男に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「何故、礼を言う?」
「ちょっとだけ、自分を見失っていましたから」
その言葉にキシベは微笑んだ。
「道を見失うのはよくある事。大事なのは道がある事をきちんと知っている事だ。そうでなければ闇に堕ちてしまう」
まるで自身が闇に堕ちたかのような言い草にユキナリは苦笑する。
「忠告みたいですね」
キシベは暫時、沈黙を置いてから、「みたいなものかな」と息を漏らした。踵を返し、「私はトキワシティでポケモンリーグを待っている」と告げた。
その背中を眺めているとキシベは不意に肩越しの視線を振り向けた。
「君を待つ」
ユキナリは首肯した。
「きっと、行きます」
誓いを立てた言葉にキシベは歩き出した。ユキナリもマサラタウンへと向かう。やるべき事はもう決まっていた。
研究所へと転がり込むと、博士はユキナリが来る事を予期していたかのように応接室で待っていた。その隣にはナツキもいる。ナツキは少しばかり顔を伏せていた。昼間の事を悔やんでいるのかもしれない。
博士はスケッチブックの入った鞄を差し出す。
「忘れ物だよ」
それを受け取りながら、「それだけじゃないでしょう」とユキナリは言っていた。博士がわざとらしく小首を傾げる。
「ナツキ」
呼ぶとナツキは肩を震わせた。言い過ぎた、と思っているのかもしれない。しかし、ユキナリにとってはいい薬だった。
「僕と戦って欲しい」
思わぬ言葉にナツキは顔を上げた。博士はユキナリの決意を汲んだのか、「もう一つ、忘れ物があったね」と懐からモンスターボールを取り出す。ユキナリはそれを手にナツキへともう一度宣言した。
「二ヵ月後のポケモンリーグで戦えるだけの実力になるために。僕は強くあらねばならない」
ユキナリの言葉にナツキは戸惑いがちに、「そんな、いいの?」と訊いていた。ユキナリは微笑む。
「いいのかって、戦わなければ何も掴めないって言ったの、ナツキだろ」
「でも、ユキナリには画家の道もあるのに」
ナツキの狼狽を他所に、ユキナリは、「そっちだって戦いだ」と返す。
「気づいたんだ。飢えなきゃ勝てないって」
一番道路で燻っている限り、どちらも手に入れる事は出来ない。ナツキはしばらくユキナリを見つめていたが、「キバゴは?」と博士へと確認する声でハッとしたようだ。
「回復してある。戦えるよ」
「なら、ナツキ。僕はこの二ヶ月で追いつく」
鋭い決意の双眸にナツキはようやく悟ったようだった。伊達でも酔狂でもなく、ユキナリがようやく前に進んだ事を。ナツキは柔らかく笑んだ。
「……馬鹿じゃないの」
立ち上がって言い放つ。
「二ヶ月であたしとストライクに追いつくって」
「馬鹿げているかもね。でも、それくらい現実味のないほうが面白い。それでこそ、夢って奴だろ」
ナツキは本来の調子を取り戻したようだ。腰に手を当てて、「いいわ」と返す。
「二ヶ月でどこまで来れるか。見せてもらいましょう」
「ニシノモリ博士。お願いがあります」
改まって発した言葉に博士は、「何かな」と応じる。
「僕に、ポケモンの基本を教えてください」
今まで無視してきたものだ。それを今さら教えてくれとは虫が良すぎるのかもしれない。そう感じたが、博士は快活な笑いと共にその考えが杞憂だと吹き飛ばす。
「よかろう。ただし、二ヶ月の特別授業だ。ハードになるぞ」
ユキナリはナツキと視線を交わし合った。お互いに笑みを浮かべ、ようやく自分のスタートラインに立てたのだとユキナリは実感した。