第百九十九話「キミノウタ」
「まずいよ、まずい」
慌てて階段を駆け降りると研究員達が、「またですかぁ?」と笑った。
「笑い事じゃないんだよ。急がないと学会に遅れちゃう」
今月に入ってからもう三度目だ。さすがに遅刻は許されないだろう。白衣に袖を通し、慌てて身支度を整えようとすると声が飛んだ。
「もう、いっつもギリギリなんだから」
研究道具一式が揃えられた鞄が手渡される。髪を短く切り揃えた伴侶の相貌に礼を言った。
「ありがとう、ナツキ。でもあれが足りないよ」
あれ、という言葉にナツキは少しばかり考え込む。鞄の中身を確かめて研究書類一式をバインダーに挟んだ。
「ああ、あれね」とナツキは思い至り、自室から胸に抱えて持ってきた。それはスケッチブックだった。
「学会にスケッチブックがいるんですか? 博士」
研究員のからかう言葉に、「これがないと締まらないんだよ」と応じる。ナツキが、「頭、寝癖すごいわよ」と髪型を整えてくれる。
「うん、悪いね」と応じつつも研究書類のページを繰りながら靴を履く。
「博士はいつでも慌ててますねぇ」
「師匠であるニシノモリ博士の落ち着き様とは大違い」
研究員達は我関せずのスタンスでコーヒーを淹れて笑い合う。そこに鋭い指摘を入れた。
「あのさぁ、僕がもし学会でポカやったら君達の首だって飛ぶんだよ? その辺分かってる?」
「大丈夫ですよ。私達は再就職先ぐらいは決めますから」
ぐうの音も出ない。彼らならば逞しく生きるだろう。
「ほら、さっさと準備する」
「分かってるって。焦らせないでよぉ、もう」
ほとんど涙声になりながら研究所を出て行く。その背中に声がかかった。
「晩御飯、食べるんなら連絡入れてよねー! ユキナリ!」
その言葉に振り返りながら応じる。
「もうオーキド博士だってば。そっちで呼んでよ」
つんのめりながらユキナリは車へと乗り込んだ。
「なーにが、もうオーキド博士、よ。ちっとも進歩してない」
ユキナリが車に入ったのを確かめてからナツキはぼやいた。研究員達は、「私達はユキナリ君の小さい頃から知っていますからね」と口々に笑う。
「その彼が今やポケモンの権威なんて、ちょっと信じられないですよ」
「ニシノモリ博士が一線から退いて五年か。長かったような、短かったような」
休憩している研究員へとナツキは注意を飛ばす。
「言っておくけれど、あなた達だって研究成果挙げないと給料減ですからね」
その言葉に研究員達は蜘蛛の子を散らしたように自分の居場所に戻り始めた。
「おお怖い怖い」
「ユキナリ君も前途多難だな。恐妻家とは」
「聞こえているわよ!」
ナツキはそう返して自室へと戻っていった。室内は落ち着いた暖色で固められており、奥に執務机があった。額縁には第一回ポケモンリーグ特別賞の賞状である。トロフィーも置かれており、その隣にぽつんとモンスターボールがあった。ナツキはそれを手に取って愚痴をこぼす。
「まったく、研究所のみんな、サボる事だけは一流なんだから」
唇を尖らせてナツキはモンスターボールの中の相棒に声をかけた。
「あなたもそう思うでしょ、ハッサム」
透かして見るとハッサムが中に入っている。ナツキは窓辺に立って回顧する。ニシノモリ博士から研究所を引き継いで五年、ユキナリと結婚してからもう二年。ポケモンリーグの熱狂はほとんど忘れ去られたようなものだった。だがジムリーダー制度や四天王制度、さらに言えば今回のポケモンリーグを踏まえ、リーグ制度が見直され、トレーナーの受け皿は格段に増えた。ポケモントレーナーが兵力として常備されている、という噂もぱったりと消え、夢を目指す事に誰も負い目を感じなくなった。
「これでよかったのかしらね。夢を追う資格のない人間はいない、か。ユキナリ。あんたはこれで――」
その時、遮るようにナツキは不意にお腹をさすった。
「蹴った。元気でいい子」
微笑みを湛え、ナツキは窓辺から望む景色に秋の気配が混じり始めている事に気づいた。