第百九十六話「イノセントブルー」
敗北。その二文字が突きつけるのは決定的な事実だった。
自分は王に相応しくなかった。その言葉を裏付けるように実況の声が響き渡る。
『サカキだー! ポケモンリーグはサカキで決着を見ました! 百二十三日にも及ぶポケモンリーグに終止符が打たれたー!』
堪えきれない涙が溢れる。何も出来なかった。ナツキとアデクを救う事も。王になる夢も。何一つ叶えられないまま自分は朽ちていく。その後悔が身を包み込もうとしている。
ナツキも何も言わない。アデクも無言だった。出来る事はやり遂げた、という慰めさえも無意味だ。結果論が全て。王になれないのならば意味がない。ヘキサツールも完成させられてしまう。拳をぎゅっと握り締める。
その時、自分の名を呼ぶ声が響き渡った。振り返ると馴染みのない人影が目に入った。
「カンザキ、執行官……」
どうして執行官がチャンピオンロードにいるのか。その疑問を氷解させる前にジープに乗って無理やりチャンピオンロードを行く執行官が手を伸ばす。
「ヘキサツールを破壊するのだろう?」
その声にユキナリは顔を伏せた。
「……でも、僕じゃサカキを止められませんでした。もう何も出来ないんです」
執行官はジープから降り、「しっかりするんだ」と声にした。
「私は、息子とも向き合えない半端者だが、ネメシスと行動を共にして分かった事がある。王の素質のある人間であろうともなかろうとも、悪を止めるという意思の輝きのある人間は存在するのだと。私に頼ればこの大会では失格となるが、ジープならば今からでも間に合う。ヘキサツールの間に急ごう」
ユキナリはしかし、気力がなかった。この状態でどうしろというのだ。持て余していると執行官から檄が飛ぶ。
「ニシノモリ博士から聞いたんだ! 君の大切な人が一人でサカキへと向かっている。それを君は静観出来るのか?」
「博士から……。キクコ……?」
自然とその名が口をついて出ていた。執行官が手を伸ばす。
「私と共に。オノノクスは、まだ完全に戦闘不能ではない」
ユキナリは握り締めた拳を開き、「僕は……」と言葉にした。
「まだ、負けたくないと思っている。勝ちたいと。そのために飢えた。そのために、ヤナギと戦った。僕は、勝つためにここに来た」
執行官は首肯する。
「最後まで足掻こう」
ユキナリはオノノクスをボールに戻し、ジープへと飛び乗った。ジープは獣道を無理やりにこじ開けて行く。運転席に収まった執行官は、「まさか私がこんな真似に出るとは」と自分でも信じられない様子だった。
「私はね、ずっと息子から逃げてきたんだ。そのツケかな。君達を応援したい。この世に悪をのさばらせてはならないんだ」
執行官の熱い思いを受け取り、ユキナリはオノノクスのボールを握り締める。チャンピオンロードを出たところで戸惑いの実況が響いた。
『どうした事でしょう? ジープが飛び出してきました。……えっ。あ、運営からの指示です。チャンピオンロードで脱出困難になった選手を運んでいるらしく……、どういう事でしょうか。一位だったオーキド・ユキナリが乗っています』
群衆のざわめきを他所に目指したのは石英が木々のように鬱蒼と茂る場所だった。ユキナリは呟く。
「ここが、セキエイ高原の中枢……」
「この先がネメシスの守護する殿堂入りの間、その向こうにヘキサツールの間があって……」
その言葉は殿堂入りの間に入った瞬間に遮られた。女性が一人、倒れ伏しているのだ。片腕の肘から先がなかった。執行官がジープを横付けし運転席から飛び出す。
「ネメシスの……!」
その言葉から察するにあの女性が先生と呼ばれる人間なのだろう。執行官は、「まだ息がある」と声にした。
「しっかりしたまえ! 何があった?」
息も絶え絶えに先生が口を開く。近くで目にすればまさしくキクコの生き写しだった。
「……サカキを、止めなければ……」
うわ言のように繰り返される声にこの人も抗ったのだと感じた。抗えないと知りながら、運命といううねりをどうにかしたいと考えたに違いない。
「僕が行きます」
その言葉に先生は安心したのか意識を失った。執行官が、「私は彼女を医療施設へ」とジープに乗せようとする。その時にユキナリと視線を交わし合った。
「この先は、大丈夫なのか?」
「自信はありません。サカキを本当に止められるのか。でも、僕は勝たなきゃいけない。勝って、未来を切り拓くんだ」
胸に掲げた決意に執行官は息をつき、「それがトレーナーか」とこぼす。
「私ももう少し理解があれば、息子ともうまくやれたのかもしれない」
「これからがあります。未来は、まだ確定していない」
ユキナリの言葉に執行官は少しだけ目を見開き、「そうだな」と頷いた。
「これから先があるんだ。息子とも、また喋っておきたい。親子として。同じ男として」
「行きます」
ユキナリはホルスターからモンスターボールを引き抜き緊急射出ボタンに指をかけた。
「行け、オノノクス!」
オノノクスが飛び出し、ユキナリは尋ねる。
「怖いか?」
先ほどのニドキングとの戦いで自分とオノノクスは埋めようのない溝を感じ取った。オノノクスは弱々しく鳴く。
「……だよな。僕も怖い」
負けてしまう事が。あるいは命を落としかねない事が。
「でもそれ以上に、尻尾を巻いて逃げるのが怖いんだ。最後のわがまま、付き合ってくれるか?」
オノノクスは地面を踏み締めて気高く吼えた。それを了承としてユキナリはオノノクスの背に乗る。つんと鼻を刺激するのは血の臭いだ。サカキは何をしたのか。キクコは無事なのか。焦燥と不安が波のように押し寄せる。開けた場所に出た、と思った瞬間、キクコの背中が目に入った。それと同時に奥にいるサカキがニドキングを伴って石版から逃れようとしている。
あれがヘキサツールか、とユキナリは見やったがそのヘキサツールの中央に真っ黒な穴が開き全てを吸い込んでいるようだった。三体の伝説の鳥ポケモンが居並び、それぞれ穴を眺めている。異次元への扉だ、とユキナリは察知しオノノクスから降りて指を向けた。
「ドラゴンクロー!」
黒い瘴気が折り重なり光条としてオノノクスが放つ。キクコへと攻撃しようとしていたニドキングを弾いた。サカキが怨嗟の混じった声を放つ。
「オーキド・ユキナリ!」
「サカキ!」
オノノクスを前進させ、ユキナリはサカキと対峙する。キクコを庇うように前に出た。
「ゴメン。少し遅くなった」
キクコはその言葉に、「ううん」と返す。だが一人で立ち向かおうとしていたのだろう。ユキナリはその勇気に自分だけではないのだと感じた。サカキを止めねばならないと誰もが思っている。この世界をロケット団の好きにさせていいのではないと。
「サカキ。この次元の未来は僕達のものだ。確定された未来なんて存在しない。ヘキサツールが未来を矯正するのならば、僕らがそれを壊す。お前が未来に立ち塞がるのならば、僕らが乗り越える。そうやって、人は生きていく事が出来るんだ」
「知った風な口を! 絶望の世界に未来など」
ニドキングが跳ね上がり、サカキを抱えたまま腕を振り上げる。冷凍ビームが一射されるがユキナリはオノノクスと完全同調しすぐさま回避した。
「絶望なんかじゃない。ヘキサツールが未来を縛るものだと言うのならば僕達は越えなきゃいけないんだ。それがこの次元に生まれた人間の使命ならば」
三体の伝説が飛び上がる。その時、声を聞いた気がした。
――そうだ、ユキナリ君。君の未来と幸せは、君で掴んでくれ。
その言葉にユキナリは口元を綻ばせる。
「そこにいたんだね、フジ君」
三体の伝説がそれぞれの属性の皮膜を張り、ニドキングへと攻撃を放つ。サンダーから放たれた雷撃の鎖がニドキングの腕を拘束する。ファイヤーの放った炎熱の牢獄がニドキングを封じ込める。最後にフリーザーが関節を氷結させて動きを止めた。
「こいつら……、野生風情が……」
ユキナリは指を向ける。その向かう先はサカキを真っ直ぐに示していた。
「最後の技だ。僕のかけられる、全てをかけよう!」
オノノクスが牙を拡張させる。黒い瘴気を全身から放出し、片方の牙に凝縮させた。左側の牙が過負荷に耐えかねてボロボロと崩れていく。一点に寄り集まった闇の斧が瞬時に凝り固まったと思うとオノノクスは雄叫びを上げて牙を振るった。
黒い断頭台が出現し、ニドキングを絡め取る。今までに見た事のないほどの巨大なものだった。ニドキングよりも空間そのものを噛み砕いて「ハサミギロチン」が完遂しようとする。サカキが叫びを放った。
「何をやっているのか、分かっているのか? 一方の正義だけで未来を不確かなものにしようとしているのだぞ? ヘキサツールの示す未来は恐らく最良の未来。四十年後の破滅は、もしかすると最大まで延命した結果かもしれない。それよりも早く、世界が終わりを告げる。そのような未来を是とするか? 俺は、ヘキサツールには従う、と言っているんだ。キシベの思惑は恐らく俺を手に入れて歴史を改変する事だろう。だが、俺はヘキサツールの語る未来でも構わない。あちら側の再現になるくらいならばな」
サカキの言葉は一方では真理かもしれない。人々がそれぞれ不確かな未来を紡ぎ、合い争うよりかはヘキサツールの通りに提示された未来をなぞるほうが。しかし、とユキナリは首を横に振った。
「お前の言葉は真理だ。だが真実じゃない。そこには心がない。僕らは駒じゃないんだ。与えられたルートを与えられたままに動く駒じゃない。僕らの道は、僕らが切り拓く」
きっと、それが一番いいはずだから。サカキは、「痴れ者が!」と喚いた。
「そのような未来が不均衡な形だから、貴様のような人間が現われるのだ! 俺のような人間が現われざるを得なかったのだ! ポケモンと人間に未来を任せていては何度でも改変が起きる。ならばヘキサツールに身を任せればいいものを……!」
オノノクスに変化が訪れていた。徐々に身体が小さくなっていく。黒い光を散らせながらオノンドに戻りかけていた。オノノクスは自らの時間を対価にしてまでニドキングとサカキを討とうとしている。ユキナリは覚悟を固めた。
「たとえ不均衡でも、信じられるものがある。人の意思は、そう容易く折れるものではないと」
指を振り下ろす。その瞬間、闇の顎がニドキングを噛み砕いた。ニドキングの身体が闇の中へと溶けていき、サカキの身体が宙に投げ出される。地面に落下する前に、大口を開けて飲み込んだのはヘキサツールに開いた穴だった。サカキはずぶずぶとヘキサツールへと呑まれていく。ヘキサツールそのものも中央に開いた穴へと自らを粉砕させながら飲み込まれていく様子だった。
「い、嫌だ……。せっかく生きる希望を見つけたのに……。こちらの次元ならば、やり直せると思ったのに」
サカキも自分と同じだ。やり直せると感じて過ちを犯した。その罪を購わなければならない。
「誰も、一度やってしまった事をやり直すなんて都合のいい事は出来ないんだ。なかった事にするのも」
サカキの身体が完全に穴へと吸い込まれる。忌々しげに、自分の名前が叫ばれた。
「オーキド・ユキナリ! 呪われろ! お前は、お前の行動を後悔するだろう! お前が生きているという事は、滅びに至る要因は消えていないという事なのだからな!」
怨嗟の響きは徐々に消えていった。サカキは狂気の笑い声を上げながら穴に身体を持って行かれた。ヘキサツールも圧縮され次元の扉の向こう側へと消えていく。ユキナリはそれを確かめてから呟いた。
「……きっと、これでいいんだ。ヘキサツールは破壊され、サカキも消えた。未来は、再び混迷の闇の中。ここから先はどうなるのか誰にも分からない」
空を仰ぐ。三体の伝説はそれぞれ羽ばたきながらどこかへと飛び去ってしまった。再び青空が戻り、ユキナリは、「それにしても」と手を翳した。
「突き抜けるような、青だ」
近くで声がする。目を向けると、小さな影がころりとすっ転んだ。キクコがそれを抱える。
「オノノクス……、キバゴに戻ってしまったんだね」
キクコの腕には左側の牙を失った片牙のキバゴがいた。ユキナリとは目線を合わせようとしない。ばつが悪そうに顔を伏せている。まるで悪戯をした子供のように。ユキナリはそっと頭を撫でてやった。
「よくやったよ、キバゴ。さぁ、帰ろうか」
ユキナリは静かな時を刻む石英の広場で口を開いた。
「僕らの故郷へ」