第百八十七話「BLAZE T」
トキワシティは開催日と同じか、それよりもなお濃い熱狂に包まれていた。人々が口々に叫ぶ。
「ポケモンリーグ! ポケモンリーグ!」
群衆の波に呑まれないように高らかな実況が響き渡った。
『今、トキワシティは熱気に包まれています! ゆうに百二十三日をかけて、優勝圏内の選手達がここ、トキワシティを出発し、再び戻ってくる時が来たのです! 彼らこそ、真のポケモントレーナー! 真の冒険者達だー!』
実況者も随分と興奮しているようである。それもそのはず、三ヶ月以上をかけてようやくトキワシティに舞い戻ってきた人々は誰も彼も面持ちが違う。旅立った時とは比べ物にならないほど、その顔立ちに凄みがかかっていた。
『第一回、ポケモンリーグがここトキワシティの最終チェックポイントを超え、さらなるトレーナーの高み、政府中枢セキエイ高原に設けられた魔境、チャンピオンロードへと歩を進めようとしている! その一歩は偉大なる一歩だと、我々は実感しています!』
「随分と喧しい事だな」
ヤナギはそんな中でも冷ややかな声を漏らす。ナツキが、「そりゃ、色んな人達が来ているでしょうよ」とこちらも落ち着き払っていた。
「でも、この人達はあたし達の戦いなんて知りもしないのよね」
「知らなくってもいい事だ。平和に生きる分には、破滅がもたらされかけたなんて知ったところでどうしようもない」
ヤナギが顔を拭い、「それにしても」と口にした。
「俺はヘキサ頭目として演説したはずなのだが、チェックポイントで何も言われなかった事を思うと、政府は俺を追っていないらしい。ネメシスもそこまで暇ではないか」
「それこそ無駄骨、という奴ね。まさか首謀者がろくに武装もせずに訪れるとは思っていないんでしょうよ。ねぇ、聞いてる? ユキナリ」
前を歩く自分に声を振りかけられてユキナリはようやく気づいたように返す。
「何が?」
ナツキはため息をつき、「こういう性分よ」と呟いた。
「ようやくトキワに戻ってきたって言うのに、何の感慨もないのかしら」
そんなはずはない。ユキナリの鼓動は爆発寸前だった。胸を震わせるのは玉座への期待だ。ジムバッジは既に七つ、ユキナリの手にある。チェックポイントであるトキワジムを超えて、残った選手が再び集められようとしていた。旅立った時と同じようにグリッドに並べられ、今度はカントー一周ではなくセキエイ高原への道を辿らされる。
――ようやく来たのだ。
その興奮に胸を躍らせる。
「負けてられんのう!」
アデクはグリッドに並び立った人々を眺めて口笛を吹く。ほとんどのヘキサ構成員はマサラタウンで別れた。チアキもカミツレも、である。ここから先は玉座を目指す人間の進むべき道だ、と諭したのはヤナギだった。
だが必要ないとは断じなかった。むしろ謙虚ささえ漂わせて今までありがとうと礼を言ったヤナギに構成員全員が瞠目したほどだ。それほどまでにヤナギは絶対的な力の象徴だったのだろう。ユキナリは他の参加者と同じように歩を進めるヤナギへと視線を振り向けた。
「まさか、僕らが同じような歩調で進むなんて思いもしなかった」
ユキナリの感想に、「俺もだ」とヤナギは告げる。
「お前を憎んでいるわけでもなく、ただ清々しい風が胸を吹き抜けるとは。考えられなかった事だな」
因縁は全て消し去った。残っているのはただただトレーナーとしての矜持のみ。ユキナリは一つだけ胸に突き刺さった懸念事項を口にする。
「あのさ、キクコは……」
「キクコは、玉座には興味がないと言っていた。ニシノモリ博士が面倒を見てくれるというのならばそれでいいだろう」
ユキナリは別れたキクコの横顔が脳裏に思い出され、少しだけ胸に居残った。ユキナリとヤナギの決着を見届けたキクコにはもう以前までのような翳りはない。キクコも乗り越えたのだとユキナリは結論付ける。自分達と同じように、過去の因縁から。以前までのキクコとは別人なのかもしれない。それでも、航空母艦で最後に交わした言葉をユキナリは忘れるはずがなかった。あの言葉は間違いなくキクコの言葉だ。誰かに借りた言葉ではなく、キクコが自分の心に従って放った言葉に違いない。だからこそ、胸を掠めるのは感傷か。ユキナリは初恋の終わりの虚しさも抱きながら玉座へと進もうとしていた。だが、それはヤナギとて同じだろう。ヤナギはヘキサの雑務でまだキクコの気持ちを聞いていないはずである。一番にキクコの事を想っているのはヤナギのはずだ。全てが終わった後、ヤナギは確認するに違いない。その事に関しては自分が口を挟む領域ではなかった。
「スターティングポジション、か。三ヶ月前には何百人といたが」
ヤナギは周囲を見渡す。残された参加者は二十人にも満たない。最初の場所に戻ってきた十数人の人々の顔をユキナリは眺めた。
「ツワブキ・ダイゴ。イブキさんに、それに見た事のない人達もいるな」
優勝候補と最初からおだてられてこの場所に再び立つ事を許されたのはデボンコーポレーションの御曹司と、フスベの里のドラゴン使い、イブキであった。イブキとは事前にもうお互いにライバルであり、余計な干渉はしない事を誓い合った。
「あいつとて、故郷のために必死なのだろう。俺達四人とイブキ、それに何人かの参加者がいるが、実質的に優勝圏内なのはお前か、もう一人くらいだろう」
ユキナリは七つのジムバッジを有している。ほとんど優勝は固いようなものだった。
「それでも、緊張しないわけではないよ」
人の列で陰になって見えない参加者もいる。スターティングポジションは三ヶ月前と同じようにアトランダムに組まれており、ヤナギやアデクとはその直前に分かれた。
『参加選手で優勝圏内にあるのは今のところ四人です! 集計が立て込んでいるために個人名の絞り込みまで時間がかかっていますが、あと数十分と言ったところでしょう。しかし! ここまで来た猛者達はその数十分さえ惜しいはず! 最終ステージは五分後に開幕します。泣いても笑っても、これが最後! 最後の難関はセキエイ高原へと続く天然の迷路、チャンピオンロードだー!』
ユキナリは最終チェックポイントで与えられたポケギアのデータを参照する。そこには追加マップとしてチャンピオンロードが指し示されていた。
『今では政府中枢として名高いセキエイ高原ですが、かつては人間の介入を拒む厳しい自然に守られてきました。そのセキエイ高原へと向かう洞窟こそがチャンピオンロード! まさしく王者の道が口を開けております! 新たなるこの地の王を選定するために!』
セキエイ高原に向かうのに通常ならばならされた道を使うが、まだ整備されていない土地があり、その場所を今回のポケモンリーグになぞらえてチャンピオンロードと呼んでいるらしい。
「今まで以上に厳しい野生ポケモンと自然、か」
「これまでに数多の試練を乗り越えてきたあたし達にとってはぬるいわね」
隣のナツキが強気な発言をする。ユキナリは、「あんまり強い言葉を吐くと後悔するんじゃない?」と尋ねる。ナツキは、「構うもんですか」と鼻を鳴らす。
「ここまで来たんだから」
「……何だかナツキの言動ヤナギに似てきたよ」
そうこぼすと、「あたしとヤナギのどこが似てるって言うのよ!」と不満の声が飛んだ。
「分かってるって。ただ、ここから先は出たとこ勝負。どうしたって実力でしか生き残れない」
ユキナリの言葉にナツキも、「分かっている」と返す。
「せめてマサキさんがいてくれれば、心強いんだけれどね」
「マサキさんはシステム面でのサポートはしてくれるみたいだし、もしロケット団の襲撃があったらすぐに対応してくれるって言ってたから」
マサキはこの場にはいない。グレンタウンで追跡調査を行っており、ヘキサ構成員の一部を連れ立っているはずだ。その中にはマサラで別れたチアキやカミツレも合流する手はずらしい。
「イブキさんじゃなくっていいのかしらね。あれだけ姐さん姐さんって慕っておきながら」
ナツキの声に、だからこそ、なのではないか、とユキナリは感じる。自分のせいで慕った人間の夢を止めてはいけない。せめて最後くらい迷惑のかからないようにしたい、という思いがあるのだろう。マサキとて人の子だ。どれだけ表面上は傍観者を決め込んでいても自分を叱咤してくれた熱さもある。
「マサキさんは、ただ冷たいだけの人じゃないよ」
ユキナリの弁に、「どうかしらね」とナツキは怪訝そうな声を漏らす。
「薄情な奴だとあたしは思っていたけれど」
何度も助けられただろうにそれはないだろう、とたしなめようとすると実況者の声が響き渡った。
『最終ステージゴールまでの説明を行います! 各選手はスターティングポジションから保持ポイントごとに出発、チャンピオンロードを超え、その先にある殿堂入りの間で自身のポケモンをこの地の玉座に君臨するポケモンとして登録してもらいます。そこで殿堂入りになって初めて、その選手を優勝と見なします! 最後まで全く気の抜けないこの戦い、果たして勝利するのは誰なのか?』
スターティングポジションはポケギアのポイント機能と同期しており、フライングは認められない。ポケギアからゴーサインが出て初めて、チャンピオンロードへ挑む事が許されるのだ。
「ユキナリ、勝ちなさいよ」
ナツキの言葉に、「自分だって負ける気はないくせに」と軽口を返す。ナツキは、「まぁね」と首肯した。
「あたしのこれまでの戦いの全てを賭けて、これを制する」
ナツキは左目をさすっていた。その動作に心が痛みそうになったのも一瞬、それ以上は考えない事だと自分に戒めた。ナツキとて一端のトレーナーである。
「そういや、ナタネさん、意外だったな。ここで諦めるなんて思わなかったのに」
ユキナリが口にしたのはマサラタウンで別行動を取る事になったナタネの話だった。ここまで来たポイントもあるだろうに、それをナツキに与えてまで、「自分はここまででいい」と言ったのである。
「でもどうして。ナタネさんだってこの地方の玉座につく権利はあるのに」とナツキは狼狽したがナタネはいつもの飄々とした様子で、「いいんだよ」と返した。
「ちょっとあたし気になる事がまだあるから。ナツキちゃんはさくっと王になってくるといいよ」
その言葉に奇妙なものを覚えないでもなかったがナツキは既に割り切っているようで、「あの人はずっとあんな感じよ」と告げた。
「だって趣味が暗躍だし」
今までのナタネの言動からしてみてもない話ではない、と考えつきユキナリはポケギアからのアナウンスを聞いた。
『オーキド・ユキナリ様。カウント三分前です。三分後に出発許可が下ります』
アナウンスにユキナリは苦笑する。
「どうやら思い出話をしている暇もなさそうだ」
ナツキも口元に笑みを浮かべ、「みたいね」と頷く。
「頼むわよ」
「ああ」
優勝だけではない。ヘキサツールを破壊せねばならないのだ。それこそがヤナギやナツキ、ヘキサの人々から受け継いだ信念である。
「僕が、勝つ」
ヤナギとの勝負で見えたものもあった。自分は勝利に飢えている。獣のような獰猛さで勝利を渇望しているのだ。だが今はそれが下劣だとは思わない。勝利を願って悪い事はない。願いを進ませるのは自らの意思によってのみ。ユキナリは心の底から、真の勝利を願っていた。
「行くよ、オノノクス」
ボール越しに語りかける。オノノクスは今か今かと待ち望んでいる事だろう。オノノクスに殿堂入りの誉れを与えられるのもそう遠くない気がした。
『スタート、一分前』
ポケギアの案内にユキナリは身を沈ませる。駆け出す用意をして再びスターティングポジションを眺めた。自分と同じように駆け出す姿勢をしている人間が一人だけ見つけられた。
――誰だ?
それを窺う前に実況が熱く響く。
『さぁ、いよいよポケモンリーグも大詰め! ポイント獲得数の一二位が同時スタートする時です! 皆さんもカウントしてください! 3!』
「2!」と群衆も一緒になって叫ぶ。ユキナリは巡らせようとした首を真正面に向け直す。
「1!」
人々の声が相乗し、ユキナリはうねりを感じ取った。これが王を選ぶための戦いのうねり。人々の願いの結晶。それが自分の手に入ろうとしている。恍惚に口元が緩みそうになるがそれを制するように頬に貼った絆創膏の痛みが警告する。
まだ終わっていないのだと。
ヤナギが追いついてくるかもしれない。そうでなくとも自分とそうポイントが変わらない人間が一人いる。一体誰なのか。ダイゴか? それともイブキか? あるいは他の誰かか。
益のない考えに蓋をするようにユキナリは目を閉じ、カッと開いた。
『スタート!』
実況の声にユキナリはすぐさまホルスターからモンスターボールを引き抜き、オノノクスを繰り出す。オノノクスの威容に観客達からどよめきが漏れた。
――どうだ、これが僕のポケモンだ。
誇らしくなりユキナリはチャンピオンロードに続く道を直進する。オノノクスに飛び乗るとオノノクスの足が地を蹴った。チャンピオンロードは薄暗く、入ってすぐに直進は危うい事に気づく。「フラッシュ」の技を使うほどでもないが、考えなしに進めない。そう感じたユキナリの肌を粟立たせるプレッシャーの波があった。背後から近づいてくる。
先ほど見やったポイントの近い選手か、とユキナリは洞窟の奥へと入っていった。すぐにでも殿堂入りの間を抜け、ヘキサツールを破壊するべきだったがその選手に先を越されればヘキサツールどころか殿堂入りすら危うい。息を詰め、「誰だ……」と呟く。
「僕とポイントがあまり変わらない奴。ヤナギじゃない。それは確認した」
ヤナギ以外に自分とポイントが変わらない人間はいないと感じていたがそれ以上という事なのだろう。緊張を走らせ、戦闘意識を研ぎ澄ます。チャンピオンロードに入ってきた瞬間、それを狙うしかない。汚い手でもあるが、勝つためならば手段を選んでいられない。
「来い……。オノノクスのドラゴンクローで仕留める」
オノノクスが牙に黒い瘴気を棚引かせる。赤い電磁を帯びて発射の瞬間を待ちわびた、その時であった。足元で石ころが転がってくる。洞穴の中に入ってくる気配はない。ただ、石ころだけが同じ調子で降ってきた。それを理解するのに数秒を要した。どうして石ころが落ちてくるのか。それは洞窟内部へと人知れず入った人間の痕跡に他ならない。
――天井、上か!
ユキナリが振り仰いだ瞬間、紫色の巨躯が大写しになった。
毒々しい棘を背びれに並び立てた全身これ武器とでも言うようなポケモンだった。鎧のような表皮を持つポケモンは大口を開けて咆哮する。ユキナリとオノノクスの反応が遅れた。それは相手のポケモンの気迫のせいだけではない。それを操るトレーナーの姿だった。
黒いスーツを身に纏い、トレーナーは口角を吊り上げる。
「――さぁ、ニドキング。狩りの時間だ」
涼しげな目元が細められる。ユキナリはハッとして身構えた。オノノクスの身体へとニドキングと呼ばれたポケモンの攻撃が入る。怪獣と呼ぶほかないポケモンの胸部の中心に紫色の輝きを放つ宝玉が埋め込まれていた。それが中から点火し、ニドキングの攻撃性能を高める。防御の姿勢を取ったはずのオノノクスへとニドキングは恐るべき膂力で迫り、着地と同時に地面を揺るがせた。
「大地の力!」
相手トレーナーが叫んで華麗に舞い降りる。ニドキングから放たれた衝撃波がオノノクスの足場を揺るがせ、ユキナリもつんのめった。揺らぐ視界の中で、信じられない、と思いつつも叫ぶ。
「そんな、お前は――サカキ!」
だが、ユキナリはそう簡単に認めるわけにはいかなかった。フジと共にミュウツーがキーとなって次元の扉が開いた。グレンタウンを飲み込んだ破滅の瞬間、サカキは次元の扉の向こう側へと吸い込まれていったはずだ。サカキはもうこの世にはいないはずなのに。
オノノクスがニドキングと組み合おうとする。ニドキングは足を踏み鳴らし、拡散させた「だいちのちから」の範囲から亀裂を生じさせた。その攻撃の予感にユキナリは叫ぶ。
「駄目だ、オノノクス。距離を!」
オノノクスと瞬間的に同調し、攻撃姿勢から即座に回避行動に移る。飛び退いたオノノクスが先ほどまでいた空間を氷の光線が掃射された。グレンタウンで見せたのと同じ戦略だ。大地の力を触媒にして冷凍ビームを掃射するコンボである。サカキは避けられたのが意外だったのか眉根を寄せた。
「避けた、か。だが、その容貌」
サカキは自分を注意深く観察し呟く。
「よく知っている。オーキド博士、いや、オーキド・ユキナリだ。特に変わったところはないようだが、一瞬で同調したな。その辺が違う、というわけか。キシベの警告通りにはなりそうだ」
「今、なんだって?」
ユキナリはその名を問い質す。サカキは何でもない事のように鼻を鳴らす。
「キシベの名が意外か? だが、俺からしてみればお前も意外そのものだ。オノノクス。あちら側ではそういうポケモンの所持歴はなかったはずだが」
「……何を言っている? 僕は最初からオノノクスがパートナーだ」
あるいは前回、ミュウツーで対峙したために気づいていないのか。サカキは意味深な笑みを浮かべた後、「なるほどな」と納得した様子だった。
「こちら側とあちら側では少し違う。キシベの話通り、楽しめそうだ。オーキド、と言えばもうろくしていたイメージしかないが、これほどまでに強かったとはな」
「勝手に納得して、何なんだ。お前こそ、所持ポケモンが……」
ニドキングがサカキの傍に立つ。ユキナリはその威容に固唾を呑んだ。一本の鋭い角が頭部に生えており、丸太のように太い手足はパワーがある事を容易に想像させる。
「ああ、ニドキングは初めてだったか? あるいはこちら側の俺はニドキングを使っていなかったか」
先ほどからサカキと自分の言葉は噛み合っているようで平行線だ。サカキが言っている事を全く理解出来なかった。
「あちら側って何だ? お前は、僕の何を知っている?」
「何を、か。全てだ」
断言した声音にユキナリは息を呑む。
「オーキド・ユキナリ。お前は、俺に敗北する」