第百八十四話「真伝説」
航空母艦が崩壊していく。
グレンタウンの沖から臨めるのはそれだけだった。方舟のように映る航空母艦がブロック状に崩れ落ちる。今までの日々も、戦いも全てを無に帰す覚悟の現われに映った。ヤナギはそれを賭けて戦っている。心の灯火、プライドというものを。ナツキにはそう感じられた。
ナツキだけではない。ヘキサの面々は皆、ユキナリとヤナギの戦いに固唾を呑んで見守っている。どちらが勝とうとも、何の文句もない。ヘキサの人々にはヤナギが希望の象徴に映る事だろう。ユキナリとヤナギ、どちらを信じればいいのか。昨日には迷いのしこりとなっていたものだったが、もう心に決めた。決してユキナリを裏切る事はないと。ユキナリもナツキの期待を裏切る事がないのだと感じていた。
「氷の要塞が破壊されて……」
「キュレムが動いとるからやろ。オノノクスも同じくらいの強さで向かっているみたいやけれど、勝つのはどっちか分からんな」
マサキの声には一抹の寂しさが混じっているようだった。ヤナギに一時でも賭けたものがあるはずである。それが崩れ落ちると言うのだ。寂しくないはずがない。
「おい、見ろ!」と誰かが指差した。その先には黒と白の光が交差して弾け飛び、航空母艦を一挙に破砕した。球状に開いた空間には二体のドラゴンタイプが対峙している。
片や、赤い光を全身から放つ黒いポケモン、オノノクス。片や、白い姿のまま、氷結した身体を直立させているキュレムがいた。キュレムは氷を義手のように固めた右腕を突き出したままの姿勢である。オノノクスは体表面のほとんどが氷によって侵食されていた。
全員がキュレムの勝利を感じ取った。キュレムは右腕を静かに下ろす。オノノクスの全身を氷が包み込もうとする。ナツキは思わず目を瞑った。その時である。
鋭い音が響き渡った。目を開くとキュレムの身体へと黒い影が迸っているのが目に入った。キュレムが小刻みに震える。自らに起こっている事象が信じられないかのように。右腕を動かそうとすると、内側から破裂した。右腕を失い、左腕も千切り落ちている。両腕を失ったキュレムが仰け反った。黒い影はキュレムそのものを両断していた。ずるり、と半身が落ちていく。キュレムの身体が海面へと沈み、オノノクスの体表面の侵食が収まった。オノノクスは気づいたのか、赤い光を再び灯らせて翼を広げる。ゆっくりと砂浜へと降下したオノノクスに誰かが、「オーキド・ユキナリが勝ったんだ……」と呟いた。
「ユキナリが……?」
半ば信じられない心地でナツキも口にする。キュレムは断末魔の叫びを上げる事もなく、静かに沈黙している。海に沈むその身体を支えるものは何もない。両腕を失ったキュレムが沈み込もうとするのに、ナツキは咄嗟にホルスターに手を伸ばした。
「ハッサム、メガシンカ!」
声に応じ、メガハッサムが駆け抜けてキュレムを受け止めようとする。キュレムは身体のほとんどを破砕されており、最早手遅れなのは誰の目にも明らかだった。だがその骸が海底へと沈んでいくのは見ていられない。ナツキはその一心でキュレムを抱き留めた。キュレムは呼吸音と大差ない鳴き声を発する。
すると、頭上で鈍い音が聞こえてくるのに気づいた。仰ぎ見ると氷の足場の上で二人の人影が交錯していた。お互いに相手を殴り合い、顔は赤く腫れ上がっている。ユキナリとヤナギだった。
「まだ、戦っているって言うのかよ……」
誰かが信じられないように呟く。徐々に降下してくる氷の足場の上でユキナリが拳を振り上げた。ヤナギはそれを受け止め、ユキナリの腹部へと膝蹴りを見舞う。
ユキナリは歯を食いしばりヤナギの背筋へと肘鉄を食らわせた。ヤナギが呻き、その手が薙ぎ払われる。ユキナリの頬を捉えた一撃によろめいた隙にヤナギはおぼつかない足取りで距離を取った。
ユキナリも同様でよろよろと後ずさる。
お互いに体力の限界に達している様子だった。だが、二人は戦いをやめようとしない。一喝する叫びを放つとユキナリは相手の顔を殴りつける。ヤナギも叫びながらユキナリの顎へと容赦ない一撃を食い込ませた。
ユキナリは額に手をやって足取りが危うくなるが辛うじて持ち堪えてヤナギを睨み据えた。ヤナギは肩を荒立たせてユキナリを挑発するように手招く。ユキナリは構えを取り、ヤナギの頬を力いっぱい殴りつける。ヤナギは氷の足場に血の唾を吐いてから、ユキナリの頭部へと拳を放った。ユキナリは腕で押さえようとするが力が足りず、たたらを踏む結果になる。ヤナギは姿勢を崩したユキナリを蹴りつける。ユキナリは足を払い、倒れたヤナギを引っ張って頬へと張り手を見舞った。
ヘキサの面々はただ硬直するしかなかった。自分達のリーダーが、破滅を誘発した相手を殴り合っている。それが全く理解出来なかったせいだろう。ナツキも、このように暴力的なユキナリを目にするのは初めてだった。鼻血をユキナリは拭い、「この程度か」と頬をさするヤナギを睨んでいる。
「まだまだァ!」
ユキナリの拳が空を切り、ヤナギの拳が眉間へと吸い込まれる。ユキナリはその一撃で倒れたかに見えた。だが、「まだ……まだ」と諦めていない様子である。呼吸音と大差ない声音にもヤナギは容赦ない。立とうとした手を踏みつけて、「そんな手で何が出来る?」と怒鳴りつけた。
「何も守れやしない! 大切なものも」
「守ってみせる。勝ってみせる!」
歯軋りしたユキナリはヤナギの白いマフラーを引っ張る。激情したヤナギが、「貴様ァ!」と叫んでユキナリの鼻っ面を蹴りつけた。ユキナリはマフラーを離さない。ヤナギは、「穢れるだろうが!」とユキナリに容赦のない攻撃を浴びせる。
「貴様のような凡俗に!」
「黙れ! お前のような奴に!」
バランスを崩して倒れたヤナギへとユキナリは馬乗りになって拳をぶつける。
「僕は、勝つんだ!」
「貴様がっ! 貴様がいるから!」
ユキナリの拳を受け止めきれずにヤナギの声に苦悶が混じる。氷の足場がようやく砂浜に降り立ったがそれでも二人は離れようとしなかった。お互いを罵倒し、殴り合っている。
割って入る勇気を持つ者など誰もいない。ヤナギが身体をひねってユキナリを振るい落とし、立ち上がって顔を拭った。白かったマフラーは血で汚れていた。ヤナギの顔は赤く腫れ上がって痛々しかったが、それはユキナリも同じだ。呼吸音がしばらく続いた後、双方、雄叫びを発した。身体の奥底から発せられた声が砂浜に響き渡り、吸い寄せられるように拳が相手の頬を打ち据える。両者共にそれを満身に受け、仰向けに倒れた。その段階になってようやく、「ユキナリ……」とアデクが口にした。それに倣うかのように人々が、「ヤナギさん」、「リーダー」と声を出していく。ナツキもメガハッサムを置いてユキナリの下へと駆け出した。近づいた瞬間、思わず口元を押さえる。ユキナリの顔は血で塗れていた。拳も真っ赤である。
「ユキナリ、しっかり!」
肩を揺すると切れた瞼を開き、「ナツキ……?」と声を漏らす。ナツキは思わず嗚咽の声を出した。
「よかった……! 生きている……!」
ナツキがユキナリの頭を抱き、「あんた馬鹿よ。大馬鹿よ!」と喚いた。
「……うるさいな。馬鹿じゃないよ」
ユキナリの声には憔悴があったがきちんと脈動もある。どうやら命には別状がないらしい。対してヤナギの側も多くの人々が詰めかけ、呼びかけを続けていた。
「ヤナギさん!」
「ヤナギ! 起きろ! 貴公は、務めを果たしたのだから!」
チアキの平時を知っているのならば信じられないような声音に驚く。取り乱した様子のチアキとカミツレの呼びかけにヤナギは僅かに目を開いた。
「……耳障りだ。大きな声を出すな」
ユキナリと同じようにヤナギは小言を漏らして気がつく。チアキとカミツレを含むヘキサのメンバーが安堵に顔を綻ばせた。
「よかった……! ヤナギ」
「……聞かせろ。勝ったのはどっちだ?」
だからこそ、ヤナギの放った言葉は全員の度肝を抜いたのだろう。勝敗云々よりも生きている事が素晴らしいと言うのに、ヤナギはあくまで勝負にこだわっている。それはユキナリも同じだった。
「オノノクスは……?」
首を巡らせてその視界に砂浜へと降り立ったオノノクスを入れると、ユキナリはやおら立ち上がった。
「どこへ……」
ナツキの声に、「オノノクスには」とユキナリはよろめきながら返す。
「僕がいなくっちゃ。手持ちを、失うわけにはいかない」
その信念とも言うべきか、意地とも言うべき部分にナツキは息を詰まらせ、ユキナリの背中に抱きついた。ユキナリが歩みを止める。ナツキは早口に呟く。
「ユキナリ。もう、終わったんだよ」
その言葉でようやくユキナリはヤナギへと目を配る。ヤナギはチアキの肩を借りて、「まだ、勝負がついていないとのたまうつもりはない」と顎をしゃくる。
「お前の勝ちだ、オーキド・ユキナリ」
「僕の……」
ユキナリは呆けたように口にする。ナツキはユキナリがこれ以上傷つかないように抱き留めた身体を離すつもりはなかった。
「あんたはキュレムとヤナギに勝ったんだよ」
「僕のオノノクス。そうなのか? 僕は、勝ったのか?」
ユキナリはオノノクスへと問いかける。ダメージはあったがオノノクスは肯定するように鳴いた。
「そう、か。僕が勝ったんだ」
先ほどまで殴り合いをしてまで勝利に固執していた姿はどこへやら。ユキナリはようやく現実認識が追いついたようだった。ヤナギはゆっくりとユキナリへと歩み寄る。まだ戦いを続けるつもりか、と身構えたがヤナギは自嘲の笑みを漏らす。
「殴っても蹴っても、お前は俺に立ち向かってきた。その男の覚悟と誓い。しかと見届けさせてもらった」
ヤナギはメガハッサムに抱えられているキュレムへと顔を向け、「もうキュレムは死ぬだろう」と冷静に告げていた。
「キュレム。墓の一つも立ててやれず、海の底ですまないが、休んでくれ。もう戦う必要はない」
ヤナギの言葉にキュレムはメガハッサムの手を振り払い、沖へとその身体を進ませた。だが両腕のない身体はすぐさま波に煽られ、氷の翼がボロボロと崩れていく。キュレムは振り返らずに海の底へと沈んでいく。それは主人であるヤナギも望んだのならば最期の形でいいのだろう。氷の龍は流氷のように小さくなり、やがて見えなくなった。ヤナギは青いコートの詰襟を開き、懐に留めてあるバッジに手をやる。一つ一つ、丁寧に外してゆき、それをユキナリの手に握らせた。
「餞別だ。オレンジバッジ、レインボーバッジ、ゴールドバッジの三つ。勝ったのだからお前に資格はある」
ユキナリは三つのバッジへと視線を落とし、「僕の……」と呟く。
「そうだ。ここまで来たんだから後戻りするんじゃないぞ。――王になれ。それが俺を踏み越える人間の務めだ」
ユキナリはヤナギの言葉を受け止めた様子だった。バッジを留め、「これで六つ」と口にする。
「ヤナギ。お前は……」
ヤナギはフッと口元を緩め、「負けても清々しい風が吹くのだな」と海上を眺めた。
「俺は、敗北者には、地を這い蹲る姿こそ相応しいのだとばかり考えていたが、いざ自分がこれ以上のない敗北を味わうと、まだ終わりたくないというわがままが出てくるものだ」
ヤナギは自分の側に集まった人々の顔を視界に入れ、「お前らもそうだったのだろう?」と目配せした。チアキとカミツレは首肯する。だからこそ、今までヤナギについてきたのだと。
「オーキド・ユキナリ。いや、下の名前でいいか?」
ヤナギは手を差し出す。思わぬ行動にナツキも驚愕した。
「ヤナギ、あんた……」
「もう、意地を張っても仕方がないのだと痛感したよ。お前にも、失いたくない大切な人がいるのだと。だから、この命を賭けた勝負、締め括るために、握手をしたい。今まで相手の死をもってでしか、決着がつけられないと感じていた己への戒めに」
ユキナリは歩み寄り、「それは僕も同じだ」と答えた。
「カンザキ・ヤナギ。僕もお前の死でしか、この宿命は変えられないのだと感じていた。でも、そうじゃない。僕達は、共に歩む道も選べるんだ」
ユキナリがヤナギと固く握手を交わす。その光景は今までの二人を知っているのならば信じられないものだったが、二人はようやく超えたのだろう。宿縁という呪縛から、解き放たれたのだ。
「ヤナギ、でいいか?」
呼び捨てなのはお互いに不器用なせいに違いなかったがヤナギは頷いた。
「ユキナリ。俺を超えたんだ。絶対に、王になれ」
「ああ。僕は王になる」
固く誓った言葉にユキナリは水平線を照らし出す太陽の光を眺める。これから向かう先は故郷、マサラタウンを超えた場所。開催地、トキワシティのさらに先にある中枢、セキエイ高原。そこでリーグ戦が繰り広げられるはずだ。
「ユキナリ、あたしからも渡すものがある」
ナツキは襟元につけておいた雫の形をしたバッジをユキナリに手渡す。ユキナリはそれを目にして、「いいの?」と訊いた。
「だって、ナツキも玉座を目指すなら」
「あたしにだって結構ポイントはある。優勝圏内かは分からないけれど、バッジに頼るのはやめるわ。バッジは一箇所に集められなければいけない。そうでしょ? ヤナギ」
視線を振り向けるとヤナギは、「そうだな」と応じた。
「これで七つ。全部で八つのバッジのうち、ほぼ全てが手に入った」
ヤナギはヘキサの人々へと呼びかける。
「これから、リーグ戦にもつれ込む前に、皆に知って欲しい事がある。バッジに存在する能力についてだ」
ヤナギは声を張り上げる。身体の自由がほとんど利かないというのにタフな精神力だと感服するしかない。
「バッジは、ただのシンボルじゃないのか?」
ユキナリが呟くとヤナギは振り返り、「そうだな。お前が一番知らねば」と口を開いた。
「バッジを集める事と、その意義について。ユキナリ、ヘキサツールがセキエイの中枢には存在する」
その名を聞き及んでいたのだろう。「ヘキサツールが……?」とユキナリは声を詰まらせる。
「ヘキサツールにバッジが埋め込まれた時、真の王が君臨し、カントーの地は磐石な支配の下、何百年、何千年の平和が約束される。ネメシスの目的は王の擁立。そのために傍観を貫いているはずだ。今は、お前に王の資格はある」
ユキナリはバッジをさすりながら、「ヘキサツールを完成させればいいのか?」と尋ねる。だがヤナギは頭を振った。
「その逆だ。ユキナリ、お前はヘキサツールを破壊しろ」
思わぬ言葉に全員が息を呑む。ナツキもヘキサツールの完成こそが平和の礎だと思っていただけに意外だった。
「何で? ヘキサツールが完成すれば平和になるって……」
「言い方が悪かったな。平和にはなる。ただし、この地方のみだ。破滅は四十年後に確定した未来として襲いかかる。恐らくはヘキサツールを有していない他地方のどこかへと」
「そんな……」
ユキナリは拳を震わせた。カントーだけの平和をよしとしないヤナギは続ける。
「ユキナリ。この状況で、全てを理解し、王になる素質を備え、ヘキサツールの間に招かれる可能性があるのはお前だけだ。お前自身の手でヘキサツールを破壊しろ。それが特異点としての最後の務めだ」
「でも……」とユキナリは戸惑う。当然だ。王の証を自ら壊せと言われているのだから。
「俺は最初から、ヘキサツールの存在を知った時点で、そうするつもりだった。ヘキサツールの間はネメシスの支配下だ。その情報は既にマサキが手に入れている」
マサキが、「でもやで」と端末のキーを叩いた。
「あれは破壊出来んようになっとる。もしかしたらフジから聞いたかもしれんが、エネルギー体が覆っとるんや」
その言葉にユキナリは、「三位一体のエネルギー」と呟く。聞いた事のない言葉にナツキが狼狽しているとマサキは首肯する。
「どうやらフジもそこまでは突き止めたみたいやな。それを破る術は聞いとるか?」
「サンダー、ファイヤー、フリーザーを使い、擬似的に三位一体を再現する。次元の扉を開く方法で、そうすればやり直せるってフジ君は言っていた」
「やり直せる云々は知らんが、その方法論で三位一体を使用し、ヘキサツールを破壊する。そうでしか今までは出来ん、と思われとった」
「今までは?」
ユキナリが顔を上げる。つまり、それに代わる方法が考案されたという事だ。
「せや。お前のオノノクス、それが持っとる型破りの特性。それでヘキサツールを破壊出来るかもしれん」
「僕のオノノクスで……」
ユキナリはオノノクスへと視線を向ける。マサキは天然パーマの頭を掻きながら、「ヤナギでも可能性はあったんやけれどな」と口にする。
「白い状態と黒い状態のキュレム。ワイはターボブレイズとテラボルテージと名付けた特性やが、これにも同等の力があった。だからワイはヤナギにこそ頼むべきやと思っとったんやけれど」
ヤナギは鼻を鳴らし、「勝ったのはユキナリだ」と告げた。ユキナリはその分まで背負わなければならない。あまりに重い責任がその双肩にかかっている。
「ユキナリ、無茶は……」
「大丈夫」
ユキナリは応ずる。その双眸に最早迷いはなかった。
「リーグ戦、必ず勝ち残ってヘキサツールを破壊する。そして掴むんだ」
拳を握り締め、その言葉を口にした。
「本物の未来を」