第百八十三話「勝利への渇望」
「――勝つ」
口中に血の味が広がる。ユキナリは片手で身体を持ち上げてもう一度呟いた。
「勝つ。そのために来た」
「口ではどうとでも言える。反撃してみろ、オーキド・ユキナリ」
ヤナギの足を掴み、ユキナリは引き込んだ。ヤナギが眉を僅かに上げる。ユキナリはそのまま足にすがりつく。
「勝つんだ……。僕と、オノノクスなら」
「いつでも瞬間冷却の中に放り込む事が出来る。この状況下で勝つとのたまうのは、現実的じゃないな」
「たとえ夢物語でも……」
ユキナリはよろりと立ち上がる。自らの身体を動かしているのは、自分だけの意思ではない。半分がオノノクスと混じり合っている。ポケモンと人間の境目が曖昧になり、獣の本能に呑み込まれそうになる。
「夢を追う資格のない人間は、いない!」
オノノクスが赤い眼を開く。その脈動がユキナリの中へと流れ込み「ヒト」としての閾値を越えていくのが分かった。
「完全同調……。破滅をもたらすつもりか」
オノノクスの黒い斧牙に赤い脈動が宿り、その首を薙ぎ払う。それだけで空間がビィンと震えキュレムの腕から血飛沫が舞った。覚えずキュレムが手を払って離す。オノノクスは崩壊していく氷の足場へと着地し、低く咆哮する。
「だから、僕は……!」
「獣になるのも厭わない、か。それも、確かに一種の覚悟の形。だが」
ユキナリのがら空きの懐へとヤナギの拳が入る。ユキナリは肺の中の空気を吐き出した。
「俺とキュレムは、それを超える!」
キュレムが白い姿になり、右手に熱量を凝縮させる。放たれた光弾をオノノクスは牙で弾くが、弾いた瞬間、それが起爆した。十字に炎を押し広げさせ、オノノクスが爆風で煽られる。一瞬だけ、同調している視界が眩く包まれた。だがその一瞬でキュレムは距離を詰めていた。オノノクスが咄嗟に反応して攻撃を見舞おうと腕を薙ぎ払う。しかし、キュレムはその手刀を手首から掴み上げ、瞬時に凍結させた。オノノクスからの激痛のフィードバックがユキナリを襲う。左手首が凍傷に蝕まれていた。
「完全同調とは、即ちポケモンのダメージを全て引き受けるという事。通常ならば、使えば勝てるだろうな。だが、相手はこの俺とキュレムだぞ?」
キュレムが右手を掲げる。オノノクスの眉間へと手刀が突き刺さった。ユキナリは額を押さえて激痛に叫ぶ。瞬時に傷口が凍て付き、内部から侵食してくる。
「その程度の力で立ち向かう事、それに勝てるとのたまった事が間違っている。脳の内側から凍って死ね」
キュレムの冷気が内部からユキナリの思考を分断する。血潮さえも凍り付く外気。オノノクスが眼球をぐるぐると回し、死の瀬戸際まで追い込まれる。
――負けるのか?
ユキナリの思考の一点に浮かんだのは死への恐怖でもなく、ただそれだけだった。ここまで来たのに、自分は敗北すると言うのか。
「……い、嫌だ」
喉を震わせた声はほぼ無自覚だった。ヤナギが怪訝そうに見やる。
「僕は負けたくない。この勝負に、勝つために生きてきた。今ならば分かる。僕は、勝たなきゃいけない。ヤナギ、お前を倒してまででも」
「俺を倒して、何を望む? 玉座か?」
「……そんなもの、欲しければくれてやるさ」
自分でも意外な言葉にヤナギは瞠目する。自分は玉座が欲しくて今まで戦ってきたわけではない。今になってそれがようやく分かった。
「僕は、僕の欲しいものは、もう手に入っているんだ。なんて、遠い回り道をしてきたのだろう。僕が望むのは、勝利への渇望だ。今まで、そんなものを望んでいる事を頭では否定してきた。そんな醜い代物が、僕の望みであるはずがない、と感じていた。でも、死を間際にして分かった。僕は、ただ勝ちたいだけだ。それは、誰を踏み越えてでも、この世界を巻き添えにしてでも」
「その身勝手で世界が滅びる。それを勘定に入れているのか?」
「……かもしれない。でも、失うのを恐れていたら前には進めない。僕は、失いながら進むんだ。それが、生きていくって事なんだ」
恥も外聞も捨てて叫ぶ。ユキナリは、自分の真の望む願いへと。
「僕は純粋に、誰にも負けたくないだけだ!」
願いの鼓動が弾け飛び、オノノクスへと伝播する。オノノクスが視界を定め、キュレムを睨んだ。その直後、オノノクスの内部骨格が赤く燐光を帯びる。キュレムが掴んでいた左手首から煙が棚引いた。
「この高温……、逆鱗か」
「ヤナギ! 僕は勝つ!」
その願いのためならば何を犠牲にしても構わない。逆鱗の光が制御出来ないうねりとなって身体を突き抜ける。オノノクスの背筋から赤い光の羽根が伸びた。
「獣となるのも恐れないか。だが、オーキド・ユキナリ! 負けられないのは俺も同じだ!」
ヤナギがキュレムへと指示を飛ばす。キュレムが黒い姿になろうと体色を変えかけて、オノノクスと同期した腕を伸ばす。キュレムの手刀が突き刺さったままの眉間へと、オノノクスが手を薙ぎ払った。キュレムは咄嗟に手刀を抜こうとしたが、それよりも素早くオノノクスの光を纏った手が命中したらしい。指が何本か削げ落ちていた。
「俺のキュレムに傷を……!」
オノノクスは眉間に突き刺さった指を取り払い、鋭い眼光をキュレムに向けた。額の傷跡が内側からの光で浮き上がる。十字の傷の上に、縦の一本線が刻まれていた。
「三本の線、六角形を形作るのに必要な要素……。なるほど、皮肉だな。俺のキュレムが、ヘキサの象徴たる俺自身が、お前とオノノクスを完璧の領域に引き上げるとは」
オノノクスが咆哮する。空気が逆巻き、暴風がキュレムへと襲いかかった。赤い燐光を混じらせた疾風を、しかし、キュレムは冷却した風で受け流す。
「僕は勝つ!」
「来い! オーキド・ユキナリ!」
オノノクスが薙ぎ払った腕の風がキュレムへと突き刺さる。キュレムは黄色い眼光に戦闘本能を滾らせて睨み返す。瞬時に黒い姿になり、電流の剣を形作ったかと思うと、オノノクスへと投擲した。オノノクスの肩口に「クロスサンダー」の剣が突き刺さる。ユキナリは肩を押さえながらヤナギへと飛び込んだ。
「現実の俺を認識している? 完全同調ではないのか?」
飛んできた拳を避けたヤナギが瞠目する。ユキナリは、「いや、完全同調さ」と震える指先を見やった。
「だが、お前でもその先がある事を知らなかったみたいだな」
ユキナリの視界には既にヤナギは実体を伴っていない。光の塊が人間の形を取っているだけに見える。光はそれだけではなく万物に流れているのが理解出来た。視覚ではなく五感と第六感を駆使して戦う。これが、自分とオノノクスの最大到達点だ。
「僕の肌に突き刺さるのは、これは風だ。その微粒子までも感じられる」
鋭敏な感覚はそれだけでも毒のように身を揺さぶる。一点に留めておくと、それ以外が見えなくなってしまう。ユキナリはあえて、オノノクスと情報を分断した。オノノクスはキュレムと戦えばいい。自分の相手は、ヤナギ自身だった。
「完全同調でありながら、その上があったというのか。マサキのデータにはなかったな。だが、ここまで来れば最早迷いは微塵にもない。オーキド・ユキナリ。お前を殺す事に躊躇いは一切感じなくなった。もう化け物なのだからな」
キュレムが右手を顔の前に翳す。氷で失った指が補強され、再び炎熱を充填する。
「させない!」
ユキナリの声が響くと同時にオノノクスが牙を振るって黒い光条を放つ。キュレムは右腕で弾こうとするが、その時には既に右腕を侵食されていた。黒い顎のように映る存在がキュレムの右腕に噛み付き、そのまま肘から先を食い千切った。キュレムが目を見開き、ヤナギは、「まさか」と口にした。
「キュレムの右腕を、引き千切るほどの威力など」
信じられない声音だったが、直後に膨張した炎のエネルギーが生き別れになった腕と共に爆破し、ヤナギは考えを改めた様子だった。
「……なるほど。人間とポケモンの垣根を冒すもの。それが特異点、オーキド・ユキナリという事か!」
ユキナリは雄叫びを上げてヤナギへと拳を見舞うがヤナギは軽くステップを踏み、「そのようなへっぴり腰で!」とユキナリの背中に肘鉄を食らわせた。
「俺に敵うものか!」
手を振り翳し、キュレムがもう片方の腕に青い光を滾らせる。黒色へと変化したキュレムが電流の剣を振るい上げた。オノノクスが牙を振るう。黒いブーメランのようなものが二つ、キュレムに向けて放たれた。キュレムは電流の剣で薙ぎ払うが、黒い何かはそのまま顎へと変異し、電流の剣を噛み砕いていくではないか。キュレムと共にヤナギが震撼したのを感じ取る。
「何だ……? さっきの、右腕を引き千切った攻撃と同様か?」
ヤナギとキュレムの判断は早い。即座に剣を手離す。電流の剣は断頭台のような顎に食い潰された。
「対象を絞った攻撃、さらに属性も関係なく発動する必殺の一撃……。統合するに、これは食らえばお終いだな。俺が知っている通りでは、ハサミギロチン、角ドリル、絶対零度が思い当たるが」
その中に「ハサミギロチン」が入っている事にユキナリは目を瞠る。ヤナギの審美眼は伊達ではない。ポケモンの特性、攻撃属性に至るまで全てを瞬時に読み取る。
「ハサミギロチン、だと考えられるが、この威力と射程、それに命中精度。ただ闇雲に撃っているにしては馬鹿に出来ない。本気で、潰しにかかるか」
ヤナギがすっと指を振るい落とすとキュレムが右腕の断面を押さえた。歯を食いしばり、生成されたのは氷の義手だった。
「付け焼き刃で申し訳ないが、我慢してくれ、キュレム」
氷の義手の内部へと青いチューブと赤いチューブが交差して接続される。どうやらそれが神経の働きをするらしい。指先の末端まで至ると、元の腕の通りに指を動かしてみせた。
「氷の腕が、動く……」
「俺が到達した凍結術の極みを見せてやろう。お前のオノノクス、ハサミギロチンとどちらが強力か――」
キュレムが氷の右腕を振るい上げる。その瞬間、周囲の空気が震え出す。振動が景色を歪ませ、霜が降り始めた。氷の右腕の内部で赤い神経と青い神経が螺旋を描き、瞬いた。その直後である。
オノノクスとユキナリをプレッシャーの網が襲いかかった。肌が粟立ち、ユキナリはオノノクスへと後退を促す。
「思い知れ!」
先ほどまでいた空間が凍り付き、巨大な氷の立方体が立ち現れた。何もない場所からキュレムが生成した、というわけではない。キュレムは空間そのものを凍結させたのだ。キュレムが右腕を握り締めると立方体が内側から弾ける。まともに食らっていれば同じ末路を辿ったであろう。
「今の攻撃は……」
「絶対零度。一撃必殺の技だが命中精度と射程距離が限りなく短い。マンムーならば使いどころもあるのだが、キュレムの射程や特殊攻撃力を加味した場合、使わないほうが一般的だろう。だが、オノノクスのハサミギロチンに対抗するにはこの技しかない」
目を凝らせばキュレムの右腕で螺旋を描いていた赤と青の神経が途切れている。ユキナリの視線を読み取ったように、「気づいたか」とヤナギが言う。
「この攻撃は強力さゆえに、連発出来るものではない。通常の腕ならば二三回には耐えられるだろうが、氷の義手では神経接続が途切れてしまう。一発で命中させねば後がないな」
「何故それを」
ユキナリは荒い呼吸のまま口にする。
「僕に教える?」
ヤナギは鼻を鳴らし、「完全同調の状態のトレーナーと対等に渡り合うには」と語り始める。
「同じ状態に身を浸すか、あるいは別の道を模索するか、決断は早目にするべきだ。完全同調、出来る出来ないではなく、やらない。それが俺の答えだ。リスクの高さと相討ち覚悟でもない限りする意味がない。そして、俺はお前に勝って勝利者として降り立つ。それが目的。だからあえて、トレーナーとポケモンの垣根は越えず、このままで戦う」
何という信念だ。ユキナリはその志の高さに感服すらしてしまう。ヤナギは自分と同じフィールドには立たないとあえて宣言した。だが、手の内は全て明かす。それが対等だと感じたのだろう。ユキナリもそれに応える義務があった。
「僕とオノノクスは完全同調状態。だからオノノクスを殺せば僕も死ぬ。つい先ほどまでの攻撃はハサミギロチン。一撃必殺だ。どうしてだか、僕とオノノクスは長距離射程で、広範囲の攻撃を連発出来る」
「その代償は大きいはずだ」
恐らくは完全同調によるリスクが代償であろう。あるいは命を削る代物か。どちらにせよ、ユキナリはそのような危険性を恐れている場合ではなかった。
「僕は、勝つ。それ以外はもう考えない事にした」
ユキナリの言葉にヤナギは、「それでこそ、我が怨敵に相応しい」と青いコートをはためかせる。
「来い! 迎え撃ってやる!」
ユキナリはオノノクスへと前進を促す。オノノクスが内部骨格から赤い燐光を滲ませ、氷の足場を蹴りつけた。もうほとんどの足場が崩落し、残るはトレーナー同士の足場と数えるほどのものしかない。オノノクスが逆鱗の翼を羽ばたかせてキュレムの攻撃射程へと入る。
その瞬間に黒い斧牙の一閃を放った。何度も撃てる、とヤナギの前で大見得を切ったが恐らくはそれほど強力な技ならば五回前後。そして、先ほど三回撃った。もう二回しか撃てない。一射した黒い顎の一撃に対してキュレムは左腕を掲げた。左腕に黒い顎が噛み付く。即座に噛み切られていくが、代わりに右腕を温存しているのだろう。オノノクスが攻撃射程に入るのを待っているように思われた。ユキナリは牽制の「ドラゴンクロー」を放ち、キュレムの懐へと入る。あと一発。それを確実に命中させ、倒すには射程に入るのを恐れては不可能だ。キュレムがオノノクスへと狙いを定める。右腕が振るわれ、一撃必殺の技が放たれるかに思われた。
「今だ!」
オノノクスが牙を振るう。黒い一撃に対して放たれたのは「ぜったいれいど」ではない。赤い神経が脈動している。今まで前に出していた左腕が「ハサミギロチン」によって引き千切られ、炎熱を固めた右手が視界に入った。
――絶対零度じゃ、ない?
ヤナギが口元を緩める。
「誰が、絶対零度を撃つと言った? クロスフレイム」
縮まった距離で放たれた灼熱の十字架はオノノクスの身体へと叩き込まれた。その攻撃でオノノクスとユキナリが仰け反った一時の隙。それを狙い定めたかのように再び空気が鳴動していく。
いけない。射程内だ、と身体を動かそうとするが既にオノノクスは逃げられない距離にまで至っていた。キュレムが口角から白い吐息を棚引かせる。
「絶対零度。これを放てば俺の勝ちだ。お前は死に、宿命に決着がつけられる」
ヤナギは顎をしゃくり、「オーキド・ユキナリ」と名を呼んだ。
「言い残したい言葉があるならば今聞こう」
ヤナギなりの温情だろう。ここまで戦った敬意を表したいのかもしれない。仰け反ったオノノクスとユキナリは、「残したい言葉は――」と首を戻した。
その瞬間、ヤナギが戦慄したのが伝わる。牙にはまだ黒い瘴気が纏い付いていた。それが必殺の一撃の威力を誇る事にヤナギは気づいたのだろう。「馬鹿な!」と声を荒らげる。
「先ほど、ハサミギロチンは撃ち尽くしたはず……」
「誰が、ハサミギロチンだと言った?」
どちらも一撃必殺の技を持っているのならば、先に使った側の負けになる。相手の先の先を読み、どこまで手を打つかにかかっている。
「お前がクロスフレイムを隠すために左腕を犠牲にしたように、僕はハサミギロチンの最後の一撃を残すために全ての技を出し尽くした。さっきのはドラゴンクローだ。ハサミギロチンの攻撃モーションを真似た、な」
今まで一片通りの使い方しかしてこなかったのは理由がある。「ハサミギロチン」の攻撃モーションを確実にヤナギは学習しているはずだった。そうでなくともキュレムにはどの動きがどの技に連携しているのか即座に分かるだろう。だから「ハサミギロチン」を連発した。牙を振るう動作がその攻撃に直結しているのだと錯覚させるために。
「一手、遅れを取ったというのか。この俺が……!」
両方の牙に黒い瘴気が満ち、牙を伝う赤い脈動が熱を伴った。キュレムが右腕を振るい落とす。その手から一撃必殺の技が放たれる。どちらも相手を射程内に収めていた。
「絶対零度!」
「ハサミギロチン!」
足場で二人のトレーナーが相手へと向かって駆け出す。拳を振りかぶり、双方に向けて放たれた。黒白の彼方の一撃に全ては吸い込まれていった。