第百七十九話「ファーストキス」
命令がなければどう動けばいいのか分からない。
感情というものはその際には非常に邪魔で不合理で、何を成すにしても感情というものを発露させた行動は後悔しか生まない。だから命令を待っている。それが自分の中にある全てだった。
以前の「キクコ」にはこの他にも様々なものがあったと聞く。先生や、怖いものへの恐れ。インスタントスープが好きだったらしい。それに、何か大切なものを培ったと言うが、今の「キクコ」にはそれが一切感じられなかった。
「好き、って何? 私は、何?」
キクコは抱えていたスケッチブックのページを捲る。どうしてだかこれは手離してはならないような気がしていた。
以前の「キクコ」が大切に守っていたからか。だがその記憶は記録としては自分の中に僅かながら残っているもののほとんどポケモンとの同位体になってしまった自分には無縁のものに思えた。キクコはスケッチブックのページをさする。鉛筆で描かれたポケモン達は活き活きとしている。これがポケモンなのか。では九割それに近い自分はこれなのか。だが、キクコには「生きる」という行為が理解出来ない。
かといってその逆の「死ぬ」という行為に沈殿しているかと言えばそうでもなく、どっちつかずの身を持て余している。さらにページを捲っていくと、一人の少女のスケッチに行き着いた。キクコはそれを眺め、認識する。
それが以前の「キクコ」であると。自分と髪の色も眼の色も変わらない。ただ一つだけ、記憶が継続していない以外は。キクコはつい最近生まれたようなものだ。だから、描かれている前のキクコの事を知るよしもない。そのはずだった。
「何……」
頬を熱いものが伝う。それを理解出来ずにキクコは拭った。雫が顎を伝って零れ落ち、スケッチブックを濡らす。
「これが、涙。泣いているのは、私?」
どうして泣いているのだろう。以前のキクコもその答えを知らなかった。当然、自分が知っているはずもない。しかし、答えを知らないからと言って、それらが全て先延ばしにされたわけではなかった。涙を流している自分だけはここにいる。誰に否定されようとも、ここで泣いている自分だけは否定出来ない。
「私は、キクコ……。でも、じゃあどうして」
泣きたいのだろう。寂しいのだろう。ユキナリの絵を見つめているとこみ上げてくる感情は何なのか。
「私の心。ユキナリ君を、呼んでいる」
どうしてだかユキナリに会いたい。その感情に衝き動かされるようにキクコは部屋を出た。スケッチブックを小脇に抱え、氷結した廊下を歩く。その矢先、出会った人影にキクコは立ち止まる。
「俺の事を、覚えてはいないのだったな」
そう呟く青いコートの少年の記憶はなかった。
「誰?」
「カンザキ・ヤナギだ」
そう名乗った相手には憐憫の情があった。キクコの事を以前から知っている人間だろうか。だが今の自分には相手の感情に答えられない。
「どこへ行く?」
「ユキナリ君のところへ」
答えたキクコにヤナギは、「あいつのところに行くのか」と忌々しげに口にする。
「それしか、私にはないもの」
スケッチブックを眺めて自分の中で初めて感情の振れ幅が動いた。今までなかった事に戸惑うよりも急く気持ちが勝っている。ユキナリに会えばもしかしたら、この気持ちの答えが知れるかもしれない。
「行かなきゃ」
先を急ごうとするキクコの手をヤナギは掴む。
「待て。キクコ」
振り返るとヤナギの眼は真剣そのものだった。真正面から自分を見据えている。
「何?」
「オーキド・ユキナリが大事か?」
「分からない」
「では何のために行く?」
「分からない」
「俺が止めても行くのだろう?」
「多分」
確証はないがヤナギに止められても自分はユキナリに会おうとするだろう。それしか自分を知る方法がないから。
「お前は、自分自身を知りたいはずだ」
頷くと、「なら」と平静を保ち切れないヤナギの声が響いた。
「俺では、駄目なのか……」
最後のほうは尻すぼみになっていた。自分には資格がない、とでも言うように。キクコはヤナギが何を考えているのか分からない。その瞳から涙が伝い落ちる理由が、分からない。
だからだろうか。
「泣かないで、ヤナギ君」
無意識のうちに口からついて出た言葉に驚いたのはキクコも同じだった。ヤナギの涙を指先で拭い、そっと口にする。
「泣かないで」
ヤナギは、「すまない」と目元を拭う。白いマフラーが視界に映えた。
「そのマフラー」
「ああ、ずっとつけているんだ。君のくれたものだから」
今のキクコには記憶がない。ただ、それが大切なものである事だけは理解出来る。
「ありがとう。もう泣かない」
ヤナギはコートを翻す。どうやら覚悟は決まったようだった。キクコはその背中に問いかける。
「ヤナギ君、明日の戦いでユキナリ君を本当に倒すつもりなの」
それだけは聞かねばならない。ヤナギは迷いなく、「そうだ」と答える。
「倒さねば、未来はない。俺達はそう宿命付けられているんだ。初めて会った時から、どちらかが夢を諦めねばならない。どちらかが相手を下し、どちらかが敗北して地べたを這い蹲る。頂へと上るのは片方だけでいい」
ヤナギは白いマフラーをさすり、「ありがとう」と再び礼を言った。
「キクコ、君はまだ俺の事を思い出してもいないだろうし、覚えてもいないだろう」
ヤナギがまさか胸中を読んでいるとは思わなかったのでキクコは少しだけ驚く。静かな口調で、「でもいいんだ」と続けられた。
「君の思い出に俺がいなくとも、俺が君を覚えている。生きていてくれた。それだけで構わない」
ヤナギは歩き去っていく。キクコはしばらくその背中を眺め続けた。こうと決めた男の背中と歩みを止める言葉は、自分にはなかった。
「……ユキナリ君」
キクコは感知野を広げユキナリの居場所を探る。廊下で誰かと話しているのが伝わり、キクコは角を曲がる前に足を止めた。ユキナリはナツキと喋っている。その内容が僅かに聞こえてきた。
「あんた、オノノクスは?」
「うん。何とかなりそうだ。ただ、僕も制御出来るかは分からない」
ユキナリはオノノクスの入ったボールに視線を落として呟く。ナツキはその手へと自分の手を重ねた。
「ナツキ?」
ユキナリが怪訝そうに声を発しようとした瞬間、ナツキはユキナリにくちづけていた。キクコはスケッチブックを抱えたまま、それを目にする。ナツキは唇を離し、「馬鹿」と呟く。
「そんなの、あんたらしくないわよ」
ナツキの言葉にユキナリは呆然としている。ナツキは、「今の、前借みたいなものだから」と早口に言った。
「今度はあんたからね。あたしは、それしか受け取らないし」
ナツキは駆け出していく。キクコとは反対方向だった。ユキナリは廊下で立ち竦んでいる。唇をさすっているユキナリへとキクコは歩み寄った。
「ユキナリ君」
その声にユキナリはびくりと肩を震わせる。
「……あっ、キクコ、か」
少しばつが悪そうにユキナリは視線を逸らす。キクコは思い切ってスケッチブックを差し出した。
「ユキナリ君。お願いがあるの」
「お願い? 僕に?」
「もう一度、絵を描いて欲しい」
その言葉にユキナリは面食らった様子だった。「まさか、記憶が……」と驚愕の表情を浮かべる。キクコは努めて笑顔を保とうとした。
「もう一度、描いて、ユキナリ君。絵を描いているユキナリ君が、私は一番好きだから」
記憶はまだ戻っていない。恐らくは戻ってこない。以前の自分と今の自分は断絶している。ただ、ユキナリを幻滅させたくない。そして何よりも、幸せを願いたい。そのために自分の出来る事は描いて欲しいと言う事だけだった。
ユキナリは視線を彷徨わせ、「でも」と口を開く。
「僕に、また描いてもいい資格なんてあるのかな。明日、ヤナギに勝たなきゃ、僕もキクコも殺されてしまう。そんな時に、絵を描くなんて……」
キクコはユキナリへとスケッチブックを握らせる。その手にある温もりを感じながら、「ユキナリ君なら、大丈夫だから」と告げた。
「きっと、大丈夫だから」
繰り返した声にユキナリはスケッチブックを握り締める。きっと生きる活力になる。明日を迎えるのに希望は必要だった。
「……もし、生きていたら」
ユキナリは顔を上げてキクコを見据える。
「また描かせて欲しい。君を」
キクコはその言葉にユキナリの唇へと人差し指を当てた。ユキナリが目を丸くする。キクコは悪戯っぽく微笑んだ。
「駄目だよ、ユキナリ君。本当に大切な女の子以外に、そういう事言っちゃ」
その言葉にユキナリが追及の声を上げる前にキクコは身を翻して駆け出した。どうしてだか分からない。
ただ涙が止め処なく溢れ出していた。胸の中心にぽっかりと穴が開いたように思える。
感情――分からない。
記憶――分からない。
好き――分からない。
それでも、この胸を繋ぐ寂しさと空虚だけは、本物だった。