第百七十八話「純粋なる兵」
ユキナリは部屋に案内された後、どうしてだか自分に礼を言った。
「何だか、アデクさんにはいつでも、躓いたときに助けてもらっているような気がして」
「そんな事はない。今回だって、お前さんが自分で勝ち取った結果じゃ。誇りに思っていい」
ユキナリは少しだけはにかむように笑った後、「勝ちます」と強く言い放った。
「僕は、ヤナギに勝つ」
「そう来なくてはな。ヤナギとて張り合いがないて」
アデクは部屋を後にする。ユキナリの闘志に自分までも火が点けられたようだった。ユキナリはいつだって容易く超えてくる。自分の及びつく限りの事を、踏み越えてくるのがオーキド・ユキナリという男なのだ。ならば、自分も応えねばならない。
「しかし、何で応えるべきか……」
アデクが答えを彷徨わせ、首をひねっていると背中に声がかかった。
「アデクさん!」
その声に振り返る。ナツキが肩を荒立たせて立ち竦んでいた。アデクは、「ユキナリならば心配はいらん」と告げる。
「オノノクスも物に出来そうじゃ。まったく、あいつはいつだってオレの予想なんて突破してくるから面白い」
「そうじゃないんです。今は、アデクさんに用があって」
思わぬ言葉にアデクは目を見開く。
「オレに?」
「はい。……今まで保留にしてきた事、決めようと思いました」
その言葉に心臓が跳ねたのを感じた。ナツキとはこのままうやむやになってしまうものだとばかり考えていた。それを向こうから切り出すのは意外だったし、アデクも予想だにしていなかった。
「――あたしは、やっぱり最後の最後までユキナリの事を見ていたいんです」
だからこそ、その答えが受け止められたのかもしれない。ユキナリの決意を目にし、自分の中の燻っていた部分に火が点いた。それはもしかしたらナツキも同じだったのかもしれない。ユキナリの帰還を望み、ようやくスタートラインに立ったユキナリに対して今までのような曖昧な関係ではいられないと感じたのだろう。
「……なるほどな。分かった!」
アデクは手を打って微笑む。
「きっぱり諦める。それが潔いじゃろう!」
アデクの口調が以前に戻っている事に気づいたのだろう。ナツキは、「アデクさん、喋り方……」と指摘する。
「こっちのほうがオレらしいって気づかされてな。他でもない、ユキナリに」
ナツキも緊張していたのだろう。少しだけ頬を緩めて、「何ですか、それ」と笑った。
「オレもユキナリは好いておる! だからあいつになら、何でも任せられるって思ったんじゃ」
「相変わらずですね。でも、好いてるってのはちょっとキモチワルイですよ」
「気持ち悪いとは人聞きの悪いのう」
お互いに笑みがこぼれる。不思議なものだった。今まで絡み合っていた因果が一時に解けるものだと。ユキナリも、自分も、ナツキも、それぞれが受け入れられている。この結果に誰も不服は言わないだろう。
「ポケモン勝負とは違うが、心地よい風が吹き抜けている気分じゃ。ようやく、すっきり出来た」
「玉座は?」
「狙いたいところじゃが、もうオレの手に入れたバッジはヤナギに渡してしまったからな。後はユキナリとヤナギ、二人の戦いの果てに、じゃて」
それでもポイントならばまだ追いつける範囲にはいるが、諦めも肝心。玉座に三人も四人も入ろうとしたところで弾かれてしまう。
「でもアデクさんらしくないですよ」
「ユキナリもきっとそう言うじゃろうよ。だが、オレはユキナリに負けておる。二度も三度も結果が分かっていて戦うのは、諦めが悪いんじゃなくって馬鹿と言うんじゃよ」
アデクの言葉にナツキは、「馬鹿でもいいじゃないですか」と返す。
「諦めない人なら、きっとチャンスは巡ってきます」
「そうじゃな。ただオレにとってこのポケモンリーグ、一生忘れられんようになるのは確実みたいじゃ」
アデクは笑い声を上げながら身を翻す。ナツキが、「どこ行くんです?」と訊いた。
「オレは風来坊。どこへ行こうと風任せよ。ただ、明日のユキナリの戦いだけはきっちり拝ませてもらう。そのために早目に寝るとするか。眠る事も戦いのうちじゃし」
「まだ昼ですよ?」
「昼も夜も関係あるか。オレはオレの道を行く!」
ナツキは呆れたように、「変わらないですね」と口にした。
「おうよ。イッシュの男は変わらない男らしさがウリってな!」
アデクは足音を踏み鳴らしてナツキから離れていった。辛くないわけでも、痛みに鈍感になったわけでもない。ただ、一つの春が終わった。特別な事でなく、それだけの話だ。
航空母艦の甲板に出ると潮風が赤い鬣のような髪をなびいた。甲板に胡坐を掻き、海を眺める。正午を回ったところの太陽が肌を焼く。アデクは甲板を撫でる。氷に閉ざされた甲板を誇る航空母艦ヘキサは明日を持って解体されるだろう。キュレムが動くという事はそういう事だ。オノノクスはユキナリの手に渡り、ようやく然るべきカードが揃った事になる。この時点でようやく、ユキナリは帰還出来た、と言えるだろう。
「帰る場所、か」
もし、玉座を途中で諦めたとなればイッシュの人々はどう思うだろう。軽蔑するだろうか。それとも功績を称するだろうか。ポケギアには玉座につくに相応しいポイントが割り振られている。繰り上がりで入賞は出来そうだが目指すならば王だ。それを徹頭徹尾貫くのが自分という男らしいのではないか。葛藤に揺れる胸中に差し込むように、「いいか?」と尋ねた声があった。
「ああ」と答える。声の主は数歩距離を開けたまま口を開く。
「周辺警戒の合間を縫ってな。ちょっと甲板に出てみれば貴公がいたので驚いた」
「チアキ、だったか。オレに話しかけるとは珍しいな」
その言葉にチアキは、「何かとな」と答える。
「考え事をしたい時には甲板に出る事が多い。今回は特別、貴公がいただけの話だ」
「そうか。お前さんも考え事をするのか?」
「失礼な言い草だな。貴公も言えた義理ではなかろう」
「そうだった」とアデクは笑おうとする。しかし、声には嗚咽が混じっていた。
「……泣いているのか?」
「泣いてなどおらん」
「肩が震えているぞ」
「武者震いじゃ。明日の戦いが楽しみでのう」
チアキはあえてそれ以上触れてこなかった。その不器用な優しさがありがたかった。
「明日、全てが決するのか」
「お前さんはヤナギに何か告げ口でもしに来たのか?」
その言葉にチアキはフッと笑う。
「そのような人間に見えるか?」
「見えんな」
正直な感想を口にすると、「だろうな」とチアキも同意だった。
「私と貴公は、同種の人間だ」
「同種、か。褒められているのか貶されているのか分からんが」
「戦いの中に生き、戦いに死ぬ運命にある。不器用で、たった一つの光を目にしたのならば、それを拠り所にするしかない」
チアキは自分がヤナギに惹かれた運命の事を話しているのかもしれない。アデクは黙って聞いていた。
「ヤナギは、あれは、私を見ていない。私だって、戦士だ。女性として見られたいわけじゃないが、ヤナギの目を見ているとどうしようもないのだと思える時があってな」
ヤナギは時折遠くを見ているように思える節がある。何か大切なものを失った人間の眼だ。自分達には推し量れない喪失を抱えている。
「ヤナギの過去は?」
「聞いた事がない。お互いに詮索は野暮だと考えているのでね」
「ヤナギはキクコを求めているのだとばかり思っていたが」
分からないものだ、とアデクは考える。チアキは、「人の心は迷宮だよ」と口にした。
「一度迷い込んでしまえば、もう出る事すら叶わない。ヤナギの事を知りたいと感じてしまったがゆえに、私は、純粋に戦士である事をいつの間にか拒んでいたのかもしれない」
チアキの女性の部分を引き出したのがヤナギだと言うのか。ヤナギには確かに人並み外れた光がある。ユキナリとは別の光でありながらも、人を先導すると言う意味では同じだ。
「女の気持ちも、オレには分からんな」
「分からないほうがいい。分かってしまえば、それまでだよ」
目頭が熱くなる。分かってしまえばそれまで。分かったつもりになって声を張り上げている間が、実は一番幸福なのかもしれない。
「……涙を拭け」
チアキが肩にハンカチを差し出す。顔を覗き込んでこないのが救いだった。アデクは受け取り、盛大に鼻をかむ。
「汚いな」
「放っておけ。オレはこういう男なんじゃ」
「重々承知しているさ。不器用なのはお互い様だ」
アデクは涙を拭い、「この勝負」と口を開いた。
「どう転ぶと思う?」
「オーキド・ユキナリとヤナギ、か」
頷くと、「分からない、というのが本音だ」とチアキは返した。
「ずっとヤナギと一緒にいたわけではなかったか」
「私はヤマブキからの同行者だからな。カミツレやシロナのほうがずっと長い」
「その、シロナ・カンナギはどこへ?」
チアキは答えない。それが答えになっていた。
「……そうか」
「途中からヤナギを見ているが、あれは強い。キュレムを己の目的のために従え、ヘキサという組織を最大限まで利用した。王にでも、鬼にでもなれる性質だ」
「鬼、か」
ヤナギを形容するのに、これほど適した言葉はないだろう。今度はチアキが逆に切り込んだ。
「オーキド・ユキナリは? どうなんだ?」
「同行したり、しなかったりだが、オレから見てもあいつは強い。オレなんかの予想を簡単に跳び越える。多分、そっちの予想もな」
「そうか。ナツキからよく聞かされていたから、どのような人物なのか、気にはなっていたのだが」
「ナツキが?」
意外そうに尋ねると、「ああ。自分なんかよりもユキナリのほうが強いとな」とチアキは応じた。そういえば二人はスパーリングを共にしていたか。
「拳を交わす中で見えたものはあるか?」
「分からないな。意外にも、戦いっていうものは重ねるほどに逃げていく逃げ水のようなものだ。勝率も、戦法も、それを構成する一要素に過ぎない。貴公にも覚えがあるだろう?」
「ああ。戦えば戦うほどに、己の限界が見えてくる。そういう点で、眩しいものに出会った瞬間、自分の中で何かが開けたようになるな」
「分かっているじゃないか」とチアキが鼻を鳴らす。アデクは、「オレとて戦士じゃ」と笑う。
「戦いの中でしか、分からないものがある事を知っておる。ユキナリもそのかけがえのないものを教えてくれた。だからオレにとっちゃ、あいつも恩人じゃな」
「奇妙なものだ。我々戦士にとって、怨敵というものが自分を知る最大の恩人になるのだから」
チアキは黒い着物を風にはためかせる。アデクは最後に聞いておこうと考えた。
「もし、ヤナギが負ければどうする?」
「どうもしない。私は、またヤマブキに戻ってわが師カラテ大王を待つだろう。いつまでもな」
「それはどっちにしろ決めていた事なのか?」
チアキは少しの逡巡を浮かべ、「旅の次第では、ヤナギについていくのも悪くないと思っていた」と心情を吐露する。
「だが、ヤナギは、そのような湿っぽい戦士などいらないだろう。私は戦士であって女ではない」
断じたチアキの声はどこまでも冷たいが、同時にヤナギを心底信じている事が節々に伝わる。アデクは返していた。
「オレもな。さっきまでずっと自分を縛り付けてきたものから自分自身を解放したばかりじゃ。心地よいのか、それともこれから先の目的を失ったのか、まだ判然とせんが」
迷っていたのはナツキではなく自分だったのかもしれない。ユキナリとの時間のほうが長いナツキにそのような決断を迫った身勝手。だが、徹したかった。それが意地と呼ばれる部分であっても。
「貴公も変わり者だ。自分から傷つくなんて」
チアキは聞き及んでいたのかもしれない。だが、今は羞恥よりも清々しい気持ちが勝った。アデクは微笑む。
「ユキナリに大見得切ったからのう。自分が傷つくのを恐れているんじゃ、見本にならん」
アデクの声にチアキは、「大馬鹿者だ」と呟く。
「お互いに、傷つく道しか選択出来なかった」
己の事か、それともユキナリとヤナギの事か。それを問い質すほど野暮でもなかった。
「旅の恥は掻き捨てと言う! お前さんも恥を晒してみるのもいいかもしれん」
「いらない。私には格闘タイプのジムリーダーとして矜持があるのでな」
可愛げのないチアキの言葉にアデクは、「だが心配もしておるのだろう?」と胸中を読んだ声を出す。
「せめて、本人の前で言えない事の一つくらい、明かしておこう。お互いにな」
「貴公に弱さを見せるほど、私は脆くないぞ」
かもしれない。だが、今は同じように考えているはずだ。
――勝ってくれ、と。