第百七十七話「笑顔を君に」
アデクはユキナリの背中をじっと見つめていた。
強張って今は自分の命どころか世界の命運さえも握らされている背中。鈍感な自分でも分かる。ユキナリは今、岐路に立たされている。その道を決めるのはユキナリ自身。自分は、結局のところ旅のお邪魔虫でしかなかったのだと。
「ユキナリ。俺は、一応ヤナギと話を通しておく。明日の戦いには訪れないかもしれない」
ゲンジの思わぬ言葉にユキナリは衝撃を受けた様子だ。「でも、ゲンジさん」と不安げな声を出す。
「僕には、何も……」
「オノノクスと会え。アデクが導いてくれる」
ドラゴン使いでもあるゲンジにはまず手持ちと会えとしか言える事はないのだろう。アデクはユキナリの眼差しを受け止めた。不安と罪悪感、それがない交ぜになったような顔をしている。最後に戦ったのはトレーナーとしての価値観ではなく、自分の、男としての価値観を突きつけた戦いだった。それ以来となればお互いに緊張する。ゲンジは離れていくが、ユキナリはどこへ行けばいいのか分からない迷子のように顔を伏せた。
「キクコはとりあえず、別室を用意してある」
アデクは年長者として示さねばならない規範がある。落ち着いた面持ちでキクコとユキナリを案内した。キクコの部屋はほとんど外界との接点がシャットダウンされた牢獄のような部屋だった。当然、ユキナリから反感が上がるかと思われたがユキナリは何も言わない。今はそれどころではないのかもしれない。
「ここで、命令を待てばいいの?」
キクコの口調は最後に会った時と印象が違う。やはり遺伝子の九割がポケモンのものに挿げ変わったと言う話は本当なのだろうか。似合わぬ思案を振り払い、アデクは、「ああ」と首肯する。
「命令、っつうのはちと違うかもしれんが、ヤナギが最終決定を下す。その時まで辛抱して欲しい」
アデクの言葉にキクコは抵抗の素振りも見せず独房の中へと入っていく。その胸にスケッチブックが抱えられたままなのが目に入った。
「ユキナリはこっちへ。オノノクスと会ってもらう」
アデクの言葉にユキナリは何も反論せずについてくる。その沈黙が余計に歯がゆかった。これが距離か、と。三ヶ月の隔絶とナツキを巡っての確執。それが自分とユキナリの間に横たわっている。なかった事にするのは出来ない。どれも捨てていくには重過ぎる。
「……アデクさん」
ようやくユキナリが口を開いた。アデクは何でもないかのように、「どうした?」と顔を振り向ける。
「アデクさんは、前みたいな喋り方じゃなくなったんですね」
以前の喋り方、と言われてもアデクには咄嗟に浮かばなかったのは、自分の力の至らなさを実感し、出来る事の範疇を知ってしまったからだろう。天井が見えてしまった人間の言動は覚えず気後れしたものとなる。
「……そうじゃな。ヤナギにはうるさいのは鬱陶しいがられるからのう」
そう誤魔化すが、本当のところは自信の喪失に他ならなかった。ユキナリは特別で、自分が特別ではなかった、というだけの話。単純明快な論理だ。だが、それを認めるにはイッシュから送り出された優勝候補の誇りが邪魔をする。
簡単に負けを認められない。しかし、ユキナリは一地方などという程度の話ではない。この次元、世界そのものに対する特異点。世界がなければ自分を自覚する方法がないように、ユキナリがこれから及ぼす事が恐らく、世界の基準となっていくのだろう。それを見届ける事しか出来ない自分に歯がゆさを覚える。今まで対等に接してこられた友人の仲では決してない。勝手に作った壁でありながら越えられないものをユキナリに感じている。
「ヤナギ、ですか……」
「不安か?」
「ええ」
以前までならば肩でも叩いて一喝出来た。だが、もうそのような気力は自分の中にもなくなってしまっている。この旅が自分を変えるものになるとは思いもしなかった。ユキナリと出会い、自分は確かにこれまでとは違う自分となった。それが望もうと望まぬ事だろうと。
「ユキナリ。オレはな、お前さんが帰ってきてホッとしとる」
切り出した言葉にユキナリは、「僕は……」と所在なさげに顔を背ける。
「アデクさんに顔向け出来るとは思っていませんでした。だって、僕は逃げ出した」
それが最後の記憶なのだから自分の印象は最悪だろう。アデクは首を横に振って、「もう気にするな」と声を降りかける。だが、最初の頃のように大声で相手の都合も考えない喋り方ではなくなっていた。自分も大人にならざるを得なかったのか。その苦味を噛み締めていると、「気にするなってのは、無理ですよ」とユキナリが返す。
「何にも気づけなかった。何も分からなかったんだ。だから僕は他人を傷つけた」
「……自分が嫌いなんじゃな」
ユキナリは頷く。アデクは今までならば分からなかった感情だが、今になれば痛いほど理解出来る。
「だから自分を傷つける。他人を傷つけた時の痛みを知っているから、自分が痛ければ他人に痛みを押し付けないで済むから」
だが、それは逃げだ、とアデクは感じた。
「ユキナリ、しかしな、誰も傷つけないで生きていく事なんて出来ないんじゃ。誰かを好けば、誰かに嫌われる。誰かを嫌えば、自分の心が傷つく。結局のところ、そう都合のいい生き方なんて選べない。人は皆、不器用なんじゃよ」
「……アデクさんだって、他人でしょう。僕の生き方なんて」
「お前さんには関係なくてもオレには関係ある。お前さんの生き方でさえ、背負い込もうと考えているからな」
「いいですよ。僕に、そんな価値――」
「あのなぁ、ユキナリ」
アデクは立ち止まる。ユキナリは目線を合わせようともしない。荒療治になるか、と感じたがアデクはそれを実行した。肩を引っ掴み、「お前さんは!」と久方振りに声を張り上げた。
「やれる事があるじゃろう? これから戦えるんじゃ、世界と! お前さんには資格がある! 他人だから何だって言うんじゃ! このまま逃げる気か? キクコも救えず、ヤナギとも向き合わず、ナツキからも逃げ続ける気なのか? オレはそんなの絶対に許さんからな!」
掴む手に力が篭る。ユキナリは唐突に目を覚まされたかのように呆然としていた。
「誰だって今が絶対じゃない。オレは、お前さんならば超えてくれるんじゃと信じとる。信じて、だから三ヶ月待った。オレの答えを保留にして、お前さんが帰ってくるのを。帰ってきた時、同じ男として、向き合えるのを」
あの時に一方的に突きつけた答えを、もう一度持ち直そう。自分とユキナリならばそれが出来るはずなのだから。アデクはもう一声、ユキナリに一喝した。
「勝て! ヤナギに。そして、男を見せろ!」
自分の感情をぶちまけた気分だった。汚いものも綺麗なものも全て。アデクが荒く息をついているとユキナリは、「ちょっとだけ、安心しました」と答えた。
「アデクさんも、変わっていなかったんですね」
ユキナリが何より恐れていたのは自分以外の全てが変わってしまった事だったのだろう。それに気づけなかった己の不明を恥じる前にユキナリは前を向いた。
「ありがとうございます。アデクさんには最初から、怒鳴られてばっかりだった気がするけれど、多分、それが正解なんだ」
アデクは、「そう怒鳴っとらんぞ?」と肩を竦めたが、今のユキナリに対して格好つけたところで仕方がなかった。お互い、同じ思いを貫いた同士、逃げずに戦え、という意思確認が出来れば充分だ。
「アデクさん、オノノクスは、僕を待っているでしょうか?」
「分からんな。ヤナギでしか管理出来ないセクションに幽閉されておるから。だが、ヤナギは全力のお前さんを潰したがっているはずじゃ。オノノクスに妙な細工はしないと思うが」
「随分と信用が厚いんですね、ヤナギは」
「まぁ、仮にもリーダー。それなりのカリスマはあるみたいじゃな」
ユキナリと肩を並べて氷の廊下を歩む。ようやく理想形に至れた。だが、この関係がいつまでも続くわけでもないだろう。ナツキの事に関しても決着をつけねばならない。何も答えを突きつけられているのはヤナギだけではない。自分とてユキナリと一悶着あった。その清算にはユキナリがきちんと帰ってくる事と、ナツキの気持ちを問い質す必要があったが、それも今はいいだろうと思えた。こうして対等な関係でいられる。今は、それだけで。
「この先じゃ」
立ち止まると、氷の結界の向こう側にオノノクスが全身を拘束されて蹲っている。両手両足に氷の拘束具、それに一本の幹のような氷の大樹に埋め込まれた形となっている。三ヶ月間もこの状態となればもしかしたらオノノクスには悪影響が出ているかもしれない。だが、ユキナリは一刻も早くオノノクスと会いたい事だろう。アデクは懐からボールを取り出した。
「GSボールは復元されなかった。ガンテツの行方も不明。代わりと言っては何だが、モンスターボールならばある」
赤と白のツートンカラーが映える新型モンスターボール。ヘキサの構成員はこの規格で統一されている。ユキナリはそれを手にし、「うまくいくでしょうか」と懸念事項を述べた。
「GSボール、ガンちゃんのボールだから、僕の言う事を聞いてくれていたのかもしれない」
その可能性はあり得る。だが、代わりを用意出来なかった不手際を詫びる事しか出来ない。
「すまんな。ガンテツを探し出せてお前さんと引き合わせるのが理想だったんじゃが」
「この新型、ロケット団のものじゃ……」
「いや、完全に資本はデボンに移った。規格内容も一応は出回っていた先行量産型のものじゃが、デボンのシステムで管理されておるから万が一ロケット団が生き残っていたとしてもボールの管理は出来んはずじゃ」
ユキナリはボールへと視線を落とす。その眼差しに様々な思いが交錯しているはずだ。果たしてオノノクスは自分の制御に置けるのか。ヤナギを倒せるほどの力に育っているのか。ただ、ユキナリはそれらの不安と真っ向から対決する眼をしていた。先ほどまでのぐずついた気配はない。もう逃げ出さないと決めた双眸をオノノクスに投げ、「いいです」と首肯する。
「結界を解いてください」
アデクはヤナギへと通話を繋ぐ。
「ヤナギ、結界を」
『了解した』
キュレムによる永久氷壁が瞬く間に分解され、ユキナリが駆け出した。後を追おうとしたアデクを他所にユキナリはボールをオノノクスに向ける。
「オノノクス! 僕だ!」
その声にオノノクスが僅かに目を開いた。この三ヶ月、目覚めた事は一度もないと言われていただけにアデクは唾を飲み下す。
「……大丈夫、なんじゃろうな?」
小声でヤナギへと確認する。もし、この接触が破滅を引き起こしたとしたら。だが、ヤナギは太鼓判を押すわけでもなく、『さぁな』と濁した。
「さぁな、ではない。もし、この場で破滅なんて事になったら、オレじゃ対抗し切れんぞ」
覚えずモンスターボールに手を添えている。ヤナギの声は落ち着き払っており、『心配はいらないだろう』と答えた。
「何故、言い切れる?」
ユキナリが歩み寄る。オノノクスがぐっと身じろぎした。ボールを突き出す。『決まっている』という声をアデクは聞いた。
『あれが、オーキド・ユキナリだからだ』
オノノクスが拘束を破り、大樹から解き放たれる。ユキナリは、「戻れ!」と命じた。赤い粒子となってオノノクスがボールへと戻っていく。あまりに呆気ない顛末にアデクは緊張の声を出した。
「オノノクス、は……?」
「僕の手に」
ユキナリがボールを示す。どうやらオノノクスは破滅を引き起こす事はなく、ユキナリのボールに収まったらしい。アデクは額の汗を拭って、「そうか……」と声にした。自分の緊張が伝わったらしく、「僕も、破滅を引き起こすかもしれないと思っていました」とユキナリは告白する。
「でも、アデクさんの言葉のお陰で、吹っ切れたんです。破滅を起こすかもしれない。でも逃げちゃ駄目だって。自分の本当にすべき事から。自分の出来る事に目を逸らしちゃ駄目だって事を」
まさか自分の言葉が破滅を食い止めたと言うのか。にわかには信じられなかったが、アデクは思い出した。
「……そうじゃった。お前さんは、いつだってこっちの予想を超えてくる奴じゃった」
だから、今回の事だって自分の予想外をユキナリが飛んだだけだ。自分はそのきっかけを与えたに過ぎない。誰かの予想よりもっと高く跳べる。それこそがユキナリの才能、特異点としての存在意義なのかもしれない。
よろめいたアデクが不審に映ったのだろう。「アデクさん、大丈夫ですか?」と逆に心配された。
「いや、緊張しとったから。何だかんだでお前さんは超えてくる。飛んでくる奴じゃって思い出したら笑えてきたわ」
アデクが快活に笑い声を上げる。久し振りに腹の底から笑えた。