第百七十四話「七賢人」
航空母艦ヘキサに連れ込まれる際、ユキナリは久しい人物と顔を合わせた。キャプテン帽を目深に被り、上着をはためかせた男の威容に首を引っ込める。ゲンジは鋭い視線のまま、「生きていたか」と告げた。
「……ええ」
答えたのはナツキだ。ゲンジは構成員達に一瞥を向け、「後は俺とこいつが引き継ぐ」と顎をしゃくった。その先には赤い鬣の人影が佇んでいた。
「アデクさん……」
「久しぶりじゃな。ユキナリ」
最後に会ったのはナツキの事で対立して以来だ。ユキナリはばつが悪そうに顔を伏せたが、アデクは、「生きとったか」と感無量の声を出す。
「オレはな、生きていてくれて嬉しい」
その言葉を聞き返そうとする前にアデクは身を翻した。ゲンジが構成員達を散らせ、自分とアデクだけでいい事を示す。
「あたしは」とナツキが声を出すと、「お前は別件だ」とゲンジは突き放した。
「航空母艦ヘキサがこの期を狙われれば面倒な事になる。評議会との連絡もある事だし、周囲の警戒に務めて欲しい」
「……いいけれど、この期に及んでまだユキナリの身を狙おうとしてくる連中がいるっての?」
ナツキの疑問にゲンジは、「分からない」と答えた。
「だからこそ、見極めのためにもお前達のような人間に詰めていて欲しい。既にチアキとカミツレは配置した。俺とアデクでオーキド・ユキナリに関しては充分だ。航空母艦に奇襲をかけられるのは面白い話ではない」
ナツキは得心したのか、あるいは納得がいっていないのか鼻を鳴らす。
「要するに、これ以上踏み込む権限はあたしにはないわけ」
「無碍にしているわけではない。分かるな?」
「重々承知よ。ゲンジ艦長」
皮肉たっぷりに言い放ってナツキは手を振った。離れていくナツキの背中にユキナリは呼びかける。ナツキは立ち止まって、「何よ?」と肩越しに視線を振り向ける。
「その……、僕は僕でナツキ達の役に立ちたい。だから、どうすればいい?」
「それは艦長とアデクさんに聞きなさい。あたしは戦うだけだし」
取り付く島のない返答だったが、何も分からなかった時よりかは感情のようなものが窺えた。
「オーキド・ユキナリ。こちらへ」
ゲンジが先を促す。ユキナリとキクコはそれぞれ続いた。ふとした事をゲンジに尋ねる。
「あの、ゲンジさんは、何でヘキサに?」
聞きそびれていた事だった。ゲンジは無言を返事とするかに思われたが、「任務上な」と答えた。
「それはロケット団の任務ですか?」
「最初はそうだった。だが、ロケット団は壊滅。最早戻る場所もない。艦長職が性に合っていたらしい。今は航空母艦の責任者だ」
ゲンジは肩を竦める。数奇な運命にユキナリは閉口した。
「玉座は……」
「俺の目的は元々、玉座ではなく故郷であるホウエンの自治権、そして守れる立場につく事だ。だから王である必要性はない。このポケモンリーグである程度の結果が残せればそれでいいんだ。ヘキサはポイントに関しては俺の交渉に叶ったものを与えてくれる。俺はそれでベスト16程度に残れればいい」
随分と消極的な考えだったが、最初からその目的だとすればゲンジはうまく立ち回ったのだろう。ユキナリは続いて疑問を口にする。
「あの、僕ら、拘束しないでいいんですか?」
「拘束したところで奇襲をまたかけられれば同じだ。それならば実力者で周囲を固めたほうが得策である事は分かったからな」
実力者。それはナツキやナタネ、それにチアキ、カミツレと呼ばれた人々なのだろう。アデクもその人数に入っているのかもしれない。どちらにせよ、ポケモンも持たずに抗う事は不可能だった。
「そっちのレプリカント、キクコももう手持ちはないとの情報だ。あったとしてもアデクと俺ならば止められる」
キクコはスケッチブックを抱えたまま無言でついてきている。何の抵抗も示さないのは命令がないからか。それとも、最早戦う事はないのだと感じているからか。
「アデクさん。あの、僕は……」
言葉を濁す。どのように切り出せばいいのか分からなかったせいだが、アデクは、「ナツキの事ならば気にするな」と思いのほか簡素に告げた。
「あいつは強くなった。オレやお前さんが守るとか言う必要のないほどにな」
誇張の響きはない。実際、ナツキの強さは目にしている。ユキナリはナツキが得た力について問おうと考えたが、それも無駄だろうと諦めた。ナツキは自分では及びもつかない努力をしたに違いないからだ。
「アデクさんは、僕に何か思うところはないんですか」
ヘキサの面々は当初、自分を恨んでいるような節があった。それは無自覚のうちに破滅を誘発したせいだろう。今だってミュウツーを使って破滅が起こりかけた。糾弾されても文句は言えない。だが、アデクは静かな心持ちだった。
「もうお前さんに恨み節をぶつけても、仕方がないってのはヘキサ全員が分かった事。呪いをつけたとしても、誰一人としてその呪いを発動させようとは思わんかった。艦長やヤナギの考えまでは分からんがな」
アデクがゲンジに視線を振り向けると、「俺は場合によっては仕方がないと考えていた」と吐露する。
「ヘキサのため、ひいては世界のための犠牲だと。だが管理や、それに伴う維持を合理的に考えた結果、お前の自由を縛ったところで感知しないところで陰謀は動く。我々が努力すべきなのは、特異点を殺す術ではなく、活かす術だった、と一連の事件で教えられたな」
どうやら二人とも最早ユキナリを殺そうとは思っていないようである。だが、ユキナリの胸には殺されても仕方がないという諦観も存在した。
「ロケット団がどう動くか分からない以上、僕にまた呪いをつけるのも一つの手なんじゃないですか」
「そうだな。壊滅したと、楽観的に考える事は出来ない。現にキシベの動きが全く読めない」
その名前はフジが最期の瞬間にも言っていた名前だった。キシベ。ユキナリは聞いた事があるという印象だけは抱いていたが、それがどのような意味を持つのか、全く分からなかった。
「あの、キシベ、って……」
「ロケット団を動かし、この時代にロケット団を作り上げた人間だ。本名、キシベ・サトシ。だが部下であった俺でも全く奴の考えている事は分からない」
その言葉にユキナリは立ち止まる。二人が怪訝そうに振り返り、「どうした?」と声を投げた。
「キシベ・サトシ……」
何故忘れていたのだろう。その名前を。その意味を。ユキナリが目を戦慄かせる。ゲンジが歩み寄り、「聞き覚えが?」と訊いた。
「……ええ。だってその人は、僕をこの旅に導いた、張本人です」
その言葉にアデクとゲンジは顔を見合わせる。ユキナリは額に手をやり呻いた。
「張本人とは?」
アデクがようやく尋ねる。ユキナリは熱くなった目頭を押さえ、「僕は……」と声に出す。
「最初、この旅に出るつもりはなかった。そのきっかけを作ってくれたのが、キシベさんです」
今にして思えば符合する点がいくつかある。見せられた名刺の「R」の文字。あれはロケット団のシンボルマークだった。キシベの名前に、どうして真っ先に思い浮かばなかったのかと自身の迂闊さを呪う。
「……なるほどな。キシベがどうしてお前の存在にあれほどの自信を持っていたのか、これではっきりした。あいつは自ら駒を揃えたわけだ。ユキナリ、お前ともう一人、サカキを」
特異点を自らコントロールしていた。その用意周到さに怖気が走る。だが、とユキナリは思い至る。
「でも、だったらどうして、サカキをあの時、僕らを阻む形で配置した……?」
ユキナリが呟いた声にゲンジは眉根を寄せる。
「サカキが、出たと言うのか?」
どうやらヘキサでも感知していないらしい。ユキナリは顔を上げて頷いた。
「僕と、フジ君がミュウツーで突破しようとした時、サカキが邪魔に入ったんです。でも、今にして思えば変だ。サカキは次元の扉の向こう側に吸い込まれていった」
「何だと?」
ゲンジが問い質す。ユキナリは最後に見た景色の中にサカキが向こう側へと消えていくのが感知されたのを思い出した。
「確かなはず。サカキは、もうこの次元にはいない」
「サカキが、死んだのか?」
ゲンジは疑念を払拭出来ていない様子だったが、「だとすれば」とアデクが考えを寄越す。
「もう特異点サカキとしての機能はない、という事になるんじゃ?」
「いや、そもそも何故、キシベは次元の扉が開くと分かっていて、フジとミュウツーの横暴を許していたのか。サカキをそのような危険地帯に何故置いたのか。疑問が残る」
ゲンジの言葉にアデクは、「確かに不気味じゃ」と首肯する。
「キシベの考え通りに事が進んでいないのを祈るばかりじゃが……。こればっかりは考えても仕方がないのう」
ゲンジは、「時間もない」と歩き出した。ユキナリもそれに続く。
「これからお前達の処遇をどうするかの議会が開かれる。七賢人と呼ばれるヘキサ上層部と俺とヤナギが出席する。アデクはもしもの時の備えだ」
「議会、ですか」
そのような大仰な場で決議すべき事態に陥ったのだろう。破滅をもたらしたのだから当然と言えた。
「ミュウツーの破壊、フジの死亡、サカキは行方不明。これではキシベの側の戦力も随分と減ったと思うが、果たしてあの男が俺達凡人の考えの及ぶところで動いているかどうか」
ゲンジの懸念を払拭する事は出来ずに、ユキナリはある部屋に入った。部屋の奥へと机が伸びている。だが着席している者はおらず、代わりのようにそれぞれの椅子の前にパソコンの筐体があった。ディスプレイには「音声のみ」と表示されている。
「アデク、後は」
「ああ、分かっとる」
アデクは扉の前で歩みを止めた。部屋に入ったのはユキナリとキクコ、それにゲンジだけだった。
「ヤナギの姿が見えないな」
ゲンジが首を巡らせていると、「ここだ」と上から声がかかった。張り出した二階層の部分でヤナギが顔を見せた。前回、声だけを聞いていた因縁の相手は鋭い視線は相変わらず敵意を含んでいる。その目がキクコを見据え、僅かに細められた。
「では始めるとしよう」
ゲンジの号令に、『生憎だが、選択権は我々にある」とパソコンから電子音声が発せられた。ユキナリが戸惑っているとゲンジが耳打ちする。
「あれが七賢人だ」