第百七十二話「荒野の一粒」
海岸線に向けて歩いているのが分かった。
潮風が運ばれて鼻腔をくすぐる。今までグレンタウンにいたというのに、潮風など感じる暇はなかった。それは研究所に幽閉されていたせいだろうか。だが、研究所での生活を決して苦だと思えないのはフジとの思い出があるからだろう。ユキナリはすすり泣く。
片手をナツキに引っ張られて、荒廃した大地を踏み締めた。じゃり、と細かな瓦礫が砕けるのが分かる。研究所は跡形もなく消えてしまった。カツラとフジの残そうとしたものはこの世には一片たりとも存在しない。最早、彼らを留めているのは思い出だけだ。その思い出も自分しか知らない。カツラには酷な現実を突きつけられ、フジには自分の宿命を押し付けてしまった。彼らには悪い事をした。そのような小さな罪悪感で済ませるにはなくしたものは大きい。人生を歪めてしまったのだ。ユキナリが顔を伏せっていると、「ロケット団に何を吹き込まれたのか知らないけれど」とナツキが口火を切った。
「ミュウツーをあんたに使わせようとしたのは完全に計算通りだったんでしょうね。誰かさんの」
フジを侮辱されているように感じ、ユキナリは、「計算なんかじゃ……」と抗弁を発しようとする。だが、そのような気力さえも湧かない。まさしく生きる活力は失われた。フジの死とミュウツーとの死別はユキナリの胸にぽっかりと穴を開けている。無気力状態のユキナリにナツキは言葉を投げる。
「あんた、それでもあいつらはいい人だって言うんでしょうね」
どこか、投げやりでありながらもユキナリを慮った声音だった。ユキナリはようやく顔を上げる。眼帯をつけたナツキが自分の顔を真正面から見据えていた。
「航空母艦ヘキサでの扱い、不服だったと思っているわ。でもああするしかないの。あんたの双肩に世界が背負わされているとなれば」
「……ナツキが何を言いたいのか、僕には全然分からない」
ユキナリは自嘲気味に呟く。こめかみを押さえ、その部分に当てられていた呪いを思い返した。
「頭が悪いせいかな。それとも、僕が、特異点だから?」
ナツキは首肯し、「それも分かっているのね」と口にする。ユキナリは、「その程度しか、カツラさんは教えてくれなかったけれど」と背後を気にした。先ほどから自分達の後ろについてきている人影を目にする。
「キクコ、が、人間じゃないって」
「そうね。レプリカント、キクコ。ネメシスの造り出した人造人間」
事もなさげに口にするナツキにユキナリは呼吸音と大差ない声を発した。
「やっぱり、知っていたんだ……」
「それでも、人間と対等に扱おうと思っていたのは、ヘキサの頭目よ」
「ヤナギ……」
ユキナリはその名前を紡ぐ。ヤナギはどこまで知っていたのか。最初から知っていて、キクコを大切に思っていたのだとすればどれほど強固な意志だろう。ユキナリには作り物の生を本物の人生だとは思えなかった。自分でもそうなのだから他人ならばなおの事だろう。
「ナツキ。僕は本当に、セキチクシティの人達を殺してしまったの?」
フジに聞かされた真実だ。ナツキやヘキサはそれを承知の上でユキナリに罰を背負わせようとしたのか。ナツキの答えは、「半分」だった。
「半分、って」
「正解だけれど、間違いでもある。あれは突発的な事故とも言えた。メガゲンガーの進化エネルギーとレプリカントであるキクコ、それと特異点であるあんたとオノノクスの覚醒。偶発的な出来事の連鎖でありながら、これらは全て破滅へと直結する出来事だった。特にいけなかったのは、覚醒したあんたとポケモンに取り込まれたキクコとの接触だった」
やはり助け出そうとしたのが間違いだったのか。ユキナリは深い後悔の念に目をきつく瞑る。ナツキはユキナリを引っ張りながら言葉を継いだ。
「でも、あの場でメガゲンガーを止めていなければ、あたしだって今を無事に生きているか分からない。正直、セキチクシティは諦めるしかなかった。メガゲンガーの特性は影踏み。あの時、セキチクにいた人間は誰も逃げられなかった。その運命にあったのよ。それを解き放ったのは、ユキナリ、あんたと型破りのオノノクスだけ」
「僕が……」
「そう。救ったのよ。そりゃ、手放しでは喜べないけれど、あんたが全部の責を負って失われた命の勘定をする事はない。少なくとも、あたしはそう思っている」
だがその一方で失われた命への贖罪はどうすればいいのだろう。ユキナリには思い浮かばなかった。命は命だ。自分の目の前で死んだフジも、静かに命の灯火を散らせていったミュウツーも、どちらも同じ命。この世界に命の貴賎はない。だから奪った命は贖わねばならないはずだった。
「……ゲンジ艦長やマサキさんの考えはあたしとは違うかもね。ヤナギも、どう思っているのかは分からない。でも、あたしに戦う力を再びくれたのは、ヤナギなのよ」
ナツキが左目をさする。その左目の責を負おうとしてユキナリは一度逃げた。今さらに卑怯者の傷跡が疼いてきてナツキを直視出来なくなる。
「ヤナギは、あたしに抗えと言った。だからあたしはここに立って、あんたの手を引っ張っている。この左目に関しては完全にあたしの独断専行。……あんたは気にしなくっていいのよ」
そういう意味での関係ない、という言葉だったのだろうか、と考える。だが、あの時には冷たく突き放す物言いに思えた。全ての世界が自分の言葉を拒絶する中、受け入れてくれたのがロケット団だったのだ。迂闊だった、と言えばそこまでだが、フジの優しさは本物だったと信じたい。
「ナツキがそう言ってくれても、僕には僕なりのケジメがある。だから、全く気にしない事なんて出来ない。それに破滅の引き金を引いたのは同じじゃないか。だったら、ヘキサが僕に呪いをかけたのも頷ける」
でも、とユキナリは嗚咽を漏らす。立ち止まったユキナリをナツキが怪訝そうに眺めた。
「……でも、フジ君はいい人だったんだ。僕なんかより、生きる意味があった。この世界で、生きていて欲しかった……」
心の奥底からの願いにナツキは、「嘆いたって死者は戻ってこないわ」と非情な声を返す。
「悔しいけれど、それが世の理。あんたはさ、フジから命を預けてもらったとは考えられないの?」
荒涼とした風がナツキのポニーテールをなびかせる。ユキナリは、「預けてもらった……?」と呆然とする。
「この世界はね、何も奪わずに生きていけるほど甘く出来ていないのよ。誰かが割りを食ったり、何かが欠けたりしてようやく均衡を保っている。誰だって平等じゃない。人類皆平等、ポケモンと仲良しこよし、なんて幻想よ。そんなまやかしに甘えられるほど、あたし達はもう子供じゃないんだから」
ナツキの言葉は厳しいが真理だ。旅をしてきたならば分かる。
誰もが奪い、命を燃やした。
その中で分け合えるものもあれば、分けられないものや譲れないものがあるのも分かった。フジは自分に託してくれたのだろうか。だが託された命というたすきはあまりに重い。それは人間が、人生と言う長い旅路で一度しか得られないものだからだ。
「フジの事をどうだとか言うつもりはない。あんたとフジがどんな言葉を交わしたのかも知らないし、あたしにとってそれは関係ない。今、あんたが生きるのか、どうかよ」
ナツキの言葉は直線的だが、生きる目的を失って彷徨っているユキナリには重く響き渡った。生きていいのだろうか。誰かを踏み台にしてまで、生きて、幸福になる権利があるのだろうか。
「僕は、やり直したかったんだ」
呟いてユキナリは掌に視線を落とす。散っていったひとひらの命。彼はやり直せると言っていた。
「変だよね。僕はやり直しが嫌いだったはずなのに。絵でも何でも。でも、ナツキ達と旅した事は、このポケモンリーグの旅だけは、なかった事にしたくなかった。消えて欲しくなかったんだ。記憶のキャンバスから」
ユキナリが再び蹲って泣きじゃくり始める。ナツキは慰める言葉をかける事はなかった。キクコも同様だ。彼女は、自分がどうすればいいのか分からないだけかもしれない。だが、誰かに慰められてしまえば、恐らく一生甘えてしまう。それだけはしたくなかった。フジが何を思い、何のために自分の呪いを引き受けたのか。その意味さえも消えていってしまいそうで。
「……ナタネさんが航空母艦をグレンタウンの港に停泊させるための手はずを整えているわ。泣くんなら今のうちにしておきなさい。多分、ヘキサの面々の前では、泣きっ面なんて一番に見せられないだろうから」
ユキナリは頬を伝う涙を拭い、「でも、悲しいよ」と胸の内を吐露した。ナツキは、「そりゃあね」と否定せずに受け止める。
「誰だって、大切な人がいなくなれば悲しいわ。そう、誰だってね」
ナツキはキクコを見やり、「あんたも答えを出さないとね」と顎でしゃくる。
「どうするの? 多分、ヤナギはあんたを見たら判断を鈍らせる。でもヘキサの構成員や、上層部はそうじゃない。あんたはロケット団にサルベージされたキクコの断片。敵対組織の情報よ。解体される事も視野に入れないと、もっと惨い仕打ちに遭うわ」
ナツキの言葉は最悪を想定させたが、自分の場合でもあのような処遇だったのだ。キクコが人間ではないと分かっている連中がどのような行動に出るのかは分からない。
「分からない」
キクコの言葉は躊躇ったわけでも、返事に窮したわけでもない。ただ純粋に「分からない」という返答だった。
「旅していた頃の記憶は?」
「ない」
「先生だとか、ネメシスの記憶も?」
キクコは首肯する。ナツキは面倒事を引き受けてしまった事に眉をひそめながらも後頭部を掻いて妙案をひねり出そうとする。
「……誤魔化しは利かないわよ。もう、相手だってあんたがキクコで、ネメシスの尖兵だって知っているんだから。ジムリーダー殺しの件だって明らかになっている。正直、一番に信じられないのはあんたよ。ユキナリには記憶の継続性があるから辛うじて最低限に人間の扱いが出来たけれど、あんたにはそうじゃない。実験動物と同じ扱いを受けるわ」
「それでも」
キクコはユキナリへと視線を落とす。小脇にスケッチブックが抱えられているのをユキナリは目にした。
「そのスケッチブック……」
「ユキナリ君の。でしょう?」
キクコはスケッチブックをユキナリに手渡す。ユキナリはしかし受け取れなかった。
「……まだ、向き合えそうにないんだ」
その言葉にキクコは、「そう」と淡白に返してスケッチブックを抱える。まるで大切なもののように。
「航空母艦に引き入れられたら、あんた達は真っ先に拷問を受ける。いえ、拷問とはいかなくっても尋問ね。何が起こったのか。何をしたのか。ユキナリ。あんたは破滅を引き寄せたわけだから封印措置が取られる可能性がある」
「封印措置、って……」
「生きる事を許さず、かといって死ぬ事も許されない、無間地獄。あたしは、でも、あんたがそこまでの重責に身をやつす必要はないと感じているけれど、一構成員じゃ何とも言えないわ。ヤナギがどう手を打つかによる」
「どうして、ヤナギなんだ?」
先ほどからついて回った疑問にナツキは、「そっか」と得心した様子だった。
「あんたは知らないんだっけ。ヤナギはヘキサの現在の頭目。キュレムを手に入れてそうなった、と言うべきね。決定権はヤナギにあるけれど、もちろんヤナギの好き勝手にさせないために上層部がいる。これは、以前までのリーダーの思想を引き継いでいるわ。だからヤナギがあんた達に温情を与える措置を取ったとしても、上層部が許さなければ意味がない。ヤナギには考えがあるのかもしれないけれど、あたし達には決して言わないからね」
「何で、断言出来るの?」
ナツキはため息をつき、「そういう性格だからよ」と空を振り仰いだ。黎明の空を切り裂いて、巨大な氷の翼を広げ、航空母艦が港に降り立つのが目に入る。
「ナタネさんがしばらくすると呼んでくるわ。あたしは行かなきゃならない」
「待ってよ、ナツキ」
ユキナリの声にナツキは視線を振り向けた。
「特異点とか、その辺の事、まだよく分かっていない部分もあるんだ。僕に何が出来るのかも。ただ、単純な事を一つだけ聞かせて欲しい。ナツキは、変わったの?」
三ヶ月が経ったと言う。自分が破滅を引き寄せ、ナツキはその前後に再起不能に陥った。心情の変化があっても不思議はない。ナツキはしかし、腕を組んで憮然と言い放つ。
「変わってないわ。まだ玉座を目指す気はあるもの。ただ、それを純粋に追い求めるにしては、真実って奴を知り過ぎた」
ナツキの声音には憔悴さえも読み取れた。三ヶ月間、ナツキは何を思って戦い続けたのだろう。その空白を埋める手段は自分にあるのだろうか。
「勘違いしないで。別にあんたに責任取れって言っているわけじゃないし。それに、あたしだって一端に強くなったつもり。あんたにおんぶに抱っこのつもりはない」
言い放ってポニーテールを払ったナツキにはいささかのてらいも見られない。誇張でも、強がりでもなく本当に強くなったのだろうとユキナリは感じた。
「ただ、今まではフジの放つポリゴンシリーズとミュウツーが最大の脅威とされてきた。それが塗り替えられたのは事実。この後、あんたがどのようにヘキサに扱われるのかは予測出来ないし、庇い立てする事も難しい」
畢竟、一人で戦うしかないという事なのか。ナツキがそうであったように。ユキナリはぎゅっと拳を握り締める。
「ナツキはさ、何でここまで僕に話してくれるの? 何も知らせずに僕をまた処理する事も出来たはずだよね」
それだけが不明だった。ナツキは既にヘキサの構成員。組織に害悪のあるものを処分する権限くらいは与えられているはずである。その質問には、ナツキも、「どうしてかしらね」と答えを彷徨わせる。
「ただ、あんたがこのまま死んじゃったら悲しむ人がいるだろう、って思ったからかもしれないわ」
ナツキは航空母艦を眺めたまま顔を向けようとしない。その表情がどのようなものなのかは推し量る事しか出来ないが、きっと最大限の譲歩なのだと理解した。ナツキが出来る幼馴染としての今の限界。それが今までの会話なのだ。もうこれ以降話す事はないかもしれない。それどころか会う事さえも。ユキナリは、「ありがとう」と声を搾り出す。ナツキは振り向かずに、「どこにでもいるのよ」と答えた。
「人は、誰も一人で生きているわけじゃないんだから」
航空母艦から数人の人影が降りてくるのが視界に入る。ユキナリはもう一度、噛み締めるように礼を言った。