第百六十七話「再生者」
テントの前で待っていると足音が聞こえてきた。ユキナリは俯いたまま言葉を投げる。
「キクコ」
足音が傍で止まる。ユキナリは呼びかけを続けた。
「キクコだよね? あの時、助けたよね?」
嘘でもいい。そうだと言って欲しかった。助けてもらった。旅の記憶もきちんとある。そう言ってもらえればどれだけ心が救われた事か。だが返ってきたのは非情な現実だった。
「知らない」
ユキナリは歯噛みする。今すぐにキクコを問い詰めたい。だが、必死に自分の理性を訴える。
「……僕が助けたんだ。君を」
「そう」
素っ気ない言葉にユキナリは、「じゃあ」と最後の手段に打って出た。
「僕の事をどう思っているの? 僕は、キクコの事が好きだった」
このような質問、卑怯もいいところだろう。だがユキナリには確かめたかった。今までのキクコならば答えは分かっている。意味も分からず好きだと返してくれるはずだ。
だが――。
「キクコなら、こんな時にそう言うの?」
ユキナリは目を見開き、「じゃあもういいよ!」と逃げ出した。だがどこに逃げるというのだ。キクコが自分の知っているキクコではない。ヘキサの人々の言う通りだった。自分は滅亡させただけだ。何もいい事なんてない。ただ滅ぼすためだけに生まれてきた。
部屋に入って壁に頭を打ちつける。俯いて額に手をやった。このまま消えてしまえればどれほどにいいだろう。だが消滅という安息を誰も許してくれない。
扉の開く気配がする。しかしユキナリは振り返らなかった。
「オーキド君」
フジだ。だがユキナリは無言を貫く。
「スケッチブック、落ちているよ」
その言葉にも返さない。フジはため息を漏らし、「そろそろ時が来る」と告げた。
「嫌だ!」
ユキナリは叫ぶ。自分の感情の堰が切れたように言葉が溢れ出した。
「僕が生きていたっていい事なんて何もない! みんなに嫌われるだけじゃないか! だったら何もしないほうがいい!」
フジは少しの沈黙を挟んでからスケッチブックを拾い上げた様子だった。
「……そうやって自分の殻に閉じこもってもいい事なんてやってくるはずもない」
「でも、じゃあ僕はどうすればいいのさ! 誰も信じられない! ナツキも、キクコも、アデクさんも、みんな……!」
「でもボクだけは信じて欲しいな」
「出来ないよぉ……!」
誰一人として信じられるものか。みんながみんなして自分を陥れようとしているに違いない。特異点としての自分を憎悪し、この世から消すべきだと思っているに違いない。
ならば消えてしまうべきなのだ。ユキナリは握り締めた鉛筆を首に突き立てようとした。しかし、鉛筆が首筋に至る前にフジの手がそれをそっと止めた。
「何で止めるのさ……」
「君に死んで欲しくないからだよ」
「君だって信じられない僕に?」
フジは柔らかく微笑み、「信じられなくたっていいさ」と答える。その手が滑るようにこめかみへと至り、側頭部にある機器の圧迫感が外れた。ハッとしているとフジが自分の側頭部へと機器を吸い付かせる。その様子にユキナリは、「どうして……」と呟いていた。
「最初からこうするつもりだった。君を呪縛から解き放つには」
フジの言葉には真実の慈愛があった。でも、どうして、という言葉がついて出る。
「それをつけたら、ポケモンを操れば死ぬんだよ?」
「知っている」
「もう一生、戦えないのに」
「それも知っている。でもいいさ。ヘキサの呪いは、ボクが引き受けよう」
フジの言葉には迷いがない。ユキナリは戸惑った。どうして自らそのような危険を冒す事が出来るのだ。
「でも、僕なんかのために、フジ君が命を落とす危険を」
「いいんだ。君のために出来る事ならば」
フジはスケッチブックをユキナリに差し出す。ユキナリはそれを改めて手に取った。
自分のスケッチブック。これだけは自分のもののはずだ。
「一緒に開けよう」
フジの提案にユキナリは面食らう。
「えっ、今?」
「一緒ならば出来るさ。一人の勇気よりも二人なら」
フジが梱包袋に手をかけるのを手伝う。ユキナリはフジの体温を手の甲に感じながら、一気に梱包袋を引き裂いた。スケッチブックの手触りは見知った感覚だ。ページを捲ると間違いなく自分のものであるデッサンやスケッチがあった。そのどれもが自分が旅してきた事の証明であった。
「オーキド君。君は君だ。いくら周囲が変わろうとも、これだけは忘れないで欲しい。そして、ボクはそんな君を応援したい」
ユキナリはフジを見やる。フジの笑顔にユキナリは、「君を」とページを捲りまっさらの場所に鉛筆を突いた。
「君を描いてもいいかな?」
ユキナリの提案にフジは不思議そうな顔をする。「あ、やっぱり」と取り下げようとすると彼は微笑んだ。
「いいよ。動かないほうがいいかい?」
ユキナリは頷き、「そこに座って」とベッドを示す。自分は床に座っての作業になった。
「上手いね」
「僕みたいなのは大勢いるよ。これくらい、大した事ないって。ただ、僕はこの旅を通して、少しばかり成長出来たと思っていたんだ。ナツキやキクコ、アデクさんやガンちゃん、ナタネさんに出会って自分は変われたと思っていた。だから、僕は……」
声音に嗚咽が混じりそうになるのを必死に堪え、ユキナリはペンを走らせる。その言葉の行く末を案じたようにフジが声にする。
「君が心配しているよりも世界は君の事を想っている。ボクだってそうさ。君に死んで欲しくないんだ」
フジの言葉にユキナリは熱いものが頬を伝うのを止められなかった。どうしてフジはこうも優しいのだろう。自分のような、異端とも言える人間に対して。
「……僕は、ヘキサから恨まれて、この世界から爪弾きにされたものだとばかり思っていた」
フジは柔らかく首を横に振る。
「最後の最後まで、ボクがいるよ」
ユキナリは涙で濡れた面を上げ、「君ならば出来るよ」と言った。
「僕なんかよりもきっと、世界をよく出来る」
「君となら、さ。一緒がいいんだよ」
フジの言葉は温かなものとなってユキナリを包み込む。その心地よさに思わず口元が綻んだ。
「どうしてかな。フジ君と一緒にいると、こんな僕でもまだ生きる価値があるような気がしてくる。これって、君の魔法かな?」
「君自身が持つ輝きにボクが引き寄せられているだけさ。もっと自信を持つといい。これから言う事はお願いだからね」
「お願い……?」
ユキナリが筆を止める。フジは口元だけを動かした。
「グレンタウンの最深部、そこに三体の伝説のポケモンが安置されている。それぞれ、サンダー、ファイヤー、フリーザー」
因縁の名にユキナリは目を慄かせる。フジは、「聞いた事くらいはあるだろう?」と僅かに首を傾げる。
「ああ、うん。特にサンダーは」
煮え湯を飲まされた相手だ。思い出していると、「その三体ともう一体」とフジは続けた。
「ボクらの希望となるポケモンが存在する」
「希望?」
フジは微笑み、「もしかしたら、やり直せるかもしれないんだ」と言葉を継いだ。ユキナリは覚えず目を見開いて聞き返す。
「今、何て……」
「君がしてしまった事、それは取り消せない。だが贖罪の道はあると言った。三体の伝説のポケモンのエネルギーとその特別な一体を君が扱えば、破滅とは真逆の、正のエネルギーへと転化するはずだ」
フジの言葉にユキナリは鉛筆を取り落とした。フジのスケッチはまだ途中だったが、それを聞かねばならないという気持ちが先行する。
「正のエネルギーって、つまり、破滅の逆って事?」
「そうなるね。帳消しに出来るかどうかはまだどうとも言えないけれど、やり直しが利くかもしれない」
ユキナリはスケッチブックを置き、「どういう事……」と詰め寄る。フジは慌てふためく様子もなく、「言葉通りの意味だよ」と返した。
「ボクが造り上げたポケモン、ミュウツーと呼んでいるが、そいつを依り代にして間接的に三体の伝説級からエネルギーを取り出す。ヘキサツールがこの次元に来た時、それと同じエネルギーが観測されたはずなんだ。それをミュウツーで擬似再現する」
「擬似再現……」
「本来ならば起こり得ない幻の技、三位一体。それを普通のトレーナーが使うのは至難の業だ。だがミュウツーによる擬似再現ならば、トレーナーへの負荷はほとんど無視して再現出来るはずさ。それを行うには技の制御とミュウツーの制御に二人要るんだ」
「二人、って」
「単刀直入に言うよ。ボクと一緒にミュウツーを使って欲しい。そして、やり直すんだ。この世界を」
フジの言葉にユキナリは瞠目する。フジは一直線に自分を見据え、「そう易々とは信じられないだろうが」と続けた。
「ミュウツーだけが、ボクらの希望なんだ。それに、三位一体ほどのエネルギーを同調なしに使うにはこの方法しかあり得ない」
「その、三位一体って言う技が、どうして鍵だと分かるの?」
「ヘキサツールには特殊なエネルギーが働いている事が分かっている。それが、ヘキサツールに刻まれた歴史を人々が鵜呑みにしてきた根拠でもある。そのエネルギーと正反対のエネルギーをぶつけるには、やはりそれ相応の技でないと突破出来ない。ボクが研究し、観測した例で言えば、三位一体以上の技はない」
研究者として、フジは偽らざる言葉を口にしているのだろう。だがユキナリにはその言葉の現実味がなかった。
「……僕には、その三位一体ってのはよく分からないし、何で伝説級のポケモンが必要なのかも分からない」
「炎・水・草。この三元素で出来上がるはずの技なんだが、生憎それ相応に育て上げられたポケモンもトレーナーもいない。この技は過度な同調以外に到達する事がまず不可能なものだ。トレーナーを三人用意する事も出来なければ、三体のポケモンを集める事も出来ない。だが、その三元素に限りなく近い属性を並べ立てる事は出来る。三体の鳥ポケモン、差異はあれど、この三元素でも三位一体の領域には至れる。ただし、直接トレーナーが使うのはリスキーだ。だからこそ、ボクはミュウツーによる間接的な使用を提案する」
フジの言葉通りならば自分はミュウツーを通して三位一体を使え、という事なのだろう。だが、名前も存在も今知ったばかりの技など使えるのだろうか。しかも、三体のポケモンは揃って伝説級なのである。
「でも、僕なんかに……」
「だからこそ、二人なんだ。トレーナーとして、君は優れている。君はミュウツーを通しての三位一体を。ボクはミュウツーの制御を担当する」
フジの提案にユキナリは、「そんな、うまくいくのかな」と懐疑的な声を出す。
「伝説のポケモンから技を引き出すなんて並大抵の事じゃないだろうし」
「だからこそ、ミュウツーはボクがきちんと制御する。君にはただ三体のポケモンを操る事だけを考えてくれればいい。なに、オノノクスを操っていた事に比べれば大した事じゃないよ」
ユキナリは自身の掌に視線を落とす。出来るのだろうか。その懸念を読み取ったように、「オーキド君」とフジが呼びつける。
「ボクと二人でやるんだ。何も君一人に背負わせる気はない」
その言葉にユキナリは気持ちが和らいでいくのを感じた。どうしてだろうか。フジの言葉はいつだって自分を勇気付ける。
「……そうだね。君なら出来るよ」
「君となら、だよ。ミュウツーは既に二人で操る事を前提に設計している。ボクと君は運命共同体だ」
フジが小指を差し出す。ユキナリは、「いいのかな……」と呟いた。
「約束出来るわけじゃない」
「それでも。約束しよう」
フジの言葉にユキナリは躊躇い気味に小指を絡ませる。フジは、「指きりだ」と口にした。
「必ず二人で世界をいい方向へと持っていこう」
「……うん。そうだね。出来るような気がしてきたよ」
ミュウツーというものがどのようなものなのか理解したわけではない。ただフジは信じられる。それだけだった。
「オーキド君。そう謙遜するものじゃないよ」
「あの、下の名前でいいよ」
ユキナリの言葉にフジは微笑んで、「じゃあ、ユキナリ君」と頷いた。
「君は君が思っている以上に尊い。それを自覚してくれ」
フジの言葉は心地よい。自分になかったものが満たされていく感覚がある。ユキナリは少し照れくさいようなくすぐったいような感覚を覚えながら首肯する。
「そうだね。行こう」