第百六十五話「インフェルノ」
朝食のケースが収納される。
ユキナリは今日のワイシャツに袖を通し、スケッチブックをさすった。梱包袋越しのスケッチブックではあるが、自分のものだという確信はある。引っ掻いたような傷や、スケッチがうまくいかなかった時につけた黒鉛の痕など誤魔化しようのない部分がいくつもあるのだ。だがヘキサの面々はこれだけしかオノノクスから復元出来なかったと告げていた。
「……でもキクコは生きていたんだ。それでいいじゃないか」
ユキナリはスケッチブックを片手に部屋を出る。目指したのは昨日フジと出会った場所である。中庭に出るとフジはユキナリを認めて、「やぁ」と片手を上げる。ユキナリは歩み寄り、「朝から早いね」と返す。
「見てごらん」
フジの指し示す方向は朝靄で曇っている。目を凝らすと海面を跳ねているポケモンの姿があった。
「ああして海面を跳ねて何をしていると思う?」
その問いかけにユキナリは返事に窮した。
「さぁ。見当もつかない」
「跳ねて海面に振動を起こし、餌となるポケモンを炙り出しているのさ。わざとびっくりさせてね」
ユキナリは感嘆の息を漏らした。同じポケモンの生息域と言っても海上と草原ではまるで違う。
「フジ君はすごいな。何でも分かるんだ」
「職業柄ね。観察力なら君も負けてはいないだろう?」
フジはユキナリのスケッチブックを指し示し、「絵が描けるのなら鉛筆がいるだろう?」と言ってきた。こちらから切り出そうと思っていただけにユキナリは呆気に取られる。
「えっ、何で分かったのさ」
「スケッチブックだけじゃ絵は描けないよ。それくらい、ボクでも分かるさ」
ユキナリははにかんだ笑みを返し、「じゃあそのお願い出来るかな?」と訊いた。
「鉛筆だけでいいのかい?」
「うん、欲を言えばカッターや消しゴムも欲しいけれど、まずは鉛筆さえあれば困らないし」
「書き直しとかやり直しはしないのかい?」
ユキナリは海上を眺めて、「好きじゃないんだ」と答える。
「やり直しとか、そういうの。だから、大体は一発書きで当たりを取って、それから肉付けをする。僕のはスケッチって言うかデッサンみたいなものだから。本格的に色を乗せるのなら、この方法じゃ駄目なんだけれど」
「ボクも見てみたいな」
フジの言葉にユキナリは、「大したものじゃないって」と謙遜する。
「いや、君が生み出すものだ。大したものだろう」
「僕に出来る事なんてこのくらいだよ。でも……」
言葉を濁すと、「その封を開ける踏ん切りがつかない?」とフジが顔を覗き込んでくる。ユキナリは頭を振って笑う。
「……本当に、何でもお見通しなんだ、フジ君」
「いつも君だけの事を考えているからね」
ユキナリはスケッチブックを包む袋に指を引っ掛けようとする。しかしあと一歩のところでどうしてもそれを開ける勇気が失せてしまう。
「怖いんだ」
「怖い?」
「そうだよ。もし、もしだよ? この封を開けてこのスケッチブックに何も描かれていなかったら、それは僕のものじゃない。僕がこの世にいたって言う証明が何一つなくなってしまう。キクコもあんな調子だし、ヘキサの人達は僕をどうしてだか恨んでいる。そう、怖いんだよ!」
ユキナリはフジへと向き直って叫んだ。自分の思いの丈をぶつけたつもりだった。フジは柔らかく微笑み、「その恐怖は正しい」と頷く。
「誰しも自分の証明というものに戸惑うのさ。いつまでも現実味を帯びないのはいつだって自分自身だ。明日の自分を描く事さえ困難になってしまう。それでも明日はやってくるし、その次の日も、惨いようだけれど絶対にやってくる」
フジの言葉にはユキナリがいくら答えを先延ばしにしても逃れられないものがあると言っているように思われた。自分が先延ばしにしているもの。答えがあるのかないのかさえも定かではないもの。
「怖いものは、一緒に探そう。苦しい事も分かち合おう。それでこそ、意味があるのだとボクは思う」
フジの声は前向きだ。しかし、自分にとっては踏み込むのがやっとの部分だった。
「でも、僕にはその資格が……」
「資格なんて誰でも後からつけるものさ。今は歩み出そうよ」
ユキナリはフジの顔を見やる。フジはユキナリの決断を待っているようだった。ならば、自分はどこへと進むべきか。ユキナリは頷いた。
「知りたい。僕が何をしたのかを」
フジが行こうと言ったのはグレンタウンの研究所と直結している灯台だった。遠くまで見通せるらしい。しかし外側を行く鉄製の階段は軋みを上げ、今にも崩れ落ちそうだ。ユキナリは鎖状の手すりに掴まりながらやっとの様子で上がっていく。比してフジは率先して前を行った。その背中が一瞬だけ吹き込んできた雲に隠れて見えなくなる。ユキナリの胸中を不安が襲った。掻き乱されるような焦燥に声を上げようとする。
「フジ君――!」
その声の先を突風が遮る。耳を劈くような突風の流れにユキナリは目を閉じ、耳を塞いだ。その場から一歩も動けなくなる。震えているとすっと手が差し出された。フジがユキナリの前に佇んでいる。
「行こう」
その言葉にユキナリはフジの手を握って歩き出す。これでは子供だな、と自分でも弱さが嫌になった。
頂上に辿り着くと四方に双眼鏡が備え付けられている。それ以外にもディスプレイやスピーカー、投光機などがあった。宵闇に迷った船の道標になる必要からだろう。
「オーキド君。ここからならばよく見えるよ」
フジが示したのは東側の双眼鏡である。ユキナリは双眼鏡へとそっと目を当てた。
飛び込んできた光景は異様なものだった。ふたご島の向こうにはセキチクシティが広がっているはずである。だが、セキチクシティの影も形もない。靄のせいか、と感じたが東側の視界は良好だ。ふたご島に隠れる程度しかものがなかっただろうか、と考えていると、「双眼鏡からだと何も見えないだけだろうね」とフジはポケギアへと声を吹き込んだ。
「カツラ。ここに、セキチクシティの俯瞰図を映し出してくれ」
その言葉にディスプレイの一つが点灯した。ユキナリがそちらに目を向けるとさらに異様な光景があった。何もない平野が広がっている。荒れ野、と呼んでもいい。隕石でも降ってきたように大小様々な穴が穿たれており、残っているのは病院くらいなものだった。瓦礫の山と化した場所をフジは「セキチクシティ」だと言った。ならば、この見えている光景は何なのか。問いかける前にフジが口を開く。
「これが現在のセキチクシティの様子だ」
「何を言って……。だってセキチクシティには、サファリゾーンがあって、ジムもあって、それに施設もたくさんあったはず」
「根こそぎ破壊されたんだよ。破滅によってね」
「破滅……?」
聞き返すとフジは息を吸い込み、「これから語る事は君に大きな衝撃を与えるだろう」と前置きした。
「三ヶ月前、セキチクシティでキクコのメガゲンガーが暴走した。その時、君はオノノクスと共に特異点として覚醒、四十年後に訪れるとされている大災害、いわゆる破滅のトリガーを引いてしまった」
「僕、が……」
半ば信じられない様子で聞いていると、「この世界には寿命があるんだ」とフジは告げる。
「世界の寿命は予め決まっていてある石版がそれを指し示しているとされていた。その事実を知るのはロケット団、ヘキサの上層部、そして歴史を裏から操る秘密結社ネメシスだけだったのだが、その石版の情報があらゆる人々にもたらされた。それによれば破滅を導く要因として存在する人間がいるとされている。ネメシスはその人物を特異点と呼んだ。特異点、つまりはオーキド・ユキナリ君、君の事だ」
その言葉にユキナリは愕然とする。一体何を言われているのか分からない。突然、特異点だと言われても理由がまるで浮かばなかった。
「何で……、何言ってるんだよ。だって僕は普通の人間で、何一つ他人と変わらない子供で……」
「そう。何一つ変わらない。だが、特異点とされた人物が未来にどう影響を及ぼすのか検証された結果、君ともう一人の特異点がこの次元にいずれ破滅をもたらすとされた。それがオーキド君とサカキ。君ら二人には接点もないし面識もないだろう。だが、この次元の特異点は君達二人なんだ」
ユキナリは狼狽する。未来に何が起こるなどと言われても実感がまるでない。
「……サカキなんて、会った事もないのに。何で僕とそいつなのさ」
「これは決められた事なんだ。ある意味、預言書のようなものかな。その石版に書かれている通りにこの世界では歴史が進んできた。歴史をそのまま適応しようとしているのがネメシス。歴史を変えようとしたのがヘキサとロケット団だ。だがヘキサは頭目がヤナギに変わった事によって動きを変えつつある。それまで保守的だった特異点の抹殺にも力を入れ始める事だろう」
「抹殺って、僕が殺されるって言うの」
その言葉にユキナリはこめかみに吸いつけられた機具を思い出す。ポケモンとの過度の同調、あるいは覚醒リスクを抑えるためのものだと説明された。もし、禁を破った場合、自分が死ぬと。
「……嘘だ。嘘だそんなの。信じないぞ、僕は信じない」
「でも、このセキチクシティの惨状は本物だよ」
フジの声を聞くまいとユキナリは耳を塞いだ。それでも視界に入ってくるのは嘘偽りのない破壊の爪痕だ。
「三ヶ月前、君はオノノクスと共に四十年後に訪れる破滅を早めた。扉を開き、破滅が訪れようとした。直前で抑えられたもののその被害は推し量るべきだ」
「やめてよ……。何で僕にこんなものを見せるのさ」
自分勝手な物言いだという事は充分承知している。知る覚悟があるのか、とフジはきちんと自分に確認したではないか。
「君は知らねばならない。知らなければ前に進めないし、後退も出来ない。ただ、見ての通り、人がたくさん死んだ」
「やめてよ! 僕のせいじゃない!」
「ヘキサが君に恨みを持つのも頷ける。その安全装置もヘキサが何よりも世界の破滅を免れるための措置だろう。君個人の命と世界の命。それを天秤にかければ導かれない答えじゃない」
自分がそのような存在など信じられる話ではない。だが、ヘキサはオノノクスとユキナリを分断し、自分にこのような措置を講じた。
「僕は……ただ、キクコを助けようとしただけだ。何も悪い事なんてしていない」
「だが結果的にそれがこのような破壊をもたらす結果になってしまった。全てのきっかけは、君なんだよ」
ユキナリはその場に蹲った。耳を塞ぎ俯いて呻く。
「信じない……。僕にどうしろって言うのさ」
「起こってしまった事は取り消しようのない事実だ。だが贖罪の道はある。希望は残っているよ、どんな時にもね」
ユキナリは嗚咽を漏らした。その声だけが朝靄の中に沈んでいった。