第百六十四話「怪物共」
キクコとの会話は結局噛み合わなかった。
どこか、キクコの記憶に欠落でもあるのだろうか。そう考えなければあの反応は異常である。まるで、今まで旅した事が全て消えてしまったかのようだ。ユキナリはスケッチブックを片手に自室へと戻ろうとする。その時、耳を掠めた音に立ち止まった。
昨日と同じ、外に面した中庭で少年が鼻歌を口ずさんでいる。ユキナリはここから外に出るコースを探し出し、中庭に出た。すると少年は振り返り、「やぁ」と挨拶する。
「ど、どうも」
「そう硬くならないで。ボクの鼻歌が聞こえたのかな」
はにかむ少年にユキナリは、「まぁ、うん」と歯切れ悪く返す。自分とて鼻歌が聞かれていれば恥ずかしいだろう。しかし、少年は、「歌はいい」と口にした。
「心が洗い流される感じがする」
またしても鼻歌のリズムを取ろうとする。ユキナリは、「あの、さ」と口を開いた。
「この研究所っていつからあるのかな」
「ずっと昔からさ。グレンタウンがまたカントーの一部として認知されていない頃から実験的に配置されていた。そう言い伝えられている」
「詳しいんだね」
「ボクも一応、研究者の端くれだからね」
その言葉にユキナリが目を見開く。「ああ、ゴメン」と少年は微笑んだ。
「言っていなかったね。この研究所の主任研究員なんだ」
「主任? カツラさんが主任じゃなくって君が?」
ユキナリが驚いていると、「変かな?」と彼は小首を傾げる。
「いや、変って言うか……。だって僕とそう歳も変わらないみたいだし」
「これでも成人しているよ」
その事実に二重に驚いた。まさか成人だとは思ってもみない。
「最近実装された、十歳成人法じゃなくって」
「うん。本当の成人、だから二十一歳だね」
自分より六つも上の相手に同い年だと思って接していた事にユキナリは、「あの、ごめんなさい」と謝る。
「そうは見えなくって……」
「よく言われるよ。歳を取っていないみたいだって」
彼は微笑んで今のユキナリの失言をなかった事にしてくれた。ユキナリは、「すいません」と年上にするのと同じ調子で返す。
「やめてくれよ。ボクは君と対等がいいんだ。タメ口でも構わない」
彼の言葉にユキナリは、「でも……」と言おうとしたが彼が先んじて言い放つ。
「君と一緒がいいんだよ」
その言葉にユキナリは逡巡を浮かべながらも頷いた。
「分かった。でも、まだ僕は君の名前も知らない」
「フジだよ。フジ博士と呼ばれている」
「フジ博士、って僕も呼んだほうがいいのかな」
「いいや」とフジは首を横に振った。
「博士なんて呼ばれるほどのガラじゃないんだ。君の好きなように呼んでくれていい」
「じゃあ、あの……フジ君」
「何かな、オーキド君」
ユキナリは、「さっきの鼻歌」と口にする。
「何の曲なの?」
「ベートーヴェンの第九。その一部だよ」
ユキナリは音楽方面には明るくないので、「どんな曲なのかな」と呟いた。
「クラシックさ。君は、クラシックは聞かない?」
「音楽とか、よく分からなくって」とユキナリは笑ってはぐらかす。フジは、「そう難しい話じゃないよ」と応じた。
「自分が音の一部になる感覚って言うのかな。音楽っていうのは喉だけで奏でるものじゃない。全身で奏でるものなんだ。だから、ボクは音楽を聴覚の芸術だとは思っていない。そうだね、近いものを上げるのならば彫刻や絵画だ」
「彫刻?」
それに絵画とは。ユキナリはその意外さに目を見開く。フジは、「彫刻は、触って楽しむ事が出来る」と手を翳した。
「絵画も、見て楽しむ事が出来る。でも、音楽も絵画も彫刻も、一面だけじゃない。どこか多面性を持っているのが芸術なんだ」
「難しいな。僕とフジ君じゃ認識が違うからかもしれないけれど」
「そんな事はないよ。君だって芸術をたしなんでいる」
フジの目が手に取っているスケッチブックに注がれているのが分かり、ユキナリは咄嗟に手で覆った。
「大層なものじゃないよ」
「楽しむのに、理由はいらないだろう? 君は絵を描くんだね」
「うん……。と言っても、下手だし見せられないし」
「描いて楽しむ事と見て楽しむ事は必ずしも同義である必要性はない。たとえば君が鑑賞を重視して描いたとしても、逆に誰にも見て欲しくないのに描いたとしても、そこに楽しむ意義がある」
ユキナリの謙遜を掻き消す言葉を投げてくれたのだと分かった。はにかんで、「フジ君はすごいな」と頬を掻く。
「僕にはとてもそんな風には」
「思えないって? なに、これも年長者ならではの視点だよ」
ユキナリはスケッチブックを眺め、「あのさ」と口を開く。
「僕が、もう一度描いてもいいのかな」
「それを決めるのは君さ。他の誰でもない」
ユキナリは梱包袋を破ろうとしたが、寸前でその感情は霧散した。
「……まだ無理みたい」
「いいさ。時間はある」
「また来ていいかな」
ユキナリは遠くに沈もうとしている斜陽を眺めながら尋ねる。フジは、「いつでも大歓迎だよ」と返し、微笑んだ。
「ミュウツーの強化外骨格、第二段階に入ったらしいね」
フジは研究者としての声を吹き込む。すると通信から返事が来た。
『ええ、何とか。三ヶ月経ってもこの程度、ってのはやりきれませんがね』
答えたのはヤマキだ。フジはディスプレイに表示されている新型の強化外骨格を見やる。概観はほとんど変わらないが活動限界までの時間が大幅に延長されたという。さらに防御性能、攻撃補佐の性能も付与された。
「ミュウツーは文字通り、完成を見るわけだ」
『でも、強化外骨格を使わないのがベストなんでしょう?』
「なに、仕方のない事さ。これを使わなければ本当ならば四十年かかる技術で造られたポケモンだからね」
その四十年を無理やり縮めたのは他ならぬ自分だ。その自負にフジはミュウツーへと通話を繋ぐ。とはいってもポケギアの周波数を合わせる必要もなければ、通信機を持ち込む必要もない。ただ頭で念じればよかった。
――君の意見が聞きたい。
(私の意見か。そのようなもの、端から無視されているものだと思っていたが)
その言葉にフジはフッと笑みを浮かべる。
――ひねくれているね。でも仕方のない事か。君より強いポケモンはいないのだから。
(私はお前達の提供するあらゆる情報にアクセスする権限を持っている)
今さらの言葉にフジが疑問符を浮かべているとミュウツーが尋ねた。
(私よりも強いポケモンなどたくさんいる。状況面で私に優れた相手がいないだけだ。お前達はどうして私に投資する?)
フジは可愛げのないミュウツーに苦笑した。自分が状況面で優れているだけだと冷静に判断出来るのはある種、才能だ。
――そういうところが、君を最強に引き上げる部分なのさ。自分は本当に強いのか、試したいのだろう? でも試す相手がいない。そもそも、ボクらの支援がなければまともに活動も出来ない事を知っている。
(だからこそ、支配を受け容れている)
――真に賢しいとはその事さ。自分が一番能力を発揮出来る環境の見極めってのは人間でも難しいんだ。
ミュウツーはその点において人間よりも優れているのだろう。だが、人間がそれを超えるのはミュウツーがそこまで考えつくのだと想定する事だ。ミュウツーの考えがどこまで及ぶのか、それを見極めるヒトのほうが僅かに勝っている。僅差ではあるが、この差は溝のように大きい。一つの溝に支配する者される者の逆転がある。
『フジ博士? 聞こえてますか?』
ミュウツーとの思念の会話に割いていたせいだろう。ヤマキが怪訝そうに尋ねてくる。フジは、「ああ聞こえているとも」と応じた。
「ボクとしては、ミュウツーに負荷はかけたくない。確実な仕事を要求する」
『それはいつもの話でしょう』
ヤマキは笑うが、現場からしてみれば血の滲むような努力だ。未知のポケモンの強化外骨格を造り、いつまでとも決められていない戦いに身を投じる。ある意味ではポケモンリーグという分かりやすい枠に収まっていたほうがマシな身分だろう。だが、彼らは率先してそれを選んだ。キシベによる支配を納得出来なかった人々だ。それを選出したのがキシベ自身なのが笑えるが。
「ミュウツーの技はどこまで使えるのか、試したい」
『細胞実験は我々の範疇にないのでフジ博士に頼みます』
「手厳しいな」
フジは笑って、「引き受けよう」と首肯する。
「ただ、そっちはそっちでうまい具合に造り上げてくれよ。その出来次第でこれからの動きが変わってくる」
『ええ。しかし、妙な噂を聞きましたよ』
「噂?」
突然に話題が変わってフジは怪訝そうな顔をする。
『キシベさんです。サカキ擁立をしていたあの人の消息がぱったり途絶えてからもう三ヶ月ですけれど、おかしくないですか? 三ヶ月もあれば優勝させられる事なんて出来るでしょう』
それはその通りだ。現に優勝候補達は既にグレンタウン近海に集まってきている、という情報がある。来たところでジムリーダーのカツラは既にバッジをユキナリに渡しているので意味はないのだが。
「グレンタウン攻略に意味がないのだと悟れば、すぐさまトキワシティ、最後のジムリーダー突破を目標にしそうなものだけれどね」
『でしょう? その事に関してですが仲間内で出た噂に、サカキを優勝させる気はないんじゃないか、っていうのがあるんです』
フジは興味深そうに、ほう、と嘆息をつく。
「そりゃまた、何で?」
『何でなのかは推測の域を出ないですけれど、キシベさんは最初から特異点サカキを優勝のためではなく、他の目的に使う気だったんじゃないかって話ですよ』
「何のために? まさか破滅の誘発?」
それはあり得ないだろう、と自分でも感じる。特異点の覚醒による破滅は最も忌避すべき事態だ。ユキナリが扉を開きかけた時にキシベが何もしなかった事も気がかりだが、自分の行動が予見されていたのならば答えは出る。しかし、キシベはサカキに何を期待しているのか。ユキナリ以上にサカキに執着する理由は未だに解けなかった。
『それはないでしょうけれど……。でもあの人も何を考えているのか分からないですから。破滅を願っていても不思議はないです』
「あの人も、ってボクも異常みたいな言い方だね」
『実際、そうじゃないですか』
軽口に、「かもね」と笑い返す。ユキナリが何を成すのかが気になっている。自分の知的探求心を満足させるために世界を破滅寸前まで追い込んだ。
「強化外骨格のスケジュールは君に一任しよう。ただ完成品はきちんと頼むよ。不完全なものを掴まされたら堪ったもんじゃないからね」
『ご心配なく』
通信を切り、フジは息をついた。傍にいたカツラが、「定期通信、ご苦労だな」と呟く。
「部下の顔を窺うのも仕事のうちか?」
「嫌だな、カツラ。ボクはそこまで性悪じゃないさ」
カツラがコーヒーカップを差し出してくる。フジは受け取って口に含んだ。
「だが、キシベが何を考えているのか分からない、っていうのは同意する。実際、三ヶ月音沙汰はない。不気味なほどだ」
「ボクらは結構派手にヘキサとやり合っている。ポリゴンシリーズを出し過ぎれば目立つと思っていたんだけれど、その情報が根こそぎ握り潰されているのは、これはネメシスのお陰かな」
歴史の陰で細々と矯正を行ってきた存在、ネメシス。彼らが火消しに躍起になっているのはよく分かる。それほどまでにロケット団とヘキサの闘争は激化している。ヘキサは空中要塞のような氷の兵器までつぎ込んできた。ことごとくその要塞にポリゴンシリーズは煮え湯を飲まされている。開発者としては少し腹立たしい。
「ネメシスは、ヘキサのような大規模組織こそメスを入れるべきだと思うがな。それほどまでの動きがないのはヘキサがいずれ滅びる事を知っているからか?」
カツラの問いに、「どうとも言えないね」とフジは保留にする。
「滅びる、って言うのならばロケット団も同じだし。ネメシスの頭目がどこまで歴史の強制力って奴を信じるかどうかだ。実際、歴史の終焉はまだ訪れていないわけだし」
「だが、セキチク……。街が一つ地図から消えたのは想定外だったんじゃないのか?」
カツラの言葉に、「未だに復興の目処は立っていないみたいだ」と情報を集めながら呟く。
「死傷者は五百人以上。正直、その五百人をどうやって誤魔化すのか、逆に興味深くはあるけれど」
「歴史の差異、か。あるいはいずれ死ぬのならば五百人程度、あってもなくても同じと考えるか」
「怖い怖い」とフジはひらひらと手を振る。ネメシスがどのような考えであれ、自分達とは対立するだろう。ヘキサツールの歴史通りに事を進ませるつもりならば。
「ヘキサツールの通りに全ての事象が動けば間違いなく滅びが訪れる。ネメシスは諦観のうちにその滅びを受け容れようとしているが、四十年後が今になれば困るわけだ。だからと言って歴史の積極的干渉は避ける。……傍観者に徹してもらえればこれほどありがたい話はないんだがな」
「そうはならないだろう。フリーザーを捕獲したあたり、少しくらいはよくしようという考えなのかもしれないね。少なくとも、二の轍は踏まない志か。だからこそ、ボクのミュウツーが効いてくるわけなんだが」
「本来ならば三十年後に出現するはずの人工のポケモンを今の時代に出しても本来の能力は発揮出来ない。ただし、それは何もしなければ、の話か。フジ、考えとしてお前が操る以外の案は既にあるんだろう?」
「まぁね。そのためのオーキド・ユキナリ君の存在でもある」
カツラは、「わざとらしい接触だったよ」と感想を述べる。カメラで見ていたのだろう。趣味が悪い、とはお互いに言えなかった。
「また会いに来ると思うか?」
「思うね。彼と出会って確信したよ。ボクは、彼のために生まれたのだと」
「大げさだな」
肩を揺すって笑うカツラに、「いいや、大真面目さ」とフジは答える。
「彼が何を望むのか。それによってこれから先のアプローチが変わってくる」
遠くを眺めるフジにカツラは、「それよりも先決すべきは」と話題を変えた。
「三体の伝説、その本部への輸送だよ」
この三ヶ月の間に起こった出来事だ。サンダー、ファイヤー、フリーザーの三体がロケット団本部、つまりは今のキシベの下へと集められた。それはミュウツーの存在を黙認する代わりのある種、引き換え条件だった。もちろんキシベの口からミュウツーが云々と直接言われたわけではない。ただ三体の鳥ポケモンを預からせて欲しい、とのお達しだった。
「ああ、そうだったね」
「だが断ったのだろう?」
今さらの確認事項に、「どうしてだ」とカツラは詰め寄った。
「ミュウツーの存在の黙認なんてもう不可能さ。既に何人ものロケット団員が関わっているんだ。人の口に戸は立てられない。そうでなくっても中間報告書をシルフビルがあった頃に提出している。マサキなんかには周知の事実だ。だから今さらミュウツーを隠したいだとか、そういう事は一切ない。だから三体の鳥ポケモンも渡さない」
「だがどうしてこだわる? あまりに独断先行が過ぎればキシベの妨害に遭う可能性もあるんだぞ」
フジはカツラへと視線を振り向けて、「怖いのかい?」と訊いた。カツラが瞠目する。
「何だって?」
「キシベが怖いのか、って訊いているんだよ」
その言葉にカツラは憮然として応じた。
「馬鹿を言え。キシベが怖くってお前につけるか」
「そうだろう。キシベなど、最早おそるるに足らない。ミュウツーとオーキド・ユキナリ君はボクらの手中にある。ミュウツーを遠隔で操るだとか、この研究所を爆破するだとかそういうぶっ飛んだ考えじゃない限りキシベはボクらを止められないし、ボクも止まらないよ」
フジの自信にはもちろん、ミュウツーの圧倒的戦力が背景にあったが、それよりも特異点を有した事の強みがある。特異点を向こうも持っているとはいえユキナリには及ばないだろう。サカキにはユキナリほどの価値はないのだとフジは考えていた。
「だが、サカキが俺達の想像を超えた化け物だとすればどうする?」
「その時はこうすればいい」
フジはカツラを指差す。
「目には目を、毒は毒をもって制する。化け物には、同じくらいの化け物を、だよ」