第百六十三話「消失点」
梱包袋に入っているスケッチブックを眺める。
今が何時なのか、朝なのか夜なのかを調べるのは定期的に運ばれてくる食事と服飾で判断するしかなかった。ペースト状の食品はお世辞にもおいしいとは言えなかったが栄養価はあるらしい。現に満腹感は得られた。
服飾はユキナリの常の服装だった白いワイシャツと茶色のズボンだ。パンツも替えが運ばれてくる。他人に運ばれれば赤面するようなものだが、自動的にポストに入っているのでユキナリは気にしなかった。着替えを済まし、食事をしてからユキナリはスケッチブックを片手に研究所内を散策する事にした。自分は何も知らない。少しずつでもいい、知っていこうと思えたのはキクコと再会出来た喜びからかもしれない。スケッチブックを袋から出さずにユキナリはキクコの名を呼ぶ。どこかで自分と同じような部屋にいるのだろうか。
研究所ではあらゆるものが新鮮だった。同じコースを定期的に、同じ速度で走るマシンや、粒子加速器を思わせる輪。一定時間で明滅を繰り返す水槽などがある。水槽の中を覗き込んだが何もいなかった。
「どこにいるんだろ」
キクコの名を呼びかけつつユキナリは研究所を同じ歩調で進む。総じて言えることはどこか研究所は死んだような印象を受ける事だ。動き、と言ってもそれほどまでに急激なものは一切ない。死んだような、よく言い換えても眠っているような速度だった。
しばらく歩いているとテントのようなものが目に入った。緑色のテントは自分が旅していた時に使ったものと酷似している。歩み寄ると人の気配を感じた。
「キクコ?」と覗き込んだ瞬間、視界に大写しになったのはキクコの白い肌だった。ユキナリは慌てて背中を向ける。
「ちょ、ちょっと! 服着てよ!」
ユキナリの慌て様に反してキクコは冷たく尋ねる。
「それは命令?」
「命令って言うか、普通はそうでしょう」
「分かった」
キクコが衣擦れの音を立てて服を着込むのが伝わる。ユキナリは動悸がパンクしそうなほどに高鳴っているのを感じた。キクコの裸体ならばスケッチブックに描いたろうに、それでも緊張する。
「着替えた」
その声にユキナリは安堵してテントに入ろうとする。すると爪先に寝袋が触れた。ゆっくりと跨ぎ、「あの、さ」と口を開く。
「キクコは、ここにいるの?」
「うん。命令を待っている」
「命令……、どんな?」
キクコは答えない。言ってはいけないのだろうか。ユキナリは質問を変えた。
「ここって、落ち着く?」
その言葉にキクコは小首を傾げる。意味が分からない、というように。
「落ち着く?」
「そう、落ち着くか、って。キクコ、オツキミ山のキャンプの時、楽しそうだったから。だからこのテントに住んでいるのかな、って」
「オツキミ山……、キャンプ……」
キクコはユキナリの言葉を繰り返す。思い出している、というよりかは意味の分からない言葉を咀嚼しようとしている様子だ。
「うん……。あの時はさ、キクコ、インスタントのスープがおいしいっていうものだから。もっとおいしいものは世の中にたくさんあるのに」
笑い話にしようとするとキクコは、「おいしい?」とまたも不思議な反応をする。
「……うん。おいしいって言っていたし」
「ねぇ、ユキナリ君」
改まった声音にユキナリは、「何?」と尋ねる。
「楽しいって、おいしいって何?」