第百五十八話「リペアチャイルド1」
最初に感じたのは、寒い、であった。
唐突な目覚めの後、湧き上がってきた感情は虚脱に近いものだった。何か、とてつもない事を忘れているような気がするがそれを説明する手段はない。浮き上がっていく泡沫を眺める。
ここは水底か、と判じた感情を処理する間もなく、ブザーが鳴り響き数人の知らない大人が自分を取り囲んだ。何を始めるのか、と思っていると彼らは自分の入っている物体から水を抜き始めた。
薄茶色の液体は抜き取られるにつれて重力が感じられるようになった。どうやら自分は棺状の物体に入っているらしい。四方を眺めて判断すると天蓋に当る部分が開き、簡素な服を着せられると大人達にすぐさま拘束された。
両腕に手錠がはめられ、両足にも同様だった。すぐさま担架のようなものに乗せられたかと思うと、足の裏に何かを書かれた。こめかみに何かが当てられた感触があったかと思うとそれは吸い付いてきた。生き物の体温ではない。鉄か何かを当てられたようだったが自分では見えない位置だ。そのまま担架を転がされる。部屋から出ると廊下が延々と続いており、不思議な事に透明な廊下だった。まるで氷の彫刻の内部にいるかのようだ。いくつもの通路が交差しているのが分かる。ここはどこなのだ、と今さらに浮かんだ考えに大人の一人が、「RC1の脈拍、心拍、脳波共に正常」と述べて担架を止める。すると、顔を覗き込んできた人影にぎょっとする。水色の髪を結ったその顔立ちは、イブキその人だったからだ。
「イブキさん……」
「声は出せるみたいね」
イブキは淡白に応じて何かのカルテにペンを走らせている。
「私の声が分かる?」
「分かるも何も……」
起き上がろうとするが両手両足の拘束が邪魔をする。イブキは鏡を持ち出し、「これに映っているのは?」と質問した。自分としては全く理解が出来ないが答えるしかないのだろう。
「僕、です」
「名前は言える?」
馬鹿にしているのか。それとも担いでいるのかと感じたがこれも答えるほかないのだろう。
「えっと、オーキド・ユキナリですけれど」
「自己認識は正常。記憶の継続性も見られる」
イブキはカルテに書き付けて、「司令室へと運びます」と大人達に命令した。大人達は再び担架を走らせる。ユキナリはイブキに質問をしようとしたがイブキの纏う空気がそれを許さなかった。何か、責め立てるような視線を感じ取る。大人達からは畏怖の眼差しだ。自分にとって居心地の悪い感触がいつまでも続くかに思われたが扉が開き、それは中断させられた。
広い部屋に出たのだと分かった。天井は高く、何段階かの空間に区分けされている。一番下の層に自分は連れてこられたのだと感じ取る。
「司令室へ。RC1、仮称オーキド・ユキナリを連れて来たわ」
仮称、とは何だ。自分はユキナリという名前で、そのものではないのか。イブキに質問する前に、「ご苦労」と声がかかった。その声に聞き覚えがある、と感じていると、「拘束、解いてええよ、姐さん」と上層から指示が届いた。
「ええ、そうするわ」
イブキが顎でしゃくると大人達がユキナリの拘束を解いた。しかし、それでも監視されているかのような感覚が付き纏う。担架ごと引き起こされ、ようやく床を踏み締めると驚くほど冷たかった。ぎょっとして視線を落とす。氷が幾層にも渡って形成されている。
「何だこれ……。氷の床だ」
「せやな。突然の事で分からんかもしれんけれど」
応じた声にユキナリは振り仰ぐ。上層には端末を抱えてこちらへと目線を配るマサキの姿があった。
「マサキさん……」
「動作確認、よし」
マサキはユキナリの声には返さずエンターキーを押す。するとこめかみに当てられている何かがきゅっと締め付けられた。どうやら両側につけられているらしい。ユキナリはそれを手で押さえる。突起物で掌ほどもない小型だったが何かの道具だと思われた。
「何です、これ? 外してくださいよ」
無理やり引き剥がそうとするが吸着して離れない。背後のイブキが、「……外せるわけがないでしょう」と呟く。どういう意味なのか、ユキナリが問い質そうとすると、「動作確認終了。後の権限を全て艦長に移す」とマサキが口にする。
「そうか」
その声にユキナリは歩み出てきた人物を目にする。先ほど「ご苦労」と言った人物の声音と記憶の声が合致し、ユキナリにその人物の名前を口にさせた。
「……ゲンジさん」
ゲンジはキャプテン帽を傾け、「RC1、オーキド・ユキナリ、だな」と歯切れ悪く確認する。ユキナリには前半部分は全く理解の範疇を超えていたが、後半に関しては頷けた。
「結構。マサキ。特異点オーキド・ユキナリとは?」
「遺伝子情報では特異点オーキド・ユキナリを九十パーセント以上で模倣してるな。ここまでになるとほぼ完全な再現だと言わざるを得ないやろ」
「では対象RC1を現時刻よりオーキド・ユキナリと呼称する」
ゲンジがどうしてマサキ達と行動を共にしているのか。ある推論がユキナリの脳裏に浮かんだ。
まさか、ここはロケット団なのではないか。ゲンジもロケット団ではあるし、イブキもロケット団に所属していた。それならば自分を正体不明の名前で呼ぶのも頷ける。
「あの……」とユキナリが声を出そうとした瞬間、警告音が鳴り響き司令室と呼ばれた空間を満たした。
「高熱源体、探知! ポリゴンシリーズです!」
司令室に木霊する声にユキナリは戸惑う。しかしユキナリ以外は冷静に、「ポリゴンシリーズ、早いな」とそれぞれ声を漏らす。
「既にロケット団の手が伸びているわけか」
その言葉に疑問符を浮かべた。ここがロケット団ではないのか。ゲンジが声を張り上げる。
「航空母艦ヘキサはこれより第一種戦闘配置」
その言葉に司令室がざわめく。
「第一種、って、航空母艦を動かすつもりですか?」
「それ以外にポリゴンシリーズから逃れる術はない」
断じたゲンジの声は冷たい。それ以外に手段がないとでも言うかのように。ユキナリは転がっていく状況を見ていられずに進言していた。
「あの、何が襲ってくるのか分からないですけれど、僕とオノノクスを出させてください。そうすれば、勝てます」
ユキナリの言葉に矢のような視線が飛んできた。司令室にいる全員が沈黙し、ユキナリを睨んでくる。この敵意は何だ、とユキナリが怖気づいていると、「これは決定事項だ」とゲンジが告げる。
「航空母艦ヘキサを飛ばす。キュレムとヤナギにも通信を繋いでくれ」
「ヤナギ……?」
この場で出るとは思えない意外な名前にユキナリは戸惑う。どうしてヤナギがロケット団と思しき連中と行動を共にしているのか。マサキが、「通信、繋ぐで」と率先する。
「ヤナギ、こちら司令室だ。飛ばせるか?」
『俺もキュレムも調整中だ。飛ばせるには飛ばせるが、一部循環路に問題が発生している。生憎、そちらに手が回せない。循環路を無理やりにでもこじ開けて欲しい』
それは間違いようもなくヤナギの声だった。ゲンジは首肯しポケギアで通話する。
「ナツキ。循環路の一部に問題が発生している。メガハッサムで切り拓いてもらえるか?」
『ええ。分かったわ』
返ってきた声、それにゲンジが口にした名前にユキナリは瞠目する。
「ナツキ……」
自分のせいで戦線を離脱した仲間の名前を何故ゲンジが言うのだ。ユキナリが呆然と突っ立っていると、「チアキさんに任せたほうがいいのでは?」と司令室の一人が声を発した。ユキナリはその人物を目にしてまたも驚愕する。黄色いファーコートを身に纏ったその姿はヤナギと行動を共にしていたカミツレとか言う女性だった。何故、ここに? ユキナリの疑問を他所に、「チアキでは融かしかねない」とゲンジが答える。
「それにメガハッサムとて鋼タイプ。精密な動作にはあれくらいがちょうどいい」
交わされる会話と了承にユキナリは何が起こっているのかを判ずるだけの頭がなかった。ただ、自分の言葉が無視されている事だけは分かる。
「ゲンジさん!」
ユキナリが声を張り上げるとゲンジは僅かに視線を向けて、「何か」と返した。何でもない事のように。ユキナリは戸惑いと怒りで声を荒らげる。
「ゲンジさんがポケモンを出せばいいじゃないですか! 何でナツキなんです? ナツキは、毒を受けていて、もう戦える状態じゃありません。そんな人間を駆り出さなくっても、僕が」
ユキナリが歩み出る。その動作に嫌悪の眼差しが飛んできた。
「僕が戦います! オノノクスと出させてください!」
ユキナリの声に沈黙が流れたのも束の間、「ポリゴンシリーズ、距離、なおも接近!」と声が響く。
「急がせろ。循環路のこじ開けくらい、出来るな?」
改めてナツキへと命令が下される。ユキナリが制するよりも先に、『もう循環路まで来ているけれど』とナツキの声が聞こえてくる。
『あまり高威力の技を出すとバランスが崩れかねない。そっちで循環路に熱を通すタイミングをポケギアに送って。そのタイミングでバレットパンチを打ち込む』
「了解した。マサキ」
「ガッテンや」
マサキが片手を挙げ、端末に何やら打ち込む。他の人々の声が続け様に弾けた。
「ポリゴンシリーズの一体から高エネルギー反応!」
「破壊光線、来ます!」
その言葉の直後、氷の司令室を激震が襲った。ユキナリが思わずつんのめる。それを辛うじて制したのはイブキだった。礼を言おうとする前にイブキの睨む視線にたじろいでしまう。今、自分がこの場にいる事そのものが間違いだとでも言うかのような視線だった。
「損害状況報告」
ゲンジは落ち着き払って口にする。「左翼部に被弾!」と被害状況が報告される。
「飛ぶのに支障は?」
「ありません。今のところ氷の装甲板は健在。キュレムによるフィールドの形成も手伝って被弾箇所にはさほど問題はありません」
「よし。マサキ、循環路の形成にはあと何秒かかる?」
「あと二十秒後にナツキがメガハッサムで開く。そのタイミングと同期してキュレムに飛ばすように指示」
マサキの滑らかな言葉にゲンジは、「ならば」と頷いた。
「航行シークエンスへ移行。オノノクスの保護を最優先」
「オノノクス……」
意外な形で自分の手持ちの名前が出てユキナリは狼狽する。一体何が起こっているのか。ユキナリが判ずる前にイブキが手を引いた。
「オーキド・ユキナリ。司令室は間もなく戦闘状態に入る。ここにいては危険よ」
イブキの手をユキナリは振り払い、「何なんだよ!」と喚いた。
「みんな、どうしちゃったんだ? 何で僕に何も教えてくれないのさ! オノノクスがいるんでしょう? だったら、僕がそのポリゴンシリーズとかを倒します!」
ユキナリの宣言にもゲンジは冷ややかだった。
「駄目だ」
「どうしてですか? 僕は、じゃあどうすれば?」
イブキがユキナリの肩を掴む。ゲンジは冷酷な眼差しをユキナリへと注ぎ、言い放った。
「オーキド・ユキナリ。お前はもう、何もするな」
その言葉に衝撃を受ける間にイブキが手を引く。ユキナリは司令室から外に出された。