第百五十話「未来を信ずる」
「息子が何をしようとしているのか分からない……」とカンザキは全てを聞き終えてから呟いた。
ヘキサツールに関わる戦い、このポケモンリーグの大元を問い質したところで一人の人間の理解の範疇を超えていた。別次元からもたらされた歴史の通りに進ませようとしているネメシスという組織。全ては破滅を回避するため、と言われても全く分からなかった。ロケット団は破滅回避という目的だけは同じでありながらも特異点と呼ばれる存在を擁立しており、それがサカキとユキナリなのだという。ヤナギはユキナリに対して敵意を剥き出しにしており、それが破滅へと繋がったのではないか、という推論にカンザキの脳の容量はパンク寸前だった。
「まぁ、無理もないわよね」
そう口にしたのはイブキだ。優勝候補、とだけ思っていたが最早ポケモンリーグ優勝などという範疇ではこの戦いは語れない。即刻、中断すべきだ、とカンザキは感じたがそれをさせないためのこの場所なのだろう。ヤグルマも自分を駒としてしか感じていなかった。だから不必要になって殺そうとした。自分ははからずもネメシスによって命を救われた結果になる。しかし、だからと言って素直に感謝出来るかと言えばそうではない。ネメシスの語った真実にカンザキは戸惑うばかりだ。
「ヘキサツールなんていうわけの分からないもののために、たくさんの人々が夢を掴もうとこの地にやってきたんだぞ。その正体が、こんな事だったなんて」
こんな事、という言葉で集約するにはあまりに重たい。分かっていても歴史の強制力に任せようとするネメシスと人類の手で破滅を回避しようとするヘキサとロケット団に関してはまるで別世界の話だった。ましてやそのヘキサの頭目が自分の息子であるなど容易に信じられるほうがどうかしている。
「何かの、罠ではないのか……」
思い至ったその考えに、「すまんけれどおっさん。罠なんかやあらへんで」とマサキが応じた。マサキは先ほどから端末をいじっており、説明はもっぱら仮面の秘書官――キクノというらしい――とイブキ、それにカラシナによって行われていた。
「信じられないのも無理はないですけれど、あたし達はヤナギ君の状況も含めて真実を話したつもりです」
カラシナの言葉に、「だからと言って」とカンザキは苦渋を漏らす。自分の息子がテロリスト紛いの集団でリーダーを務めているなど、誰が信じられるものか。
「おっさん、いや、カンザキ執行官。現実から逃げてもしゃあない。ここは受け入れるのが賢い大人やと思うけれど」
「うるさい! 親の気も知らないで!」
カンザキは思わず出た言葉にハッとする。彼らの眼を見やると混乱した大人という一語に集約された視線が矢のように突き刺さった。今、状況にかき乱されているのは間違いなく自分一人だ。他の者達は既に自分の行うべき事を心得たような眼差しをしている。
「受け容れられないのも、無理はないです」
キクノの声にイブキは、「でもさ、先生」と返す。どうやら先生とも呼ばれているらしい。
「私達はありのままを話した。もうこれ以上、嘘をつき通すことも出来ないし、執行官にだけ都合のいい事実なんてもうないのよ」
自分にだけ都合のいい事実か、とカンザキは自嘲する。この集団は最早、個体の枠組みを超えた、歴史という大きなものを背負った人々だ。自分のような凡人では窺い知る事など出来ない。
「ヘキサツールに刻まれた歴史は鉄の掟。何があっても守り抜かねばならない。私達はそのために存在し、これまで沈黙を守り続けた。歴史、というものはそれほどまでに重要視されねばならない。それが未来も過去も見通すものならばなおさら」
そのためならば犠牲など瑣末なものだと決めつけてかかっている声だった。仮面の人々を統率するキクノの声はどこまでも冷たい。
「だが、そのために息子が……、ヤナギが……」
犠牲になる。少なくとも政府はヤナギの属するヘキサという組織を敵と見なした。もう誰も匿ってはくれないし、庇う事など出来ない。何故ならば、ヤナギ自身が声明を出したからだ。たとえ民衆には正しく伝えられなくともヘキサという組織を破壊するだけの力がネメシスという組織にはある。
「カンザキ・ヤナギだけで済むのなら安いものです」
本来ならば四十年後に発動するはずだった破滅。それが早められ、つい昨日起ころうとしていた。それに比べればヤナギ一人を殺す事など蚊ほどにも感じていないのだろう。カンザキは拳を握り締める。
「だが……、だが私の、たった一人の息子だ」
嗚咽の混じったその言葉にキクノは、「では人類が終焉を迎えてもいいと言うのですか?」と尋ねた。その天秤はあまりにも酷である。自分一人に決められるはずもない。覚えず顔を背けるとキクノはため息をついた。
「ヤナギ抹殺のために動きます」
その言葉に、「待って」と声を出したのはカラシナだ。
「お願い、待って……。ヤナギ君にも考えがあるはず」
「猶予はありません。特異点をどうするつもりなのか見えませんが悪用されれば世界は滅ぶ。それは四十年後ならば何の問題もありません。ですが、今は駄目なのです。今、滅びが少しでも起こる事はあってはならない。ヘキサツールは絶対なのですから」
「ヘキサツールが絶対って……。じゃあ、そのために死んだ人達は? その犠牲は仕方がないで済ますって言うの?」
カラシナの言葉にキクノは沈黙を貫いている。それが答えだった。「何て、非道な……」とカラシナが吐き捨てる。
「非道だろうがこの世の真理なのです。ヘキサツールを守り抜く事。それがこの次元で我々に与えられた神託」
「でもそれが! このような悲劇を招いている。愛する事が最も残酷な悲劇を……」
カラシナの頬を涙が伝う。キクノは仮面を被ったまま、頭を振った。イブキも言葉をなくしている。胸中では彼女も同じ気持ちなのかもしれない。だが、何も言い返せない思いのほうが強いのだろう。
「姐さんに先生。ヘキサツールを守る事。それが何よりも優先される事やと思っているのか? 本気で」
その沈黙に風穴を開けたのはマサキの一言だった。その言葉にキクノもイブキも顔を上げる。マサキは、「ワイはな」と口を開いた。
「そこまで高尚なもんが宿っているとは到底思えんのや。何度も話を統合したし、ロケット団のやり口も、ヘキサのやり口も知ったつもりやけれど、それでも納得出来ん部分ってのがある。ネメシスのやり方が正義だともワイは思わん」
マサキは味方をしてくれているのか、と思ったが恐らくは違う。彼なりの答えを出しているだけなのだ。彼が、あらゆる逆境の末に言葉を次いでいる。
「何が言いたいのです?」
「ヤナギに全ての責任をおっ被せてはい終了、じゃ、もうないって言うとるねん」
マサキはノート端末に向き合ったまま答える。キクノから静かな殺気が放たれた。この場で一つでも言葉が間違えばマサキを抹殺してしまいかねない様相だった。それを制するようにイブキが遮る。イブキはマサキの肩を持っているようだ。
「なら、王の崩御も、これまでの歴史上の人々の死も、全てあなたは否定すると?」
「そうは言っとらへんよ。でも、ヘキサツール一つで何千、何万と死んでいくこの現実が果たして正しいのかって話や」
「それが今までのネメシスを否定しているのだと、あなたは気づいているはずですよ。聡明ですからね、ソネザキ・マサキ」
キクノが一歩踏み込む。戦闘の気配が発せられようとした、その時であった。
「――何だ? ボクが来る前にもう一触即発じゃないか」
その声に全員が顔を上げる。視線の先に青い光を身に纏った灰色の人型があった。それが何なのか、全員が理解出来ていない。否、ただ一人、マサキだけはそれを知っている様子だった。
「来たな。それがミュウツーか。フジ博士」
全員が瞠目する中、一人だけ冷静なマサキへと人型に次いで空間を裂いて現れた人物が感嘆の息を漏らす。
「やっぱり、君は知っていたか。ソネザキ・マサキ」
「ずうっとロケット団にハッキングしていたらな。お前らの事は結構、話題に上がってくるで。特A級の離反者やってな」
「離反者とは」
フジと呼ばれた青年が手を振り翳す。その一動作に呼応して灰色の鎧を身に纏った人型が手を薙いだ。青い思念の光が突風のように吹き荒び、石英を砕いていく。子供達が悲鳴を上げてキクノの下へと駆けていった。
「レプリカントか」
どうやらフジはレプリカントの事も知っている様子だった。キクノが懐からモンスターボールを取り出す。
「お止めなさい。この場所は聖なる領域。何人たりとも土足で踏み込む事は許されません」
「ボクの見立てじゃ全員土足っぽいけれど」
フジは面白がってキクノを窺う。イブキとカラシナも戦闘姿勢を取った。その中のイブキをフジは指差す。
「面白いから出してみなよ。持っているんだろ? フリーザー」
その言葉にイブキが硬直した。マサキが立ち上がり、「姐さん、出したらあかんで」と制する。
「ミュウツー。培養液内部と同じ細胞活性化装置――通称、強化外骨格を纏っていなければ三十秒と持たない人工のポケモン。ロケット団が造り出した禁忌の生命体。ミュウの睫の化石から造ったっていう話やけれどほんまか?」
マサキの声は単純に知的好奇心を満たそうとする響きだった。フジは、「本当だよ」と応じる。まさか、あれが人造のポケモンだというのか。カンザキはミュウツーと呼ばれたポケモンを見やる。人型で灰色の鎧の合間から薄気味悪いほどに白い表皮が覗いている。
「正確にはミュウジュニア計画をボクが勝手に改変したものなのだが、それは触れていないのかな?」
「いや、記録にはあるよ。ただ、お前がほんまにフジ博士なんか、ちょっと疑問やっただけで」
マサキの疑問はフジと呼ばれた青年があまりに若いからだろう、とカンザキは感じ取った。青年、と言っても十代でも通用する若々しさだ。
「まさか、自分も改造しているとかやあらへんよな?」
マサキがニタニタと笑いながら尋ねる。だとすればおぞましい話だったがフジはそれを否定する。
「残念ながらそこまで狂ってはいない。研究者ってのは太陽の光とは無縁でね。お陰で若々しい外見になっているだけさ」
「狂ってへん、ってのは自分で言うと嘘くさいなぁ」
「君ほどじゃないさ。こうしていながら、今も君はデータ収集をしているのだろう? ボクも君も、同じくらいの変人だよ」
フジは語りながらゆっくりと降下してくる。青い光がその身体から失せ、ようやく人としての輪郭を帯びたように映った。
「ワイもな、やりたくてやっとるわけやないねん。お前らがおもろいデータばっかり送ってくるから、躍起になっているだけで」
「送ってくる? 奪っているの間違いじゃなくって?」
お互いの語り口調には嘲りも、軽蔑もない。ただ事実だけを淡々と述べる奇妙な二人がカンザキの視界にはあった。
「ここに来た目的は分かっとる。フリーザーの捕獲」
切り込んだマサキの声に、「さすが」とフジは拍手を送った。この空気の中ではあまりにも白々しいものだったが。
「何で三体の鳥ポケモンを集めとる? ミュウツーがあればええやろ。それとも別の目的か? たとえば、破滅を回避するための」
マサキの言葉にフジは指を鳴らす。
「賢い人間は嫌いじゃない。でも、破滅を回避するためにみんながみんな、動いているわけじゃない事も君ならば分かるだろう?」
「ああ、破滅を喜んで受け容れる頭のネジの飛んだ奴がいるって事をな」
「お互いに、ネジの飛んだ相手と行き会ったようだね」
フジとマサキの間に降り立った無言の了承にカンザキは息を詰まらせる。この二人は何を話している?
「さて、本題に移ろう」
フジがカンザキへと視線を振り向ける。まさか、自分が、と身構えたカンザキに、「あなたじゃないよ」とフジはせせら笑う。
「最早、一単位に過ぎない執行官の肩書きは必要ない。この場でご退場願ってもいいくらいなのだが、殺すのも惜しい。もしかしたら、何かしらの行動を起こす時に必要になる駒かもしれない。ソネザキ・マサキ。チェスは好むかい?」
「ワイは生まれてこの方、将棋しかやらんな」
「基本ルールは同じだが、チェスは取った駒を復活させる事が出来ないんだ。だから、一手は慎重にならざるを得ない。敵を取り込んで味方に、ってのも無理。だから、切り捨てた駒は早々に諦めるしかない」
「オーキド・ユキナリを、お前らは切り捨てたんか?」
マサキの声にフジは微笑む。
「その逆さ。今回ばかりは将棋のルールを採用させてもらったよ」
フジの手にはテンキーがあった。何のつもりで、とカンザキが窺っているとフジはテンキーを掲げる。
「これ、何だか分かる?」
「遠隔で繋がっとる端末やな。三体のポケモンを逃がすための」
三体のポケモン。カンザキは真っ先にフリーザーを含む三体だと思ったがまだ捕まえていないポケモンを逃がすとはどういう事なのだろう。フジは、「そこまで分かられていると、不気味ささえ感じる」と口角を吊り上げる。その笑みのほうが不気味だった。
「アグノム、ユクシー、エムリット。君達はせいぜい追うといい。揃っても揃わなくっても、我々の優位は変わらない」
フジがエンターを押し込む。まさか自爆か、と一人だけ身構えたカンザキにフジは笑った。
「自爆ボタンかと思った? 残念、そんな一昔前のコメディアンじゃないよ」
「今ので逃がしよったな……」
マサキが苦渋を滲ませる。何が起こったのかカンザキにはまるで分からない。
「ノート端末でどこにハッキングしているのかな。そういう危ないのは壊させてもらおうか」
ミュウツーが片腕を持ち上げる。その一動作でマサキの手元の端末から火が立ち上った。舌打ちと共にマサキが端末を捨てる。
「マサキ!」
イブキの声にマサキは、「ワイは大丈夫」と返す。
「それよりも姐さん! 絶対、こいつの前でフリーザー出したらあかんで。こいつの目的は三体の鳥ポケモンの奪取なんやからな!」
「どういう事……」
「説明は後や、後! 今はハクリューで応戦して欲しい。それとキクノ先生とカラシナはんは援護してくれ、頼む!」
マサキの急いた声にカラシナは気後れ気味に応じる。イブキがホルスターからモンスターボールを引き抜こうとするとフジはため息をついた。
「相手が出さないからって手待ちってのは趣味じゃないんだ。ミュウツー。イブキが持っているフリーザーのボールを引っ張り出せ」
ミュウツーが手を振り下ろすとイブキの懐にあったモンスターボールが不意に飛び出した。イブキは完全に虚をつかれた様子で狼狽している。
「スペックXで捕まえるとは、念の入りようじゃないか。困ったね。出してくれないとスナッチするのにも時間がかかるんだが」
(解除時間を考慮するまでもない。このままスナッチしよう)
ミュウツーの肩の装甲版が開閉し、内部から飛び出したのは黒いモンスターボールだった。それがフリーザーの入ったボールを包囲し、一斉に飛びかかる。獣のような挙動でモンスターボールごと赤い粒子となって吸い込まれた。
その一連の行動にマサキを除く全員が目を見開いていた。
「モンスターボールごと……」
「呑んだ……」
黒いモンスターボールは肩装甲へと収納されていく。フジは確信を込めて言い放つ。
「これで、伝説は全て揃った」
「させない! ハクリュー!」
モンスターボールから飛び出したハクリューに青白い光が棚引き、全力で飛びかかる。渾身の突進攻撃はミュウツーに命中する寸前で止められた。ミュウツーから放たれた思念の光がハクリューの動きを絡め取る。
「ドラゴンダイブを、止めた……?」
イブキが目を戦慄かせる。フジは、「ハクリューに輝石を持たせているんだ?」と分析する。
「その威力からのドラゴンダイブ。なるほど、通常のポケモンならば沈んでいるね」
暗にミュウツーが普通のポケモンではないと告げているようだった。ミュウツーが手首をひねるとハクリューの首根っこが締め上げられる。
「ハクリュー!」
「手持ちを心配するのはいい。トレーナーの鑑だ。だが、もう終わっているのだと気づく察しのよさも必要だよ。ボクはフリーザーを捕まえに来たんだ。他に用事はない」
フジが後ずさりする。空間を裂いてこの場から立ち去ろうというのだろう。
「逃がしません」
その声と共に一体のポケモンが躍り上がった。強靭なハサミを持つ灰色のポケモンが皮膜を広げる。それを援護するように砂嵐が拡散し、砂の刃がミュウツーへと迫る。
「グライオンともう一体、カバルドンによる連携攻撃か」
フジは冷静に事の次第を分析しているがその眼前にもう一体、ポケモンが現れた。カラシナの召喚したそのポケモンは美しい鱗に覆われている乳白色の龍だ。
「ミロカロス! 瞬間冷却でミュウツーの外骨格を無効化する!」
総数、四体。それに比してミュウツーはたった一体である。しかし、それでも余裕を感じさせる立ち振る舞いであった。ミュウツーがまず腕を振るい、グライオンと呼ばれたポケモンを封じ込める。その挙動は驚くべきものだった。
ミロカロスの放った凍結攻撃をそのまま偏向させ、グライオンへとぶつけたのである。相殺し合ったグライオンとミロカロスの狼狽を他所に砂の刃がかかろうとする。それももう片方の腕で止めているハクリューの身体を盾にして防いだ。四対一。その圧倒的戦力差にもかかわらずミュウツーは無傷であった。
「弱い」
フジはそう断じる。カンザキは、「馬鹿な……」と呻いていた。優勝候補と謳われる人間が二人も混じっているのだぞ。一撃の重さは誰にも増しているはずだ。それなのに、ミュウツーは特別な事を行うでもなく、たった二本の腕から発する念力だけで制した。
「これが、ミュウツーか……」
マサキの声にフジは、「どうする?」と訊いた。
「ボクを追って戦闘不能になるかい? それとも諦める?」
イブキが歯噛みして踏み出そうとするのをマサキが、「姐さん、あかん」と声で制する。
「マサキ? でも、このまま馬鹿にされて……!」
「馬鹿にしとるとか、そういうレベルやない。次元が違うんや。ポケモンとしての立ち居地が異なっとる。今のままのワイらじゃ、絶対に勝てん」
マサキの言葉にイブキが口惜しそうにフジを睨みつける。フジは肩を竦めた。
「彼我戦力差も分からないのではトレーナーの鑑、という先ほどの言葉は撤回かな。さよならだ。もう会う事もないだろう」
フジは空間の裂け目を作り出してこの場から逃げおおせようとしている。誰も止められなかった。ミュウツーとフジが消えていった亀裂を眺めて全員が己の無力を思い知った。
「どうすれば、よかったって言うの……」
カラシナの声にマサキは、「今のワイらじゃ絶対に勝てん」と繰り返す。その胸倉にイブキが掴みかかった。
「お、落ち着いて」とカンザキが仲裁に入ろうとする。しかしイブキは冷静な声音だった。
「今の、って言ったわよね? つまり、勝てる算段があるって事?」
イブキの言葉にカンザキが目を丸くしているとマサキは、「ああ」と首肯する。
「あいつらはワイらを嘗めている。だからこそ、目の前で三体のポケモンを逃がした」
「三体……」
先ほどフジの言っていたアグノム、ユクシー、エムリット、というポケモンの事か。だが、逃がしたといってもどこに行ったのか分からないのではないのか。
「その三体、当てがあると考えていいのよね?」
イブキの声音にマサキは、「もちろんやで」とサムズアップを寄越す。だが端末は破壊されてしまっている。どうするのか、とカンザキが勘繰っていると、「こんなもん、クラウドにいくらでもバックアップが取れる」とマサキは端末を足で踏み砕いた。
「ワイの情報網、嘗めてもらったら困ります。預かりシステムを作ろうという稀代の研究者、ソネザキ・マサキやぞ。当然、こんなおもちゃやない、本物がある」
どこに、とカンザキはマサキを上から下へと眺めた。マサキは左手を掲げる。その手首にはめられたポケギアにまさか、とカンザキは息を詰まらせた。
「ワイのポケギアは特別製。この端末と同期しとるし、ワイのあらゆる情報網からデータを吸い出すくらいは容易や。あのフジとやらも、さすがにここまで小型化されとるとは思わんかったみたいやな」
マサキはポケギアを操作し何やら情報を閲覧している様子だった。カンザキにはわけが分からない事だらけだったが、この青年に関して言えば自分達の想像の斜め上を行っているのは間違いない。
「かかった」とマサキは口にする。
「アグノム、ユクシー、エムリット……、赤い鎖……」
イブキがマサキのポケギアを覗き込みながら呟く。それらの言葉の連なりが理解されないうちに、「セキチクシティで起こった破滅の現象について、いくつか整理しとく」とマサキは切り上げる。
「その前に、と言うか確認事項やけれど、ワイはネメシスを抜ける」
突然の言葉にキクノとカラシナが、「何を……」と狼狽した。イブキは、「当てがあるわけよね?」と確認する。
「当然、と言いたいところやけれど五分五分やな。今回ばかりは頭下げるしかないかもしれん」
どういう事なのだろう。カンザキの思案を他所にマサキは言葉を並べ立てる。
「先生。世話になったところ悪いが、ワイはヘキサに行くわ」
唐突な物言いにキクノは、「何故です?」と問い質した。
「ネメシスにおっても、このまま錆び付いていくだけ。ワイは行動を起こしたい。破滅を回避するってのには同意やけれど、先生はこのまま何もせんと歴史のままに任せろって考えなんやろ? ワイは、そんな風に落ち着いていられるほど人間出来とらへん」
マサキの思わぬ言葉に面食らっていると、「離反する、というわけですか」とキクノは確認した。それを許さぬ口調である。
「離反とか、そういう次元やないやろ。元々ワイがここに来たんだって真実を知るためや。誰も先生に与するとは言ってないで」
勘違いするな、とでも言いたげな口調にキクノは、「フリーザーの確保も、あなたの計画のうちだったのですね」と淡々と口にする。
「いやいや、違う。そこまでワイは悪い人間やないで。フリーザーがどうなるかはほんまに分からんかった。だからこそ、姐さんが認められたんやろ。まぁ、今やフリーザーは敵の手のうちやけれど」
「敵に主戦力が回ったら鞍替えするというわけですか」
「せこいとか、謗られてもしゃあないし、別にええで、どんだけ悪く言うても。ただな、先生。勝てへんとあかんのだけは分かるやろ?」
勝つ。その言葉にカンザキは、「その目算はついているのかね?」と訊いていた。訊かねばならなかった。自分の息子が率いる組織に入ろうというのならば。カンザキの胸中を察したのか、「ヤナギが勝つかは分からへん」とマサキは首を振った。
「誰が最終的な勝利を手にするのか、ワイにも見当がつかん。ただな、カンザキ執行官。勝とうとする奴が勝つんや。どの世界でも、どんな場所でもそれは変わらん。負けを簡単に認める奴に勝利は訪れへん」
その言葉には異様な説得力があった。カンザキが言葉を飲み込んでいると、「あたしも」とカラシナが歩み出そうとした。
「あたしにも、出来る事があるのなら」
カラシナもネメシスを離れようというのか。カンザキの予感にマサキは、「いや、ワイは姐さんと行く」と告げた。
「カラシナはん。あんたはネメシスにおったほうがええ。……ヤナギ、悲しませたくないんやろ」
その言葉でカラシナは説得されたようだった。言葉を仕舞い、「……そう、ね」と呟く。カラシナとヤナギの間に何があったのかは全く分からなかったが、余人が口を挟める領域ではない事は明白だった。
「ですが、このまま見過ごすわけにもいきません」
キクノが歩み出て手を振り翳す。当然、攻撃が放たれるのだと思ったが、青い光がイブキとマサキを包み込んだだけで攻撃の光ではなかった。
「餞別のつもりか」
マサキの姿が透けていく。「テレポート」だとカンザキでも分かった。しかし、どうして、とキクノを見やる。キクノの表情は仮面に隠れていて相変わらず分からなかったが、その唇がきつく引き結ばれているのは窺えた。
「私に出来るのはこの程度。いえ、この取るに足らない行動でさえ、歴史に支障を来たすかも知れない」
ネメシスの理念としてヘキサツールを破る事だけはあってはならないはずだ。その禁を自ら破ろうとしている。それはキクノにとっては一大決心だと感じられた。
「それでも、私とて信じたい。未来の光を」
本心では破滅を回避したいのだろう。だが、それを口にするのはネメシスの立場から憚られている。だから未来の光、という曖昧な表現で済ましているのだとカンザキには分かった。
「あなた方をセキチクシティへ。きっとカンザキ・ヤナギは導き手になる」
「おおきに、先生。また会いましょ」
マサキが片手を上げる。イブキは、「あんたがこうまでするとは思わなかったわ」と感想を漏らした。
「もっと超然とした立場を貫くのかと思っていた」
「私とて、人の子だったという事です。破滅を実際に目にして、私は恐怖しました。まだ終わりたくない。それだけですよ」
淡白な物言いにイブキは微笑む。キクノらしい、と感じたのか。二人の姿は間もなく見えなくなった。取り残されたカンザキはカラシナとキクノへと視線を配る。
「私は、どうすればいい?」
真実を知った。だからと言ってどこかに与するわけにはいかない。もう、そのような次元で動いていい身分を越えている。
「カンザキ執行官。あなたは第一回ポケモンリーグ責任者としての務めを最後まで果たしてもらいます」
つまり傍観者に徹しろ、という事か。カンザキはそう理解した。息子に肩入れするわけでもなく、ロケット団を取り締まるわけでもなく、かといってネメシスの思い通りに動くわけでもない。あくまで傍観者、観測者としてこのポケモンリーグの行く末を見届けろと。
それは残酷な選択に思われたがカンザキは従う他なかった。
「……ああ。私は、そうしよう。未来を動かすのは、あくまで若者達の役目だ」
カンザキはセキエイ高原中枢から望める空を仰ぐ。黎明の光に石英が透けて輝いた。