第百四十九話「明日へのプライド」
タマムシシティの高層ビル群が視界に入り、シリュウは降下を始めた。
その一つのビルに間借りしている連中と取引の約束があったからだ。ロケット団を見限るタイミングは適切であったと考えている。シルフビルで本来ならば落としていた命。それを拾われた恩はあるが恩義は感じていない。損得勘定で動くシリュウに関して言えば、恩義も、礼節も、全くの無縁であった。自分にあるのはこの技術をどこに売れば誰が得をするのか、損をするのか。
自分は損をする側には決してつかない。だからこそ、シリュウは銘というものを嫌っていた。ガンテツ一門が頑なに守ってきた自身の銘を掘り込む作業。あれは無意味というほかない。あんな事をして結果的に一門が潰れてしまえば何の意味もないだろうに。ブランドを守りたければ、ひっそりと生きるに限る。ガンテツ一門は既に時代遅れの産物だ。これからは売れる側につき、損をする事には絶対に関わらない。自分の学問としてそれはある。
別に幼少自体に貧しかったわけでもない。シリュウは中流の家庭に生まれ、ほとんど全ての学業において優秀な成績を収めてきた。自分には何でも出来る。それが錯覚ではなく本当にそうなのだから挫折とは無縁であった。そんな時だ。彼の故郷に古くから伝わるガンテツ一門の名を聞いた。なんでも一門でガンテツの名を継ぐのは何十人に一人なのだという。これは好機だと感じた。自分の才能を活かし、なおかつ食うのには困らない。ボール職人という職業には興味がないが、これから先にその事業が席巻していく事だけは理解していた。シリュウは誰よりも時代の流れには敏感であった。どこにつけば自分の才能を活かせるのか。誰が成功し、誰が失敗するのかが手に取るように分かった。
ガンテツ一門で生き残り、襲名するのは難しくなかった。ノウハウを教わったシリュウはその技術を売った。何の迷いもなかった。これから先、古めかしいボール作りの方策は無効だ。量産態勢を整え、巨大な事業として立ち行かせるには大企業にその技術を売る事だ。当然、破門はされたがシリュウにとっては痛くも痒くもない。自分には誰よりもうまくボールを作れる自信があったし、ポケモントレーナーとしての才覚もある。いざとなれば裏組織で食っていく事も視野に入れていた。結果的に裏と表を行き来する事になったが、それも今日までだ。シリュウはビルの屋上へと降下準備を始める。このビルで交わされる密談の後、自分の地位は確固たるものとなる。デボンの重役の椅子を今度は狙ってみるとしよう。その業績を活かして令嬢と結婚も悪くない。シリュウの中で野望が渦巻き、口元に笑みを深く刻んだ。その時であった。
青い光が不意に自分へと纏わりついた。狼狽する前に屋上に立っている人影に気がつく。
「誰だ……」
「ヤドラン! サイコキネシス!」
その言葉に青い光が首を締め付けようとする。シリュウは咄嗟に首下へと手をやり窒息を防ぎつつクロバットに指示を飛ばした。
「クロバット! 相手の首を落とせ、エアスラッシュ!」
クロバットが翼に空気を纏いつかせ、刃の旋風として放った。その一撃が屋上に立つ影のすぐ脇を掠める。だが、人影は迷わなかった。砕け散った屋上の砂礫をサイコキネシスで拾い上げ、シリュウを指差す。
「隙だらけやで。サイコキネシスで石粒の弾丸を撃ち込む!」
青い光で浮き上がった石が一斉にシリュウへと襲いかかった。シリュウはクロバットの翼の位相を変え降下速度を速める。ほとんど転がるようにして屋上へと降り立った。先ほどまでいた空間を石の弾丸が貫く。それを肩越しに見ながらシリュウは口元を緩める。
「どうして、貴様のような人間がここにいる?」
人影が、「悪いな」と袴についた汚れを払う。青い袴姿の少年には見覚えがあった。
「お前を追うって決めたもんでな。ヤマブキかタマムシ近郊に現れると踏んで張っていたのが正解やったな」
「十代目ェ……!」
シリュウの視線の先には十代目ガンテツの名を持つ因縁の少年が屹立していた。ガンテツは、「因縁は、ここまでにしようや、八代目」と返す。
「俺はお前を待っていたんやからな」
「どうしてだ? どうして私がここに来る事が分かった?」
それだけが解せない。ガンテツが自分の動きを探知する事など出来ないはずだからだ。ガンテツは、「俺は機械にとんと疎い」とポケギアを示す。
「だから、突然電話がかかってきてもそういうもんやと思って取ってしまう。相手先は名乗らんかったが、俺にはお前の目的と行き先さえ分かれば充分やったからな。乗ってやったんや。あしながおじさん、と名乗った相手にな」
「あしながおじさん、だと……」
その言葉に真っ先に思い至ったのはカツラだ。シリュウは歯噛みする。
「……あの腐れ研究者が。私を売ったのか」
「これまで数多の企業と人間を裏切ってきたお前が、裏切られて俺の前に立つとは皮肉やな」
ガンテツの声にシリュウは、「黙れ!」とクロバットに命ずる。
「ヤドランに進化したようだがまだ甘いわ! 私を殺したくば空中にいる間にやるべきだったな。真正面から愚直に戦うなど!」
クロバットがガンテツの首筋を目指して翼の刃を突き立てる。しかし、その動きは驚くほど遅かった。シリュウはその段になってハッとする。自分の足元に包囲陣が刻まれていた。
「レベルの上がったトリックルーム。包括する範囲が格段に上がっている。屋上に降りた時点で、お前の敗北は決定的やった。トリックルームが張られている事に、まさか、気づかんかったか?」
迂闊であった。屋上に来るのが予め分かっているのならば罠を張る事など容易であったはず。その可能性に思い至らなかった自分は最初から負けていた。
「く、くそっ! クロバット! まさか、動けないって言うんじゃあるまいな?」
クロバットの動きは限りなく遅い。ヤドランとガンテツはクロバットの風の刃を余裕じみた動きでかわした。
「皮肉やな。お前は何も信じてこなかったゆえに、誰にも頼れん。この状況で助け出す人間もおらん。俺がけりをつける」
ガンテツがすっと腕を掲げる。するとサイコキネシスの光の腕がシリュウの首を絞めた。
「や、やめろ。殺人だぞ? 私なんかを殺して、ガンテツの名に傷がつくと思わないのか? お前らが守りたいのはガンテツ一門の純潔のはず」
「俺らが守りたかったのは、そんなもんやない」
ガンテツが腕を払う。その瞬間、シリュウの首の骨が折られた。
「俺達の守りたかったんは、誇り≠竅Bそれを安売りして、切り売りしたのはお前自身。それが分からなかったお前には、もう何も残らんやろうな」
その言葉を残響する鼓膜に聞きながら、シリュウは闇の中へと落ちていった。
シリュウの横たわる死体を見つめながらガンテツは息を吸い込んだ。
悪人とはいえ人を殺した。自分にはそれ相応の咎が待っていることだろう。だが一門の誇りは守れた。誇りのためならば殺人の罪くらいは被ろう。これ以上、ガンテツ一門が穢れていく事態は免れたのだ。
「あしながおじさん、にはもう連絡つかんか」
ポケギアの通話状態が既に非通知になっている事に気づき、ガンテツは空を仰ぐ。この状況で頼れる人間がいないのは自分も同じだ。ふとユキナリの姿が脳裏に浮かんだがガンテツは首を振った。
「いかんな。オーキドに今度会うときには、もっと誇れる自分になっとらへんと」
少なくとも今の自分ではない。ガンテツは階下へと降りていった。途中、デボンの取引先と出会ったが軽く会釈して去っていく。ガンテツとして、もうやるべき事は果たした。
「いつか、誇れるようになるか分からんけれど、俺もいつかオーキドのように」
その言葉を胸にガンテツは歩き出す。その先にあるものを誰も知らない。