第百四十八話「強欲」
並んだデータベース上の数値を眺めてほうと嘆息をついた。
「ポリゴンシリーズはここまで出来上がっていたのか。ボクでも予想外の数値だ」
フジの呑気な言葉にカツラはコーヒーカップを持ち上げながら、「お前がミュウツーにかかりきりだったからな」と告げる。
「俺は俺で調整させてもらったよ。元々戦闘向きじゃないんだが、アップグレードとバージョンアップのパッチを組み合わせた結果、異次元空間でも作業可能なポケモンと化した」
大番狂わせだ、とカツラは笑う。フジは羅列されるデータの数値を目にして、「特に変動がなければ」と口を開いた。
「このまま実戦投入しよう。こちらには面白いカードも揃った事だし」
フジの目にはワイプモニターで映されたキクコの姿があった。キクコはカプセルの中で眠りについている。データを計測するためにカプセルに入れたのだが表示される情報はフジの予想の斜め上をいくものばかりだった。
「特異点としての覚醒を促した結果か。元々備え持ったものか分からないけれど、このキクコはポケモンの遺伝子情報が多いね」
表示されるのはポケモンとの遺伝子情報の差だ。そこには九割同一と表示されている。つまり映っているキクコはほとんどポケモンなのであるが、一割だけ違う、人間の部分が今の彼女の姿を形成しているという事なのである。
「どうしてイレギュラーな一割程度で彼女が生成されたのか。興味は尽きないね」
「お前の事だ。既に仮説は立てているんだろう?」
カツラの言葉に、「まぁね」とフジは返す。椅子に膝を立て、「仮説に過ぎないが」と前置きする。
「彼女はオーキド・ユキナリ君がそう望んだから産まれた存在、と思っている」
「理想、か?」
「ちょっと違うかな」とフジは首を横に振る。
「あれはね、理想なんて言う生易しいものじゃない。ある意味では生命の創造だよ。しかもポケモンが九割、人間の要素が一割にも関わらずキクコの姿を取った、新生命体だ。オーキド・ユキナリ君は覚醒した時にボクらが思っているよりももっと壮絶な何かを具現化した。滅び、もそうだけれど彼が生み出したのは何も無益なものだけじゃないんだ。全てを無に帰す、という行為は、無、という状態を生み出す事だからね。つまり、何故、何もないではなく何かがあるのか。あれは、無、の象徴と考えてもいい」
「なるほどな」とカツラはコーヒーメーカーからカップへとコーヒーを注ぎフジに手渡す。フジは苦み走ったコーヒーを口に運びながら、「カツラも見てみなよ」と呼びつけた。
「数値上だけでも面白い。一時間は暇を潰せる」
「だがお前に暇なんてないのだろう」
心得たようなカツラの声に、「首尾は上々さ」と答える。
「新型ボールで捕まえたサンダーもきちんと制御下にある。君のファイヤーはそれこそどうした?」
「苦労して捕まえた個体だ。大事に保管してあるよ」
「もしもの時に使えないんじゃ世話はない。金庫よりもホルスターに留めておくほうがボクは賢いと思うけれどね」
「考えておこう」
カツラはその実、フジの言葉を待っていただろう。ファイヤーをいつでも使える権限が欲しいのだ。だからと言って謀反を企てているような怖いもの知らずの輩でもない。ミュウツーがいればファイヤー程度すぐに制する事が出来る。
「ミュウツーの状態は?」
カツラは機器を操作し、「肉体組織の九割が回復。だが」と顔を翳らせる。
「何かあるって顔だな」
「実のところ、どうしても治らない箇所もある。細胞が焼かれているんだ。それも氷と炎による連鎖攻撃の痕跡がある。一体、どんな怪物と一戦交えてきた?」
フジはヤナギの攻撃を思い出す。「コールドフレア」だったか。あの一撃、思っていたよりも効いたようだ。強化外骨格はミュウツーの脆弱で不安定な細胞を守る意味もあったのだが、それを貫通してくる攻撃と早々に出会うとは。
「とんでもない怪物さ。ミュウツー以上かも」
フジの発言にカツラは微笑んだ。
「悪魔を育てておいて怪物を恐れるとは。神をも恐れぬフジ博士らしからぬ発言だな」
フジも微笑み、「悪魔だなんて」と返す。
「ミュウツーは精緻な芸術だよ。完全なる美を悪魔だと形容するのならば、それも当てはまるけれどね」
「実際、神も悪魔も紙一重だと俺は思うがね」
カツラはウィンドウを切り替えて別の場所を映し出す。
「アグノム、ユクシー、エムリット。本気か? 逃がすというのは」
「ああ。今実行してもいい」
フジの手元にエンターキーがある。これを押すだけで三体が自由の身になる。ただしポリゴンシリーズを引き連れた状態だが。
「俺には勿体無いとしか言えないね。赤い鎖の再形成も可能だろう? あれほどの武器はそうそうないぞ」
「カツラ、その考えにボクが至らないと思っているのかい?」
フジは機器を操作し、カツラの近場の液晶にそれを映し出す。三本の灰色の鎖が培養液の中で浮いていた。
「赤い鎖のレプリカだ。バックアップを取るのは研究者の心得でも初歩の初歩だよ」
カツラは一本取られたとばかりに口元に笑みを刻む。
「だが、状態を見るにあれは不完全だな。オーキド・ユキナリを封印した時のような効果は見込めそうにないが」
「まぁ、オーキド・ユキナリ君を封印したのが半永久的ならば、これは数時間ってところだろう。それでも充分さ。相手の防御を貫通し、無条件に無力化させる道具なんてないからね」
対キュレム戦に使えるか、と思案する。だが、キュレムにはミュウツーで一矢報いたいものだ。自分の中の研究者の部分ではない。トレーナーとしての僅かな部分が報復を誓っている。自分も燻っているのだ、と自嘲した。
「ミュウツーと話させてもらえるか?」
フジは立ち上がった。「彼は話せるのか?」とカツラが尋ねる。ミュウツーは培養液の中だ。
「言葉少なだが、ボクよりかはコミュニケーション能力があると思うね」
「違いない。お前はそういう部分が欠落しているからな」
軽口を交し合い、フジは下階にあるミュウツーのカプセルへと向かう。強化外骨格はヤマキ達に一任しており、こちらではもっぱらミュウツー本体の調整だった。カプセルの中で胎児のように丸まったミュウツーへと声をかける。
「ボクの言葉が聞こえるか?」
(お前が何をしたいのか、私には皆目見当がつかない)
ミュウツーが僅かに瞼を持ち上げて返す。テレパシーで頭の中に切り込まれる感覚は何度味わっても慣れない。
「全てだよ。全ての事象をコントロールしたい」
(傲慢だな)
「望むのならば傲慢なほうがいいさ。一度きりの人生だ」
フジの言葉にミュウツーは、(お前のような人間に使役されて、私はどう思うべきなのだろうな)と返す。
「ボクが君の立場ならば、それは光栄だ、だろうね」
(光栄? 使役される立場に光栄も何もあるのか)
「あるさ。上が腐っていれば下も充分に力を発揮出来ない。おっと、誤解しないでくれ。何も君を下だと言っているわけじゃない。ボクらは対等だ。ポケモンと人間の間柄では、それは珍しい部類なんだよ」
(お前らが言うデータとやらを読ませてもらった)
ミュウツーには閲覧許可を出している。ヘキサツールの事までミュウツーには既に周知の事実だ。そしてキシベという目の上のたんこぶがある事も。
「どうだった?」
(キシベ・サトシ。確かに恐るべき人間だ。だがそれよりも恐れるべきは特異点だろう)
「君も同じ結論か。キシベは、特異点が最大まで能力を発揮出来る土壌を作っている。ボクにはそう思えて仕方がない」
(オーキド・ユキナリとサカキ。情報を統合するに片方の存在がもう片方の均衡に一役買っている。あの局面、サカキが覚醒するリスクはゼロではなかった)
「だが条件が揃っていない。サカキには必要なポケモンも、必要な時間も揃っていないんだ。あるのは場所だけさ。ロケット団という事象だけがサカキに用意されている。これでは何も出来ないのと同義だよ」
フジもヘキサツールの内容は理解している。だからこそ、サカキの覚醒リスクは抑えられている事は分かっていた。キシベによって意図的に、なのか。それとも、この時代にはサカキの覚醒は事象として組み込まれていないのか。どちらにせよ、ユキナリの覚醒でも、まさか、という思いのほうが強い。本来ならば四十年後の滅びを誘発するまでにこの次元のユキナリは成長しているという事なのか。あるいはキシベが用意した盤面のうちに過ぎないのか。
(私と悠長にお喋り、というわけでもあるまい)
「察しがいいね。そうだよ。そろそろ動こう。データには目を通してあるはずだ」
(フリーザーの捕獲か)
ロケット団のデータベースにはつい先日フリーザー捕獲作戦の決行が示されていたが、それは失敗に終わったという。現れたネメシスの尖兵によってフリーザーは捕獲され、今はネメシスの手の中にある。
「そうだ。そのためには新型のモンスターボールを操り、フリーザーをスナッチする。これは君にしか出来ない。分かっているね?」
(言われるまでもない)
ミュウツーはにわかに動き出す。培養液を破って出てくる事はない。フジはヤマキへと通話を繋いだ。
「強化外骨格のメンテナンス状況は?」
『既に八割が出来ています。出せますよ』
「結構。行くよ、ミュウツー」
ミュウツーはカプセルの中から転移する。強化外骨格のある場所へと「テレポート」を行ったのだろう。階段を上がりフジはカツラに言い置く。
「ネメシスの居城へと襲撃をかける。なに、そう難しいやり取りじゃないよ。ミュウツーに立ち向かうなんて輩がいればちょっとばかし立て込むかもしれないが、賢明ならばミュウツーには戦いなんて挑まないだろう」
「だが無謀な人間はどこにでもいるものだ」
カツラの忠告にフジは、「まぁね」と鼻を鳴らす。
「カンザキ・ヤナギだってボクには敵わないってのは最初の一撃で分かったはずなのに攻撃してきた。ボクはね、無謀な奴ってのは割と好きだよ。ただ無謀と分を弁えない人間というのは違う。前者はともかく後者はね。度し難いって言うんだよ」
フジは機器を操作して強化外骨格を身に纏ったミュウツーに通信を繋ぐ。
「ミュウツー。ボクも行く。分かっていると思うが座標の指定はボクでなくては出来ない」
(お前なしでは、私も所詮は何も知らぬ赤子というところだからな)
「分かっているじゃないか」
フジは青い光に包まれた。これからミュウツーと共に「テレポート」を行う。カツラが手を振り、「餞別はいるか?」と尋ねる。
「いや、ボクらには。ただ、スナッチ用のボールを開発した彼にはそれなりの報酬を払ってやってくれ」
その言葉に、「私がした事は少ないよ」と人影が歩み出てきた。先ほどまでミュウツーを眺めていたのだろう。自分の開発したものが使われる気分を味わっていたに違いない。
「それでも、君の活躍には目を瞠る。こちら側についてくれて助かったよ。――シリュウ。いや八代目ガンテツと呼ぶべきか」
フジの言葉にシリュウは、「私が欲しいのは富だけ」と口元に笑みを刻む。
「名声は必要ない。誰の銘が入っていようが、そこにこだわるのは三流だよ。ガンテツの名はいわばブランド、自分を売り込むための道具に過ぎない」
この男はどこへでも鞍替えする人間だ。当然、フジは信用していなかったし、カツラもそうだろう。ミュウツーの存在以外のアクセス権を与えなかったが、シリュウは喜んで自分の技術を差し出し新型モンスターボール――通称ミュウツーボールの開発、量産の手助けをした。既に捕獲状態にあるポケモンの主導権を奪う禁忌のボールであるこれの機能を「スナッチ」と呼び、恐るべき技術だったがシリュウは何のてらいもなくそれをロケット団、ひいては自分達に譲渡した。
「名を残す必要はない」とはこの男の弁である。
「名に執着するのはそれがなくては自分を維持できない人間だ。私はね、疾風のシリュウの通り名でさえ場合によっては必要ない。ただ私という記号を構成するために名乗っているだけさ。ガンテツの名は、その点では最高の名前だった」
フジは口元に笑みを刻み、「ボクは行こう」と前を向いた。
「ミュウツー、座標はトキワシティ近郊、政府中枢セキエイ高原だ」
(了承した)
ポケギアの放つ電波を受け取り、座標を脳裏に呼び出したミュウツーに従ってフジはこの場から姿を消す。後にはカツラとシリュウだけが残された。
「お前はどうする?」
カツラの問いかけにシリュウは、「何も」と応ずる。身を翻したシリュウへと、「富だけが目的と言ったな」と声をかけた。
「ビジネスライクな人間だ。歴史に名を刻む、という偉業には興味がないのか?」
ヘキサツールの事は教えていない。だがもしかすると今までの経歴から知っている可能性はあった。ロケット団、キシベの直属からこちらへと渡ってきた人間だ。キシベはシルフビルにて捨てる側の人間にシリュウを選んだ。既に必要のない駒だと判断したのだろう。だがフジと自分はそれを拾った。そのお陰でサンダーが捕獲され、フリーザーも恐らく問題なく捕獲される事だろう。これだけの功績を称えるのにその場だけ機能する金などで動いているとするのは早計ではないのか。もっと大きなうねりで動いているとカツラは睨んでいたがシリュウの言葉は簡潔だった。
「私はね、金が好きなんだ」
「好き、か」
「ああ。何よりも優先させられるべきは富だ。名声など後からいくらでも付いて来る。ガンテツ一門にいた時、こう教えられた。『その時々の価値観に左右されるのは三流以下』だと。だがね、私はこう考えている。価値観など時代で変わる。ならばその時々を楽しんだ者の勝ちではないのか、とね」
カツラはコーヒーカップを傾けながら、「研究者とは真逆の考えだな」と口にする。
「我々研究者は歴史に名を刻む事を目的としている。そりゃ、新しい価値観を生み出す事も大事だがね。名を刻む事が価値観の有無に起因する事を知っているからこそ、新たなフロンティアへと挑戦する気になるんだ」
「酔狂な生き物だな」
シリュウは一笑に付した。
「私とロケット団の関係は、もう切れたと思っていいのかな?」
この男は後に禍根を残したくないのだろう。ロケット団にいたという経歴を抹消し、また新たな居場所を探す算段だ。
「そうだな。ミュウツーボールの量産は軌道に乗った。どちらにせよ、あれはそう何個もいるような代物じゃない。スナッチの技術は大変に魅力的だった」
「お褒めに預かり光栄だよ」
どちらも形だけの賛美を送り合い、カツラは問いかける。
「どこへ行く?」
「ボールの技術が欲しい企業はいくらでもいる。シルフが駄目ならばデボンだ。もう協賛企業も中心がデボンに据え変わろうとしている。シルフに十年遅れていた企業だからな。ボールの最新鋭技術を売り込めば高く買い取ってくれる」
この男にはプライドも何もない。ただ人生を楽しめればいいという考え方だ。どこへ与するのにもまずそれが中心にある。ある意味ではぶれない考え方だが、カツラは好意的に見る事が出来なかった。シリュウはクロバットを繰り出し、移動姿勢に入る。
「ポケモンリーグの玉座などにしがみつく連中は分を弁えない馬鹿ばかりだ。王になったところで死ねば終わり、殺されれば終わりだ。私は窮屈な生き方は御免でね」
研究所の窓からシリュウは飛び立っていく。その背中を眺めながらカツラは鼻を鳴らした。
「窮屈な生き方、か。だがね、シリュウ。金も富も、それこそ生きているうちだけの賛歌だよ。あの世に金は持っていけないからね」
カツラは通話を繋いだ。通話先の相手へと情報を寄越す。
「俺だ。今、シリュウがこっちと手を切った。狙うのならば今だぞ」