第百三十八話「その先の未来」
全く動けなかった。
アデクは己の不実を呪うように空を仰いだ。憎々しいほどの晴天が先ほどまでの熾烈な戦いを忘れているようだった。だが、忘れ難いものとしてその証拠は屹立している。瓦礫の山と焼き尽くされた大地。アデクは動くべきだった。キュレムと呼ばれるポケモンとそれを操るヤナギ。彼に因縁があろうとも、補佐するべきだったのだ。だが現実はどうだ。現れたミュウツーと呼ばれる人型のポケモンに恐れを成し、叫ぶ事も喚く事も叶わず、ただ傍観していた。狂人になる事も出来ないアデクはただその実力を持て余すだけだった。
「何が、何が優勝候補じゃ!」
吐き捨ててアデクは顔を伏せる。いざという時に行動も起こせなかった。拳で焼けた地面を殴りつける。血が滲んだ。不意に影が差す。顔を上げるとヤナギが自分を見下ろしていた。
「……何の用じゃ」
覚えず顔を背ける。ヤナギは、「お互いに大変だな」と呟き手を差し出した。「いらん」と突っぱねて立ち上がる。
「オレを嗤いに来たのか?」
そのような性根の人間ではない事は先ほどミュウツーとフジに立ち向かった事から明らかだろうに、自分にはそのような言葉しか持ち合わせていなかった。ヤナギは、「あんたがこの状況から逃げ出すようなら」と口にする。
「嗤おう」
「じゃあ逃げられんな」
アデクはヤナギを見やる。ヤナギには張り詰めた敵意はない。既に私怨で動く領域を超えている事は彼にも自明の理なのだろう。
「オーキド・ユキナリは帰ってこないと、あのフジとか言う男は言っていた」
「そうか。ユキナリが」
あの瞬間。月を開こうとした扉。オノノクスはポケモンという枠を飛び越え、何かを巻き起こそうとしていた。それが何なのかはアデクには見当もつかない。ただエリカの言い含めていたオノノクスの危険性だけが今さらに頭に湧いてきていた。
「オノノクスが、ユキナリの何かを引き出したのか」
「俺は、オーキド・ユキナリに関するある情報を持っている」
ヤナギの言葉にアデクはこの少年がただ無意味に自分に話しかけたわけではない事を悟った。もっとも、彼からしてみれば意味のない会話ほど興味をそそられないのだろうが。
「話してみい」
アデクが促すとヤナギは、「歩きながらにしよう」と提案する。頷き、アデクは改めてセキチクシティの惨状を視界に入れた。
「酷いもんじゃの」
「これを、オーキド・ユキナリがやった」
「お前さんも一枚噛んだみたいなもんじゃろ」
「コールドフレアはほとんど掻き消されたようなものだ。俺もキュレムも、まだあれを使いこなせていない」
ヤナギは拳を握り締めている。立ち向かってみて自分との差が歴然である事を感じ取ったのだろう。ヤナギほどのトレーナーが敗北を噛み締める瞬間とは、とアデクは益のない思考に身を任せた。今まで直進的な考え方しかしてこなかった自分がここに来て立ち止まっているのはユキナリに負けたからか。それとも、届かない事を痛感させられたからか。
「そうか……」
アデクの煮え切らない口調に、「らしくないな」とヤナギは返す。
「俺を、自分の身を挺してでも止めようとした男の口調だとは思えない」
アデクは口元に笑みを刻む。
「お前さんらが思っているほど、オレは強くなかった、と言う事じゃの」
ウルガモスで戦えなかった。指示を飛ばす事も、無謀な戦果を期待させる事も出来なかった。
ミュウツー。あのポケモンの前では全てが無意味に感じられた。トレーナーとしての直感が告げる。お前はここまでだと。
「腐っても優勝候補だな。自分を客観視している」
ヤナギの言葉は皮肉めいていたがこの少年の性分なのだろう。アデクは、「そうでもない」と首を振った。
「たった一つの事で仲違いしてしまった。オレは、もう合わせる顔もない」
恋しなければよかったのか。ユキナリとナツキの気持ちを知っておいて、横やりを入れるような真似をしなければ、自分と彼らとの関係に一線を引ければよかったのか。それほど賢しくはない自分を鑑みて、どうせ無理だとアデクは感じる。
「今生の別れのような言い草だな」
だからか、ヤナギの言葉が意外に聞こえた。まるで希望があるかのような声音だった。
「何か、手がある言うのか?」
「まだない。これから模索する」
だがその口調には諦観がない。ミュウツーに勝つ、あるいはフジの鼻を明かす手段でもあるかのようだ。
「お前さん、意外じゃな。そんなに熱い奴じゃったか?」
「凍傷ってのは悪化すれば熱いものなんだ。紙一重さ。冷たさも熱さも」
ヤナギの声は自分を励ますものだとアデクは気づいた。この段になって孤独を極めていたようなこの少年は誰かを必要としている。そのための、不器用な言葉の一つだった。
「お前さんには不思議なカリスマがあるからのう」
「カリスマ? 俺にはそんなもの」
「そうじゃなければ、仲間が二人もついて来んじゃろ」
アデクの言葉にヤナギは足を止めた。振り返るとチアキが佇んでいる。黒い着物が煤けた風に揺らめいた。
「カミツレは?」
「命に別状はない。ただサンダーを手離した手前、手持ちを再申請するのに時間はかかりそうだ」
「そうか。お前らは怪我人の手当てと後処理を頼む。ジムリーダー崩れなら、そういう面倒は背負ってくれ」
「簡単に言ってくれる」
チアキは身を翻す。ヤナギも再び歩き出した。
「何だかんだで、お前さんもユキナリと似ておるな」
「俺がオーキド・ユキナリと? 冗談はよせ」
ヤナギは本気でユキナリを嫌悪している反面、どこかでユキナリを認めている節もあった。アデクは尋ねる。
「お前さん、主にキクコの事でユキナリと争っておったな。キクコとはどういう仲じゃった?」
「幼馴染だ。俺は、キクコの世界の全てだったし、キクコも俺の世界の全てだった」
短い言葉だったがそれだけに意思が集約されていた。世界の全て。何もかもを敵に回してもいいと思えるほど大切な存在だったという事なのだろう。
「……なるほどな。オレも大切なもんを傷つけられてユキナリを恨んだ。それが結果的にこの事態を招いたとも言えん」
怨念返しが世界を歪める。アデクは後悔し始めていたが、「後悔したところで前には進めない」とヤナギは告げた。
「俺達は、この惨状を伝える必要がある」
「だが街同士の通信網は生きているかどうか……。それに、広域通信は場所が限られておるし」
「お前らのバックにニシノモリ博士がいるはずだ。そいつを利用する」
不意に出た博士の名前にアデクは息を呑む。
「博士を、どうする気なんじゃ」
「演説を行う。このポケモンリーグが、ただ王を決めるなんていう競技じゃないって事を世界に知らしめる」
思わぬ言葉だった。アデクが足を止める。
「それは……ポケモンリーグを中断する、って事か」
「他に何がある? 安心しろ。連中を排除すればまた出来るさ」
「そんな悠長な……。オレ達はこの大会に命賭けとるんやぞ!」
少なくとも送り出してくれた故郷の人々の期待がある。アデクは自分のためだけに王を目指しているわけではない。ヤナギは肩越しの一瞥を向け、「ではどうする?」と問いかけた。
「世界と一地方の玉座を天秤にかけて、一時の栄華をよしとするか? オノノクスが開きかけた扉、あれは玉座がどうとか言っている次元じゃないんだぞ」
ヤナギはその事に関して情報を持っているようだった。アデクは問い質す。
「オノノクスは、何をしようとしていた?」
「世界を終わらせようとしていたんだ」
突飛な言葉にアデクは理解が追いつかない。ヤナギは丁寧に言葉を継ぐ。
「正確には、四十年後に訪れるはずだった滅びが今に早められた、と言うべきか」
「四十年後……。何が起こるって言うんじゃ」
「お前には話しておこう。この世界の始まりと終わりの話だ」
ヤナギは瓦礫を眺めながらぽつりぽつりと話し始めた。このカントーという地方がヘキサツールという歴史の盤面の上に乗っている事。そのために多くの血が流され、やがて滅びが訪れて全てを洗い流す事を。その中の特異点という言葉にアデクは着目した。
「その、特異点、って言うんはなんじゃ」
「俺にも詳しくは分からない。ただオーキド・ユキナリとロケット団の擁立するサカキ。この二人が歴史上で意味を持つ人間だという事だ」
「つまり、ユキナリを攫ったのはロケット団だと?」
「確証はないが、この状況で動くのはロケット団だろう。あのフジとか言う男もロケット団の意思で動いていたと見るべきか」
「だがな、ヤナギ。それにしちゃあいつは勝手そうだったぞ」
ミュウツーほどの単騎戦力がトレーナー一人に任せられるはずがない。アデクの言葉に、「それは同意だ」とヤナギは頷いた。
「ロケット団内部でも分裂が起きているのか。確かめる方法はないが、俺はミュウツーとフジを追う事が、オーキド・ユキナリ奪還に繋がる事だと信じている」
今までの話の流れからアデクはユキナリの奪還などヤナギは考えてもいないのだと思い込んでいた。その驚愕が顔に出ていたのだろう。ヤナギは、「借りは返すだけだ」と呟く。
「それに、キクコも消えた。推し量るしかないが、キクコもオーキド・ユキナリと共に封印されたと見るべきだろう」
「あの、赤い鎖か」
オノノクスの背中から突き刺さった赤い鎖。あれがオノノクスの行動を縛ったように見えた。ヤナギは、「情報不足だが」と前置きする。
「ミュウツーは覚醒するオノノクスを止めるために用意された駒だったとしたら? 俺にはミュウツーというポケモンの特殊性を疑わざるを得ない」
「特殊性、か」
灰色の機械の甲冑を身に纏っているポケモンなど見た事がない。それに肩から飛び出したモンスターボールもそうだ。何もかもが自分達の知識では足りてない事を示していた。
「しかし特性も技構成も不明。タイプだって分からん。そんな相手とどう渡り合えば?」
「今は、ミュウツーを倒すという事よりも知る事だ。何のためのミュウツーなのか。フジは何を考えているのか。オノノクスをただ止めるだけならばあのまま放置してもよかった。あるいは無抵抗なオノノクスを殺しても何ら問題はない。思うに、オーキド・ユキナリの確保と我々から遠ざける事。これが相手の作戦目標だったのだろう」
ヤナギの推理ではユキナリはそれほどまでに重要視されていた事になる。シルフビルの倒壊やロケット団に関わってきた過去から鑑みても相応の処置だがそれにしては引っかかる部分があった。
「どうして、ロケット団はユキナリを殺そうとせんかった?」
それだけが疑問だ。たった一人の無名のトレーナー。始末したところで痛くも痒くもない。だというのに、このぬるま湯に浸けられたような待遇は疑問としか言いようがない
「俺も同感だな。ロケット団はオーキド・ユキナリをいつでも殺せたはずだ。そうしなかったのは、奴の覚醒を促す一派と、それを止める一派との確執があったのではないかと考えている」
「ロケット団内で内部分裂か」
さもありなん、とアデクが考えていると、「あるいは」とヤナギはさらに推論を展開する。
「オーキド・ユキナリが目的ではなかった。いや、目的の一つに過ぎなかったとしたら」
言わんとしている事が分からずアデクが首をひねる。
「アデク。今、バッジはあるか?」
ヤナギの声にうろたえながらもアデクはバッジを取り出した。ヤナギも襟元に留めたバッジを見せ、「これで二つ」と告げる。
「レインボーバッジで三つ、後は、誰か所持しているか?」
「ナツキがブルーバッジを持っていたな」
「ならばそれを入れれば四つだ。ちょうど半分がこちらにあることになる」
ヤナギは勝手に話を進めるのでアデクは困惑顔になった。
「どういう意味だ?」
「バッジには力がある」
ヤナギは襟元に留めたバッジを外して掌に乗せる。まさかその力とやらを実践しようと言うのか。アデクがうろたえているとヤナギは掌にしばらく視線を落としてから首を横に振った。
「やはり、駄目か」
「何を試していたんじゃ?」
「バッジには効力がある」
ヤナギはバッジ一つ一つを順繰りに見やった。
「たとえばゴールドバッジ。こいつには、レベル70までのポケモンを強制的に支配下に置く事が出来る」
ヤナギが示した金箔を施されたバッジはそれそのものには何ら感じるものはない。ただのバッジに見えたが、ここで嘘を言う意味もない。
「そんなの、初耳だが……」
「公にはされていない事実だ。バッジを八つ集めた時、何かが起こる。そう仮定して間違いはないだろう」
「そういや、会見の時にバッジは八つかどうか執拗に聞いていた記者がいたな」
「あれはヘキサの手のものだ」
するりとヤナギが発した言葉にアデクは目を見開く。ヤナギは、「安心しろ」と言い含める。
「俺はそいつよりも高次の命令権を有している。もし、そいつが反抗したとしてもキュレムならば負ける気はしないな」
アデクはヤナギの言葉に眉をひそめた。
「自信過剰なのはいいが、そのキュレムというポケモン、本当に当てになるんじゃろうな」
「優勝候補としては随分と弱気な発言だ」
弱気にもなる。先ほど、ミュウツーを前に一歩も動けなかった自分を顧みれば。アデクの無言にヤナギは感じ取るものがあったのか、「俺が知る限りでは」と続ける。
「キュレムは氷タイプを専門とする俺の戦い方に馴染んでいる。こいつ自身も、俺に合わせようという気なのさ。そう考えると、伝説とはいえ随分と殊勝じゃないか。まぁ、ボールの力かもしれないが」
ヤナギの持つモンスターボールは現行のものとはかけ離れていた。黒を基調としており「H」の文字が刻まれている。
「そのボールは?」
「ハンサムが遺してくれたものだ。あれは結果的に器ではなかったが、便利なものを遺してくれたよ。組織と力を」
ヤナギは拳を握り締める。それをもってして、ユキナリとキクコを取り戻そうというのだろう。あるいは自分の失ったもの全てを。その傲慢さでさえ、この少年からしてみれば糧になる。前に進むためには綺麗事を並べ立てる性格ではない。アデクは口にこそ出さなかったがユキナリとは正反対だと感じた。
「財力ならばある。戦力もな。後は進むか停滞するかを決めるだけの話だ。アデク、お前はどうする?」
急に話を振られアデクは戸惑う。「オレ、か……?」と声に出してしまった。
「優勝候補だ。このまま旅を続けるもよし。このセキチクであった事は恐らくすぐにはニュースにならないだろう。その間のもみ消しくらいならば手伝おう。俺達はあくまでヘキサという組織の一単位として動いている。お前がセキエイを目指すならば止めはしない」
ヤナギは瓦礫の一つに座り込んだ。アデクを見据え、「決めろ」と告げる。命令口調だが、その決定権はアデクにあった。このまま旅を続けられる。何も知らぬまま、それを装って、優勝を目指す事も出来るだろう。ポイント上でも自分は優位だ。
「ポイントにこだわるのならば、俺はお前を支援する。その代わりレインボーバッジは渡してもらう。バッジには秘密があるはずだ。バッジ分の固有シンボルポイントくらいならば俺が払おう」
「どうして、そんなに出来るんじゃ」
アデクにはヤナギがどうしてそこまで必死になれるのかを知りたかった。ユキナリの事を嫌っていたはずだ。憎悪さえしていた。だというのに、ここで足を止め、ロケット団と戦おうとしている。その中心軸にはユキナリ奪還は必ず絡んでくる事象だ。ヤナギは、それこそ自分よりも玉座にかけるものがあるのではないのか。いくらキクコも同様に行方不明だからと言ってそこまで出来るのか、と怪訝そうにする。ヤナギは、「俺がそこまでする義理はない、と感じているのならば」と顔を焦土と化した大地に向ける。
「それは間違いだ。真実は、知ってしまったのならば全うする義務がある。力は、持ってしまったのならば然るべき使い方を学ばねばならない。俺は玉座に収まる。だというのならば、些事だと投げる事は出来ないな。オーキド・ユキナリは俺が殺す。そのために、キクコが犠牲になる事はない。俺は、正直なところ、まだオーキド・ユキナリを憎んでいる。だがな、憎しみが簡単に切り離せないように、愛情もまた簡単に切り離せないものだ」
「愛……」
ヤナギの口から出た言葉にアデクは狼狽する。それほどまでにヤナギはキクコを求めていたのだろう。このままで終わらせてなるものか。ヤナギの中の義憤の炎を感じ取り、アデクは腹を決めた。
「バッジは渡そう」
「そうか」
レインボーバッジをヤナギへと手渡し、アデクは心に決めた言葉を発した。
「だが、オレはお前さんらを手伝うぞ」
ヤナギは眉を上げて、「いいのか?」と問いかける。
「俺がお前ならば、優勝を狙ったほうが賢いと感じるが」
「なに、オレもまたユキナリを完全には嫌えんかったっていう事じゃ」
たとえ恋敵だとしても。アデクの言葉にヤナギは口元に笑みを浮かべる。
「馬鹿をしている、という自覚は」
「ある。あるからこそ、賭けられる。知っておるか? 男ってのは馬鹿なほど、傾けられるエネルギーは強いんじゃと」
アデクの声にヤナギは、「重々、承知しているよ」と立ち上がった。彼の目線の先には崩壊したセキチクシティが映っているのではないのだろう。その先の未来を見据えているに違いなかった。