最終章 十節「王の盾」
「射程圏外からの攻撃、今ので決めるつもりだったが、浅かったな」
ニダンギルの身体の中央にはリーフィアがつけた傷痕が鮮明に残っている。並大抵のポケモンならばすぐさま戦闘不能になっているだろう。ヨハネは身を起こしながら、「チャンピオンが、私に復讐しに来たのか?」と挑発する。
「違う」
リョウは短く応じて左腕を払った。
「ルイの事も、胸の傷の事も、俺は全てを超えてお前の前に立つ。メガシンカが使えない程度で俺を止められると思うなよ。最初に掲げた目的通りだ。ノアズアークプログラムを止める。俺の命に代えても」
その気迫に圧されたのか、ヨハネが声を詰まらせる。リョウは静かな殺気を双眸に湛えたまま、リーフィアへと声をかけた。
「いくぜ、リーフィア」
リーフィアが全身の毛を逆立たせる。葉脈が刻み込まれた皮膚から緑色のオーラが放たれた。ニダンギルがすぐさま応戦の剣を放とうとするが、リーフィアはほとんど動かずにただ逆立てた毛の位相を変えただけだった。
それだけでニダンギルの放った剣戟と同等の威力が放たれたのが分かる。ニダンギルが全ての攻撃を弾かれて刀剣の動きを鈍らせる。その隙を見逃すわけがない。リーフィアがその場から掻き消えた。
「神速か!」
放った言葉にヨハネはまだ余裕を滲ませていた。ノーガードの特性ならばどのような速さであれ自分に届く前にニダンギルが受け止める。
「ああ。お前はこう思っているだろう。ニダンギルが受け止めれば自分に影響は出ないと。――嘗めるな」
その声にヨハネが目を見開いた瞬間、剣閃がニダンギルに打ち込まれた。しかし、ただの一閃ではない。巨大隕石の重みを感じさせるような一撃がニダンギルへと命中した。
何の打算もなく、真正面から斬り込んできた攻撃はニダンギルが確かに受け止めた。だが、衝撃波はまるで減衰されない。剣の形を伴った衝撃波はニダンギルを跳び越え、ヨハネの肩口を焼いた。ヨハネが肩を押さえて後ずさる。
「受け止めたって、衝撃波が残る。ニダンギルが一撃そのものは止めても、そこから発生するものも止められるわけがないだろう。言っておくが、玉座に収まった人間の実力を過小評価してんじゃねぇぞ」
ヨハネは歯噛みする。このままでは戦局は不利に転がる事は自明の理だった。ノアは改めてリョウの実力に言葉を失っていた。これほどまでに強く、気高いのが王だとは。
ヨハネはゆっくりと後退した。しかし、その背面を固める動きがあった。追いついてきたイシスとロキがそれぞれのポケモンを出してヨハネから退路を奪った。
「終わりだ、ヨハネ」
イシスの声に〈セプタ〉が応ずる鳴き声を出す。ロキがタブンネを繰り出し、十万ボルトの矢を番えている。
「もう逃がさない」
ヨハネは首を巡らせて逃げられる道を探ろうとする。しかし、周囲には自分で粉々に砕いたせいで瓦礫が山積しており、どこにもまともな逃げ道は残されていなかった。
「あと三十時間」
ポケッチを眺めて、リョウが告げる。
「残念だったな。日食の時を迎える事はない。お前の野望はここで潰える」
ノアには最早ヨハネの行動が全て、絶望的に思えた。リョウだけではない。この四人を相手取って、クラックの能力だけでさばき切るには限度がある。さらにノアには何が何でも逃がすまいという強い意思があった。ヨハネは周囲を見渡す。逃げられる場所を探しているのか。リョウが、「無駄だぜ」と言葉を投げる。
「今さら、どこに逃げるって言うんだ?」
ヨハネはその言葉に顔を伏せた。諦めたか、とノアが感じていると肩を揺らし始めた。嗤っているのだ、と感じた瞬間怖気が走る。この状況で、何故嗤えるのだ。リョウが眉根を寄せて、「いかれたか?」と訊いた。ヨハネはこめかみに指を当てて、「いかれちゃいないさ」と応じた。
「思い出したんだよ」
「何をだ? 自分にはもう、何の希望も残されていないって事をか?」
その通りだ。ヨハネを押し上げる使徒は全て死んだ。この状況でヨハネに味方する要素はどこにもない。
「違うな。間違っているぞ、チャンピオン。私の能力はクラック。この世界の理に亀裂を走らせる能力。そして、ノアズアークプログラムの中枢でもある」
「だから何だって言うんだ。言っておくがクラックで俺達の認識を奪ったところで無駄だぜ。ノアがいるからな」
リョウの言葉に頼りにされていると認識を新たにしたノアはヨハネを睨み据えた。逃がすまい、という意思が伝わったのか、ヨハネは鼻を鳴らす。
「君達との直接対決など、もうどうでもいいのだ。私の能力がクラックであった事、そして日食まで三十時間程度であった事を幸福に思う」
ヨハネの言葉に違和感を覚えるより先にリョウが異常に気づいた。空が翳り始めているのである。ヨハネから警戒を解かずにリョウは空を振り仰いだ。ノアもその視線の先を追う。
覚えず絶句した。
既に太陽が落ち、月が出始めているのである。しかも、その速度は尋常ではない。瞬く間に太陽と月が交互に現れたかと思うと、二つの交点が重なり始めた。
日食である。
リョウは、「何をした!」とヨハネに声を振り向けた。ヨハネはくっくっとさもおかしそうに笑う。
「私の能力が相手の命令系統を乱すクラックならば、その相手は個人に絞る事はない。この世界を観測している存在に当ててやれば、三十時間程度を錯覚させる事は容易だろう」
ノアは全身が粟立ったのを感じた。ヨハネは世界をクラックしたと言っているのだ。そのような事が可能なのかと感じたが、必殺の一撃を加えられても生きている自分を鑑みれば不可能とは言いづらかった。
「てめぇ! 今すぐにこの状態を解除しろ!」
リョウの怒声にもヨハネは冷静な眼差しを向ける。その眼は赤く染まっていた。
「……私には分かるぞ。この世界を観測する存在が。クラックされて、三十時間もの時間感覚を狂わされた。もう止められない。日食は始まる」
「リーフィア!」
リョウの声にリーフィアの身体が弾かれたように動く。ニダンギルを跳び越え、ヨハネの首を落とそうとした。迷いない一撃。しかし、その攻撃をニダンギルが身を挺して防いだ。それでも、ニダンギルを跳び越える衝撃波を減殺する事は出来ない。そう判じていたが、ニダンギルの身体の前面に銀色の皮膜が形成されていた。六角形をタイルのように敷き詰めた皮膜は銀色の盾に見えた。
「何を……」
「もうニダンギルではない」
ヨハネの言葉に応ずるようにニダンギルは身体の内側から暗く濁った石を取り出した。ノアは気がついて声を出す。
「あの時の、闇の石……!」
自分がランスによって使うはずだった闇の石をニダンギルは刀剣で真っ二つに砕いた。その瞬間、封じられていた闇が放出され、ニダンギルの姿を歪める。
「体内に隠し持っていやがったのか」
〈セプタ〉の特性でも奪えなかったという事はそうなのだろう。ニダンギルは身体を拡張させた。二本の刀剣が一つに重なり、その瞬間、扇状に布が広がる。紫色の布が腕を模して背後に回され、前面を円形の光が覆った。それはちょうど盾に見えた。
「私にこの能力の使い方のヒントを与えたのは、他ならぬお前だ、ノア・キシベ。身体感覚と時間感覚を操ったお前の使い方こそが、この事態を招いたのだ」
ノアが瞠目する間にもニダンギルが形状を変化させ、盾と剣を合わせたようなポケモンになった。柄の部分に備え付けられていた眼が巨大化し、紫色の色を帯びる。ぎょろり、と睨まれノアは総毛立つのを感じた。
「あの、ポケモンは……」
「関係ねぇ! リーフィア!」
リョウがリーフィアへと攻撃の指示を飛ばす。だが、刀剣のポケモンの前面に展開された防御壁が攻撃の余波さえも完全に防いでいた。
「キングシールド。王の盾は我が手にある」
それが技の名前なのか。「キングシールド」と呼ばれた防御へとリーフィアの攻撃が吸い込まれていく。全ての勢いを呑み込みかねない銀色の皮膜にリョウがすかさず命令の声を上げた。
「一旦離脱しろ! まずい!」
何が、という主語を欠いた命令でもリーフィアは忠実に主の思考を理解した。「キングシールド」の防御壁を蹴ってリーフィアは距離を取る。しかし、リーフィアの新緑の刀剣に変化があった。先ほどまでと違い、輝きが澱んでいる。まるで枯れかけた葉っぱだ。
「何をした……」
リョウの声にヨハネは陶酔したように応じた。
「日食が始まった」
その声に太陽が徐々に暗闇に覆い隠されていくのを目撃する。日食の後に何があるのか。それはここにいる誰にも分からなかったが、その時をヨハネに迎えさせてはならない事だけは確かだった。
「〈セプタ〉!」
「タブンネ!」
二人の声が弾け、〈セプタ〉とタブンネが刀剣のポケモンへと攻撃する。十万ボルトの矢と水の剣が相手へと襲いかかったが、ヨハネは何でもない事のように手を払った。
「キングシールド」
〈セプタ〉とタブンネへと振り返った刀剣のポケモンは同じように防御壁を形成した。〈セプタ〉の「シェルブレード」が触れた先から掻き消えていく。十万ボルトは接触の瞬間、音もなく消えていった。
「何が……」
「起こっているのか。それはお前達には理解出来ないだろう」
後を引き継いだヨハネの声に一同が硬直する。
「ただ一つだけ言っておく。このポケモンに対して攻撃は無効化される。絶対防御の盾を持つ金色のポケモン」
ノアは再び刀剣のポケモンを見やった。身体はニダンギルの時よりも大柄になっているが構造はシンプルだ。腕のように拡張した布を後ろ手にしており、前面の円形状の盾に自身を被せている。本体は一振りの剣だった。その柄の部分に眼球がある。
「――その名はギルガルド。本来ならば王が手にするポケモンだ」
ギルガルドと呼ばれたポケモンは飛び込んできたリーフィアに対して迅速に対応する。防御壁を張り、リーフィアの攻撃を受け流した。
「リーフィア!」
しかし、受け流されただけのリーフィアではない。振り返らずにそのまま全身の葉脈を浮き上がらせ、表皮を逆立たせた。その衝撃波だけでも通常のポケモンの全力攻撃に匹敵するだろう。緑色の光の波がギルガルドを襲うがギルガルドは平然としていた。しかも、今は「キングシールド」を張っていない。通常状態で、である。
「何て堅いんだ」
リョウが言い捨てる。イシスが雄叫びと共に〈セプタ〉を前進させる。水の剣は鋼の身体を打ち据えたがギルガルドは身じろぎもしない。
「鋼・ゴーストのギルガルドには半減される。今まではそれを絶対に受けなければならない制約があったが、もうその特性からは解放された」
その言葉を裏付けるようにタブンネの放った冷凍ビームをギルガルドはひょいとかわした。
「特性、ノーガードじゃ、ない……?」
「いかにも」
ギルガルドが俄かに動く。本体である剣を持ち上げたかと思うと、即座に後ろ手にしていた布の手で盾を保持した。ギルガルドの姿勢はさながら剣士だ。盾を持ち、自らを武器として戦っている。
「盾を捨てて、嘗めてんのか!」
リョウの声音にリーフィアが従って空間を跳び越える。しかし、ギルガルドは全力の「リーフブレード」をいとも容易く回避し、返す刀とでも言うように自身の身体をひらりと掲げてリーフィアへと一撃を見舞った。
「甘い! リーフィアが剣戟と同等の衝撃波を放てば――」
「甘いのは、どちらかな」
遮って放たれた声と共にリーフィアの身体に一筋の傷が走った。滲み出るように葉脈の身体がぷつりと切れ、緑色の血が迸る。リョウが目を見開いた。
「リーフィア!」
「ギルガルド。聖なる剣」
今しがた発生させた攻撃の名を、ヨハネは口にする。リーフィアはノアの記憶する限りではほとんど攻撃など受けた事はないはずだ。それはリョウと特別に繋がっているからもあるのだろう。同調状態の両者を傷つけるのは不可能に近い。だというのに、今、リーフィアはギルガルドの一撃を受けてしまった。しかも、その一撃が決定的な一打となった。
「戻れ!」
リョウがモンスターボールを突き出してリーフィアを戻す。チャンピオンでも戦闘続行が不可能だと判断したのだろう。それはつまり、ギルガルドの攻撃力がずば抜けている事を暗に示していた。
「野郎……」
怒りを押し殺したリョウの声音に、「敵わないさ」とヨハネは答える。
「同調状態といえども。それよりも、幸運だったな。間一髪で同調を切って。そのままでは、トレーナーであるお前自身も危うかっただろう」
リョウの咄嗟の判断は推し量るしか出来なかったが、歯噛みしたところを見るとどうやら本当らしい。それほどまでに切迫した戦況にノアは唾を飲み下す。
「次はこいつだ。いけ、フシギバナ!」
ホルスターからモンスターボールを抜いて、リョウが繰り出したのはフシギバナだ。だが、メガシンカが封じられている今、決定打になるとは思えなかった。
「メガシンカなしで、ギルガルドを倒せるとでも?」
「嘗めんな。こちとらメガシンカなしのほうが長いんでね。フシギバナと俺ならばいける」
フシギバナは花びらを回転させ、微少な花弁の刃を生成した。それがフシギバナを覆い尽した瞬間、リョウが叫ぶ。
「フシギバナ、花びらの舞!」
フシギバナの発した花弁の切っ先が集合してギルガルドを討とうとする。しかし、ヨハネは落ち着き払っている。
「ギルガルド、シールドフォルム」
命じられたギルガルドは盾を下に放り込むと、自分の身体を突き刺した。布の手を後ろ手に回し、再び前面に盾を展開した形態へと変貌する。
「フォルムチェンジ……」
リョウが発した言葉に、「その通り」とヨハネは応じた。
「ギルガルドは攻撃形態であるブレードフォルムとシールドフォルムを行き来する。その状態に応じて能力が変わるために、ニダンギルやヒトツキの時に必要だったパワートリックは不要になった。その代わり得たのがこれだ」
ギルガルドが盾の身体を突き出して防御壁を展開した。「キングシールド」の壁の前に刃の輝きを帯びた花びらは崩れ去った。バラバラと弾け飛んでいく。花弁から殺傷能力が失せ、ただの花びらと化したそれらが銀色の皮膜を伝い落ちていった。
「キングシールドは全てを無効化する。どのような大技を放ってこようが関係ない。全て、だ」