最終章 九節「隻腕の赫」
長くは持たない。
それは理解していたが構わないと感じていた。この命が今尽きるよりかは遥かにいい。自分の中に残っていたクラックの能力を感じ取ったのはノストラとの戦闘の局面だ。あの時、何故ノストラの位置が分かったのか。それは自分の中にまだクラックがあったからに他ならない。
「奪い尽くせていなかった、というのは私の不手際だな」
ヨハネはニダンギルを前に出し、ノアと相対する。ノアは身構えた。〈キキ〉が羽ばたき、ノアの命令を待っている。
「世界の敵とあだ名されるだけはある。まさしく世界の理を捩じ曲げ、お前は私の前に立っている」
「そんな大層なお題目は必要ない」
声を発するたびに鋭角的な痛みが貫く。心臓だけではない。肺も欺き、血流も騙し、脳を掌握してようやく立てている。どれかが欠損すれば今にも倒れそうだ。だが、意識は今までにないほど明瞭だった。ノストラと同じ方法を使い、クラックで自身の命令系統を狂わせている。きっと、これは世の理からすれば正しい方法ではないのだろう。死する運命の人間がゾンビのように生に執着している。だが、今だけは、という思いがあった。今だけは、あと一秒でも長く、この身体が持ってくれれば。
「最初にこの世界で幽霊を見た者の心境を考えた事があるか?」
ヨハネは値踏みするかのようにノアを見つめながら独白をする。
「それは生きているのか死んでいるのか、判断さえつけられなかっただろう。確かに死んだはず、と言っても、それは脳の作り出した幻影かもしれない。自分の脳が水槽の中に浮かんでいる脳ではないと誰も証明出来ないように、幽霊が脳の作り出したバグの一つだと誰も認識出来ないように」
余計な言葉を挟んでいる暇はなかった。今は、一刻も早く決着をつけねばならない。
「そうやって言葉を弄していないで、来たらどうだ?」
ノアの挑発にヨハネは、「私は恐怖したよ」とぽつりと漏らした。
「ノア・キシベ。お前が生きている事に。心臓を貫いて生きているという事に驚愕すると共に、賞賛の気持ちもあるのだ。そこまでして私を止めなければならないという使命感。意志の輝きは、何物にも代えられないだろう」
「来ないのならばこちらから攻める!」
ノアの言葉に呼応して〈キキ〉がニダンギルへと肉迫する。ニダンギルは刀剣を振り翳して〈キキ〉の攻撃の延長線を阻んだ。半端な射程距離では特性、ノーガードによる影響を受ける。ノアは天を指差した。それを見てヨハネは怪訝そうに眉をひそめる。
「何の真似だ?」
小首を傾げる間に〈キキ〉が飛翔し、高空から衝撃波を伴って降り立った。鋭い矢のような攻撃の切っ先がヨハネを貫かんと迫る。
――届け、と願った一撃はしかし、ニダンギルの射程内だった。刀剣を翳してニダンギルは受け止める。
「高空からの私を狙った一撃。射程圏外からの攻撃ならばノーガード特性を崩せると踏んだか。生憎だがどちらにせよ、射程内に入らねば私を殺す事など出来ない。そして、今の一撃は暗にある事実を示している。つまり、ノア・キシベ。お前は長期戦をするつもりはないという事」
言い当てられてノアは身体が硬直するのを感じた。だが気取らせないように声を出す。
「どっちにせよ、長期戦の予定はないわ。日食までにあんたを止めなければ」
ヨハネは落ち着き払った様子で時計を見やり、「日食まで三十時間を切った」と告げる。
「もちろん、私とて三十時間もお前らとデスマッチを続けるつもりはない。因縁はここで断ち切る」
ノアは息を切らした。クラックの能力の維持が限界に達しようとしている。元々、残りかすのような能力だ。生命維持だけに留まらずポケモンとの同調に回せばたちどころに命は絶えるだろう。
だが、同調なしにヨハネを倒せるのか。ノアは自問する。同調をすればクラックによって命令系統を崩される。その分、隙も生まれ攻撃されやすい。だが同調しなければ、不意打ちすら不可能なこの状態。長く続けられるとは思えない。何よりも身体が限界を訴えている。
「先ほどの話の続きをしようか。最初に幽霊を見た人間は、どうして幽霊だと、死んだ人間だと判断出来たのか。自分の認識を真っ先に疑わず、まず事象を疑った。そこに人間の認識の弱さがある。何故、自分の見ている世界が正しいと感じているのか。自分の認識が間違っていると、どうして感じられないのか」
「それが、あんたの論法ってわけか」
ノアの言葉に、「下らないかね?」とヨハネは聞き返す。
「ああ、下らないな。この世界が間違っているって言うのは勝手だが、それに巻き込まれているのは生きている人間だ。身勝手な理由で人生を狂わされていいはずがない」
「それが矮小だと言っているのだよ。我々の人生など、一刹那の出来事に過ぎないというのに」
「たとえ瞬間だとしても、あたし達は生きている。生きている事に意味がある」
ノアが構えを取る。〈キキ〉も攻撃動作に入った。ヨハネは度し難いとでも言うように肩を竦める。
「分からないのか……。無理もない。ノアズアークプログラムの執行者は既に今、私であるからな。ノア・キシベ。お前はただの、造り物の人形だ」
ニダンギルが二本の切っ先を合わせる。次の一撃で決めようとでも言うのだろう。ノアは息を詰めた。一瞬で決まる。その予感に身体が震える。
「一進化ポケモンが未進化ポケモンを倒せぬ道理はない。最初からこの戦いは無駄だ」
「無駄かどうかはあたしが決める」
フッと口元に笑みを浮かべ、「愚かな」と言い捨てたヨハネが動いた。ニダンギルが〈キキ〉とノアへと襲いかかる。ノアは〈キキ〉と同調を走らせようとした。この身が引き裂けようとも、命尽きようともヨハネを倒さねばならない。
その意志に殉じようとした、その時である。
白光が天地を引き裂くようにヨハネとノアの間に降り立った。最初、それが雷撃のように感じられたノアは咄嗟に身を引いたが、ニダンギルとヨハネはそうはいかなかったらしい。唐突な訪れに驚愕する前に新緑の光が神速を伴ってニダンギルを叩きのめした。ニダンギルと同調状態にあったヨハネはその衝撃を満身に受ける事となった。吹き飛ばされる瞬間、ヨハネが呻く。
「き、貴様は……!」
赤い光を携えて隻腕の影がヨハネを睨み据える。オオスバメを戻してその影はニダンギルを打ち据えたポケモンを呼んだ。
「リーフィア」
リーフィアが額の新緑の刃に光を灯したまま傍に侍る。ノアが呆然と呟いた。
「……リョウ」
「悪い。根回しに遅くなった」
《隻腕の赫》の異名を取る男はノアのほうに一瞥も向けず、ただヨハネに敵を見る目を据えている。既に臨戦態勢に入っているリョウから放たれる殺気は深く静かなものだった。怒りでも、悲しみでもない。
ただ、止めねばならない。使命と意志によってヨハネの前へと屹立している。