最終章 八節「亡霊」
そんなはずはない。
だが、どこかであり得るかもしれない、と感じている自分もいる。
ヨハネはイシスとの戦闘を打ち切る事にした。感知野を拡大させ、ノア・キシベの意識を探る。生きているのならば、感知野の網に引っかかるはずだ。だが、どうしてだかノアの気配は全く感じられなかった。ヤミカラスと繋がっているのならば同調か、あるいはそれに近い気配の糸を手繰り寄せられる。
「どうしてだ? ヤミカラスからは何も感じられない」
ヤミカラスが身を翻す。まるで付いて来いとでも言うように。ヨハネは歯噛みした。まだ、この段階になっても邪魔立てするとは。
「……いいだろう。せめて尊厳くらいは味わわせてやろうという私の手心が仇となったか。ならば、死の尊厳すら向こう側に置いていく!」
死体を細切れにして、一欠けらすら残すまい。ヨハネは駆け出した。イシスからは背中を向けた形となるが既にガメノデスは戦闘不能だ。ロキの攻撃を警戒しないのはタブンネの戦力など知れているからだったが、ノアがまだ生きているとなれば話は別だ。彼女達は、そのたった一つの希望を糧に、また立ち上がるだろう。それだけはあってはならない。希望などという淡いものは叩き潰さねばならないのだ。
「ノア・キシベ! 生きている事を後悔する事になる!」
ニダンギルとヨハネは同調する。感知野の網をシロガネ山全域に広げるが、野生ポケモンの動きや木々のざわめきが邪魔をして気配に集中出来ない。最後の戦いに向けて余計な人間は全て排除したというのに今度は自然現象が邪魔をしてくる。
ヨハネは手始めに近場にあったウィンドウを叩き割った。ニダンギルの一閃が走ると、がらがらと音を立ててガラスが砕け散る。その中に奇妙な意識の一片を感じ取った。
「そこだ!」
ニダンギルの猛攻が旋風となって駆け抜ける。しかし、苔むした岩肌を削り取っただけでその攻撃は生命反応を捉えなかった。ヨハネは今一度、自分に確認するために声を発する。
「確かに、心臓を突き刺した。その感触はある。だと言うのに、ノア・キシベは生きていると言うのか。不可能だ」
心臓を貫かれて生きている生命体などいない。ヤミカラスとの同調も確認出来ない。ヨハネは中空を漂うヤミカラスを見据えた。攻撃すれば何らかのリアクションはあるか。しかし、罠という可能性も否定出来ない。どうして、ノアは生きていたとしてヤミカラスだけを射程範囲に置いたのか。何故、本体は顔を出さない。
ヨハネの中で嫌な予感だけが肥大していく。もしかしたらノアは既に死んでいて、その意思だけがヤミカラスを動かし、今の状況を作り上げているのだとしたら。亡霊を相手に、どう戦うと言うのか。
逸る思考を押し留めるように、「落ち着け」と声にした。襟元を引っ張って風を入れる。冷静な判断が必要だ。そう感じた矢先に、ひやりとした感覚が感知野を震わせた。
何かが地面を這いつくばって自分の足元に触れた。
ヨハネは雄叫びを上げて即座に足元へと攻撃を加える。地面が抉れ、砂塵が舞い上がった。息を切らして腕を薙ぎ払う。同期したニダンギルが刀剣を振るった。砂煙が引き裂かれ視界が戻るが、そこには何もいなかった。
汗が額を伝う。鼓動が早鐘を打つ。「落ち着け」と言い聞かせながらヨハネは靴に触れた。僅かに濡れており、手元に翳すと血の赤だった。
「ノア・キシベは重傷だ。それも瀕死の。だと言うのに、どうしてだか生きている。いや、生きているのか……」
這い登ってくる恐怖を否定しようとヨハネは、「死者は!」と声を大にした。
「いい加減に地面をねぐらにしていればいいのだ!」
ニダンギルがヨハネの思惟を感じ取って周囲へと攻撃を加える。ディスプレイされたオブジェがバラバラに砕け、血潮のような土煙がそこらかしこから上がった。ニダンギルの猛攻を抜けて攻撃など出来るはずがない。感知野の網を誤魔化す事も不可能だ。
「――なら、この現実は何?」
差し込まれた声にヨハネが顔を上げる前に何かが手首を掴んだ。悲鳴を上げそうになりながらヨハネはニダンギルに指示を出す。
「こいつだ! 攻撃しろ!」
ヨハネは恐怖に恐れ戦きながらも相手の手を掴んでいた。だがそれは死体のように冷たい。
果たして、それを攻撃する事に意味はあるのか。その疑問を氷解する前にニダンギルが自身のすぐ傍を切り裂いた。びぃん、と空気が震える。自分の手首を掴んでいた何者かは背後に回っていた。
「恐怖しているな。ヨハネ」
まさしくノアの声だ。だが、瀕死にしては落ち着き払っている声に不気味さが伴う。ヨハネは自分の身体ごと、振り返った。風に煽られるようにその対象がよろめく。ニダンギルの攻撃を全て受け止めたそれは全身に傷を作っていた。ぴしり、と亀裂が走ったかと思うとそれは空気に溶けるように消えていった。
「身代わり、だと……」
残滓を見つめながら、ならば本体は? とヨハネは考える。身代わりが破壊された空間から影が歩み出てきた。ぽとり、ぽとりと血が滴る。ヨハネが顔を上げると、そこにいたのは確かに抹殺したはずのノア・キシベだった。
「……馬鹿な。心臓を貫いたんだぞ」
その事実を裏付けるようにヨハネは胸元を見やった。確かに、身体の中心に傷痕がある。そこから血も滴っているがほとんど傷は塞がっていた。血もぱらぱらに乾いている。驚愕に眼を見開いていると、ノアの眼が赤く輝いた。まさしく自分と同じ光を湛えた相手にヨハネは理解した。
「なるほど。クラックの能力。それで自身の、身体機能を欺いたのか。心臓を貫かれれば死ぬ。血液が循環しないから当然だろう。だが、今のお前は、それでも生きていると錯覚している」
ノストラのエンシェントに近い使い方だ。恐らくはその戦いから身につけたのだろう。
「まさしく亡霊というわけか。ノア・キシベ!」
怨嗟の声を、ノアは冷静な表情で受け止めた。