ポケットモンスターHEXA NOAH - 最終章
最終章 二節「もう一人の自分」

 トキワシティを覆ったアルケーの能力による死傷者数は不明だった。

 だが、その混乱が逆に言えばルイ一人の死を大げさにする事はなかった。パソコンに向かうリョウの表情からは喪失の痛みを窺い知る事も出来ない。呆然と、ただやるべき事だけをこなしているかのようにキーを打っている。その横顔に言葉をかける事も出来なかった。ノアは自分にはその資格はないのだと拳を握り締める。たとえルイの似姿であろうともルイになれるわけではない。悲しみを癒すのはリョウ自身でなければならない。

「よし。繋いだ」

 リョウの言葉に顔を上げると通信ウィンドウが開き、一人の男の姿が映し出された。目の下に濃い隈がある。顔には十字を描く傷跡があった。物々しい顔立ちとは裏腹に、その人物は温厚な声音を発した。

『リョウ君。久しぶりだね』

「ヒグチ博士。状況を説明する」

 画面越しにいるのが先日リョウの口より語られたヒグチ博士だという事をノアはようやく察した。キシベの計画を見抜いた人間。ポケモン群生学の権威。イシスは、「あなたが……」と興味深そうだった。有名な人物なのだろうか。

『こちらでも少しだけ状況が動いたんだ。でも、まずはそちらの状況を聞くよ』

「ルイが死んだ」

 放たれた言葉にノアでさえも息を詰まらせた。博士はノア達よりもより一層、と言った様子だった。目を慄かせ、冗談だろう、とでも言いたげだったがリョウの眼差しが真剣なのを感じて言葉を仕舞ったようだった。幾度かの逡巡の後、『……そうか』と現実を呑み込んだ。

『残念だった』

 きっと、その一言では言い表せないものがあるのだろう。ノアには言葉の裏側まで解するものがなかったが、彼らは十年来の付き合いだと言うのだったら特別な感情が介在しないわけがなかった。

 リョウは怒りもしない。ノアはてっきり、「それだけかよ」と憤るとでも思っていた。だが、リョウは言葉少なに、「ああ」と首肯しただけだ。

「俺のせいだ。俺がついていながら」

 リョウが顔を伏せる。ルイを守ると誓っていた。その誓いは戦った自分だから分かる。あれは生半可なものではない。それを砕かれたリョウは今までのような超然とした振る舞いではなくなっていた。何も出来ない一個人を持て余している。

『リョウ君。君のせいじゃない。きっと、誰のせいでもないのだろう。そこにいるのは』

 博士がノア達に気づく。ノアは頭を下げた。

「ノア・キシベです」

 この名乗りを博士はどう感じるのだろう。ナンバーアヘッドだと発見したのは博士だと聞く。それなのに造り物が今でもキシベの名を名乗っているのは滑稽に映っただろうか。しかし、博士は馬鹿にする風でもなく、『そうか。君が……』とノアを見やった。

『心中察するよ。ノア君』

 博士はノアを造り物だと断じなかった。一個人として扱ってくれている。その言葉の節々には博士自身の痛みもあるような気がした。

「イシス・イシュタル。思想犯です」とイシスが自己紹介し、ロキが頭を下げた。

「ロキです。モノマネ娘、イミテの子供です」

『そうか。数奇な巡り合わせだな。君達は、獄中で知り合ったのかい?』

 イシスが代表して頷き、これまでの事を説明する。刑務所内でのノアの無力化をはかったヨハネ。その真意はノアズアークプログラムに必要なクラックの能力を安全に奪う事だった。自分達はその過程で出会い、力を合わせる事になった、と。全て聞き届けた博士は目を細めた。

『それでノアズアークプログラムを止めようと、君達は戦ってきたわけか』

 イシスは、「はい」と首肯する。博士は、『どこにいても、因果なものだ』と呟いた。まるで過去の傷痕を見返すように。

『ノア君。今の君にはもうクラックの能力はないんだね』

 確認の声にノアは、「はい」と返した。だが、全くなくなってしまったのかと問われると疑問ではある。ノストラとの戦闘時、クラックの残滓のようなものを感じた。それがなければ敗北していただろう。もしかしたら、とノアは思う。ほんの一欠けらでも、自分の中にクラックが眠っているのではないのだろうか。しかし不確定な要素を口にする場ではない。

『全てはヨハネが、か。リョウ君。ヨハネの過去の経歴を調べた』

「本当か?」

 リョウが僅かに顔を上げる。博士は重々しく頷き、『どうやら事はそう簡単ではないらしい』と前置いた。

『ヨハネはキシベと面識がある。国際警察に勤めている友人からの情報でね。ロケット団残党勢力の壊滅時に、キシベと一度会っている。公式にはこの一度だけだが、私は恐らくはこの一度だけではないと考えている』

「何度か会ううちにノアズアークプログラムの執行者に選ばれたってわけか」

『そう考えるのが妥当だろう。キシベは慎重を期していたはずだ。場所、タイミング、人、全ての条件が揃うのは十年後か、その近似だろうと踏んでいた。恐ろしい男だよ』

 博士の言葉にはしかし、キシベという人間をただ客観的に見ているだけではない悔恨が滲んでいた。まるでよく知っているかのような――。だが掘り下げるべきではないとノアは判断した。

『ノアズアークプログラムは事前に話していた通り、日食の時に効果を発揮する。クラックの能力が鍵となり、キシベの言う完全な世界≠ヨの扉が開く。それは即ち、現行人類の終焉だ』

 博士は両肘をついて重々しく口にする。ノアは、「……させない」と呟いていた。全員の視線がノアへと向けられる。ノアは博士を真っ直ぐに見据えて声にする。

「あたしが絶対に止める」

 自分はノア・キシベ。呪われた名を持ちながらこの計画を止められる唯一の人間である。ノアの決意に博士は目を見開いていたが、やがて、『なるほど』と納得した。

『ナツキ君を思い出すな……』

 呟かれた名前が誰なのかノアには分からなかった。リョウは、「そのナツキだ」と口を挟む。

「どうにか、来れないのか?」

『無理だろう。いくらこの計画が大きなものだとはいえ確証はないんだ。一地方のチャンピオンを動かすには足りていない』

「俺が動くのがやっと、ってところか」

 リョウは舌打ちを漏らす。博士は、『残念ながら、ね』と首を横に振った。

『リョウ君。メガシンカは使えるかい?』

 博士の言葉にリョウは、「残念だが」と胸元をはだけさせた。包帯が何重にも巻かれており、その下には鋭い傷痕があった。

「ヨハネにやられた。多分、メガシンカは使えない」

『そう、か』と博士はそれを見て何度か頷く。一縷の希望が途絶えた思いだろう。ノア達もメガシンカの戦力を期待していただけに衝撃は大きい。ルイも死んでしまった。ヨハネを止めるには自分とイシス、それにロキでは足りないのではないか。無力感にノアは拳を握り締める。

「だけど、俺は、まだ諦めてねぇ」

 リョウの言葉にノアは顔を上げた。「博士、教えてくれ」とリョウが身を乗り出す。

「俺に出来る事を。今、すべき事を」

 一番悲しみに打ちひしがれそうな身体を無理やり動かしてリョウは模索している。自分に出来る事を。しなければならない事を。その在り方はノアには眩しく映った。ルイの死に悲しみたいだろう。怒りたいだろうに、全ての感情を押し殺して前に進もうとしている。

 これが強さか、とノアは痛感した。ただ腕っ節があるだけではない。リョウには心の芯に強さがある。博士は、『分かっている』と心得た声を返す。

『リョウ君。有事に四天王は動かせるかい?』

 四天王という響きにノアは身を強張らせた。事態はそこまで深刻なのか。しかし、リョウは頭を振った。

「俺の単独で動いている。四天王を動かすとなればセキエイに話を通さなきゃならねぇ。日食までは」

『三十時間程度だ』

「足りないな。俺が出来たとしても、せいぜいシロガネ山への交通規制程度だろう」

『分かった。ならばシロガネ山への交通規制、あるいは検問を張るといい。ヨハネを止められるとは思えないが……』

 博士が懸念事項を口にする。ヨハネは既に逃げ切っている可能性が高い。今さらに交通規制を張っても意味がないかもしれないのだ。

「いや、博士。余計な犠牲を出さずに済む。シロガネ山への交通規制を張ろう。その前に」

 リョウはこちらへと向き直った。ノアへと声を振り向ける。

「お前らはヨハネを止めるために動いてくれ。車は俺が手配する。お前らがシロガネ山に到着するのと同時に検問を張る」

 その言葉にノアは込められたものを感じた。自分達で向かえという事はつまり――。

「チャンピオンは動けないって事か?」

 イシスが代わりに疑問を発する。リョウは頷いた。

「俺が出来る事はチャンピオンの権限をフルに使う事。もうこの状況になってしまっては、な。個人で動くには限界がある。国際警察が絡んだ事件となれば国際問題に発展しかねない。だからこそ、隠密に動いてきたが、もうそんな悠長な事は言っていられねぇ。四天王を動かすのは無理でもシロガネ山から人払いするぐらいは出来るだろ」

 リョウは自分が戦えない代わりにノア達に託そうとしているのだ。それが分かったイシスが、「でも、わたし達では」と声を発する。

「止められないかもしれない」

 弱気な発言に、「でもやらなきゃならねぇ」とリョウが言い放つ。最早、退路は消えた。ノアは、「やりましょう」と強い口調で歩み出る。

「ノア? しかし、これは無茶だぞ」

 イシスの言う事は分かる。今まで全く敵わなかったのだ。リョウとルイでさえ同時に相手取るヨハネを自分達だけで倒す事は出来ないだろう。だが、ノアは身のうちから湧き出る熱に任せてイシスへと目配せした。

「イシス。もう、無茶だとかそういう事を言っていられる場合じゃない。ヨハネは日食の時を迎えようとしている。あたし達はヨハネを倒し、ノアズアークプログラムを止めなければならない」

 それだけが、自分達に出来る事ならば。ノアの決意に博士が、『やはり、どの時代にもいるのか』と意味深に呟く。

『私にも出来る事があれば言ってくれ。何でも力になろう』

 博士の言葉を受け、ノアの中で決意は固まった。ヨハネを止める。それしか方法はない。

「一刻も早く向かう」

 ノアが身を翻そうとしたその時、『そうだ。ノア君』と博士が呼び止めた。振り返ると、神妙な顔をした博士が、『会わせたい人がいる』と口にする。

「会わせたい人?」

 誰だろう、とノアが考えていると、『来てくれ』と博士が椅子を立ち上がった。代わりにパソコンの画面越しに椅子へと座った人物にノアを含む全員が息を呑んだ。

「あたし……?」

 そこにいたのは青い髪をしたノアの似姿だった。赤い瞳を強気に細めている。どこか気圧されるような印象を与えた。

『なるほどな。お前が、もう一人の私か』


オンドゥル大使 ( 2014/11/27(木) 22:27 )