ポケットモンスターHEXA NOAH - 最終章
最終章 一節「白銀の頂」

 シロガネ山へと向かうゲートは普段ならば封鎖されているが、国際警察の権限を使えばそこから先に踏み込む事は容易であった。しかし、その手続きと共にヨハネは国際警察の滞在期限の延長を迫られていた。

 トキワシティに長居は出来ない。ヨハネは途中にあるゲート内の端末を使って滞在期限の延長申請を行った。

『ヨハネ・シュラウド警部。カントーでの滞在期間は残り八時間です』

 機械のガイド音声がそう告げたのでヨハネは本部へと自分の身分証明と暗証番号を送り、残り半年分の期限延長を選択した。

 半年も期間は必要ない。あと二日あれば事足りたがその二日が問題だった。R01Bを殺した事でチャンピオンから逃れる事は難しくなった。どこかに身を隠す必要があったがどこに行けばいいのだろう。ヨハネはトキワシティで過ごすはずだった期間を使ってシロガネ山へと赴く事にした。

 どっち道滞在期間を過ぎれば自分の全ての権限はロックされる。この世界の命運が残り二日とはいえ、半年分の期限延長を申請するのは不利益ではなかったが、この申請によって自分の居場所が割れる危険性はあった。もっとも、今国際警察である自分を追っているのはチャンピオンとノア達のみ。バックグラウンドに何らかの協力者がいるとしても表立って動いているわけではないだろう。

 付近のタクシーを拾って車中に揺られながら窓の外を見やる。この十年でシロガネ山近辺はすっかり様変わりした。以前までならば、実力あるトレーナー以外の踏み込みを禁じていたカントー政府はヘキサ跡地への観光客誘致を目的に、ある程度の身分証明は必要でありながら検問の重要性を低くしていた。

 穢れさえもカントーは己の糧にしようとしているのだ。その姿勢にヨハネは侮蔑の眼差しを向ける。

 不浄の地、というイメージが先行し、カントーがいかに愚かしいのかが理解出来る。ヘキサ跡地へと向かうには乗用車でなくてはならない。下の草むらがある道路を使えば徒歩でも可能だが、事態は一刻を争った。トキワシティでの無駄な消耗、さらにはチャンピオンとの交戦も視野に入れなければならないヨハネにとって、すぐにでも約束の地に向かわねばならない。急務であり、悠々とピクニック気分でシロガネ山を登る気持ちにはなれない。

 シロガネ山にも道路が敷かれ、五合目までは乗用車で通行が可能だが、それ以上は徒歩になる。もっとも、ここまで登ってしまえば後はエレベーターも配備されており、頂上を目指すのは容易だ。

 ヨハネは左胸に手を触れる。鼓動が爆発しそうであった。クラックを手に入れてからの体調の急変が、今になって襲いかかる。冷や汗が額に滲み、何度か目元を拭っていると、「お客さん、大丈夫で?」と声がかけられた。ヨハネが顔を上げると、運転手がフロントミラー越しにヨハネを見やっている。

「体調が悪い時に無理してシロガネ山に行く事はないですよ。山に足なんかついちゃいないんですから」

 運転手は微笑んだが、ヨハネは仏頂面を崩さずに、「私は、今行かねばならない」と応じた。

「そうでなければ禍根を残す。全ては、このためにあったのだ。十年という月日。それが何のためにあったのか」

 運転手はヨハネの様子に辟易しながらも、そういう客とのやり取りにも慣れているのか、「とは言ってもですね」と口を開く。

「シロガネ山は厳しいですよ。何てたって、ジョウトとカントーを隔てる最高峰の山だ。そういや二年前に世界遺産に登録されましたし、お陰で行きやすくなって、観光客も多いですよ」

 暗にいつでも行けるという事を言いたかったのだろう。だが、ヨハネはそこら辺の観光客とは違う、理由がある。十年という月日。キシベの望んだ時。それが眼前に迫っている。ヨハネは左手首のポケギアを見やる。時間はあと三十時間。

「皆既日食があるみたいですね」

 渋滞に視線を配って運転手がハンドルに手を置く。シロガネ山から皆既日食を見ようという観光客も多いのだろう。特設道路は混雑している。

「ご職業は? 何をなされてるんで?」

 運転手が暇を持て余したのか、ヨハネへと声を振り向ける。「公務員だ」とヨハネは答えた。

「へぇ、公務員。だとしたら余計に分かりませんな。どうして、シロガネ山に?」

「大事な約束がある」

 その約束の相手がキシベだと知ればこの運転手はどう反応するだろうか。警察に通報でもするのか。自分こそが紛れもない国際警察だというのに。

「約束ですか。いいですな、そういうのも」

 運転手が渋滞の先へと視線を投げながら呟く。ヨハネは声を発していた。

「この世界、君は磐石だと思うか?」

 唐突な質問に面食らったのだろう。運転手は、「何ですって?」と眉をひそめる。

「ポケモンと人間が共存するこの世界だ。どう思う?」

 この解答次第で今さら信念を曲げようとは思わない。ただ、この世界に生きている、この世界を当たり前だと信じて疑わない人間の意見を今一度聞きたかっただけだ。

「どうって……、別にどうも思いませんよ。だってそれが当たり前じゃないですか」

 ヨハネは、「この道路も」と顔を伏せる。

「ポケモンの脅威を恐れたから作られたものだろう。本来ならば高レベルのポケモンが出現するシロガネ山付近に道を作ろうなどという酔狂な計画は持ち上がらなかったはずだ」

「そこにはやっぱり十年前のヘキサ事件が関わっているんでしょうね」

 運転手はまるで現実味のない言葉の一つとして、その事件の名前を口にした。自分にとっては親友を失った事件であり、この世界の在り方を問いかける一撃だった。だが、一般人からしてみればあの事件もただ消費されていくだけの事柄なのだろう。そういう事件が「あった」のは覚えている。

 しかし、だからどうした、という話だ。ヘキサ事件の影響で物流、経済、地方間のパワーバランスが崩れた。支配被支配の関係が形成され、カイヘンはカントーからして見れば属国、奴隷国家となった。

「あの事件で、君は何を見ていた?」

 ヨハネの質問に運転手は笑った。

「何だか尋問を受けているみたいですねぇ」

「気負わなくっていい。ただ純粋に、思った事を」

「そうですねぇ」と運転手は後頭部で手を組む。ヨハネはちらと運転手のネームプレートを見やった。まだ二十六歳。ヘキサ事件当時には学生だった年齢だ。

「これで何か変わるのかな、みたいな期待はありましたよ」

 運転手は前を見たまま答える。ヨハネは、「何か、とは」と呟く。

「知りませんって。ただ漠然と、何か。私らなんかよりもずっと前の世代は、ロケット団壊滅時に何かが変わったと思ったみたいですが。そういや、最近、世代別のバラエティ番組がやっているじゃないですか。何世代だとか区分けして」

 ヨハネにも記憶にはあったが、番組名までは思い出せなかった。

「あの番組曰く、我々の世代って何も知らない、無知な世代らしいですよ。でも、そうなってくると、今度はヘキサ事件すら知らない、さらに無知な世代が出てくるわけです。私としちゃ、勝手にラベル貼られてかわいそうですね」

「かわいそう、か」

「ですよ。ロケット団壊滅だって私らの世代よりちょい上です。でも、それを知らないと訳知り顔の大人からしてみればかわいそうなんですよ。知らないなんて嘆かわしいってね。でも、知っていれば偉いんですか、っていう」

 タクシーが動き出す。運転手はハンドルを握り、「だってそうでしょう?」と続けた。

「知っていることが素晴らしいわけじゃないでしょう。そりゃ、ヘキサ事件があった時、私みたいなのは動画サイトに齧りついていましたよ。テレビの向こう側で空中要塞がカントーに向かってくるのだって、性質の悪い特撮みたいでしたもん。それを侵略行為だって騒いだのはカントーであって我々市民じゃないんですよ。国益が損なわれるから、って大義名分があったんでしょうけれど、私らからしてみれば、突然やってきた物事に勝手にラベルを貼り付けた役人のお仕事だったって話です」

 カントーに生きる声の一つなのだろう。ヨハネはそれを聞き届けてから、「カントー側の被害はほとんどなかった」と告げる。

「シロガネ山が一時期立ち入り禁止区域になったくらいか。不幸中の幸いか、カントー側ではイージス艦を沈められた以外での被害はさほどなかった。もし、これで他の街にでも落ちていれば大惨事だっただろうな」

「そうなれば、カントーもウィルの支配権限をより強めたでしょうね。今では手綱を握られる側になっていますが」

 カイヘンに罪をなすりつけ、地方連盟の席で何度もカイヘンの役人に向けてシロガネ山の惨状を写真で示していたのが思い出される。その度にカイヘンの人々は頭を下げた。

 しかし今では、ウィルはブレイブヘキサと名前を変え、カントーと同じ立場での交渉の矢面に立とうとしている。決して頭を下げ、全てを悪かったというだけの過去の反省に身を置くのではなく、ではこれからどうするのかに着眼した政策でカイヘンはカントーにとって分の悪い相手として屹立している。

「どうして世界がこんな風になってしまったのか、考えた事は?」

 ヨハネの問いかけに運転手は笑った。

「ありませんよ。なるべくしてなったんじゃないですかね。ヘキサ事件も、何もかも。私らみたいな市民の視点なんて、結局のところ意味がないんですよ。大きなうねりの前にはね」

 運転手の認識は多くのカントーの市民の認識のそれだろう。なるべくしてなった。カイヘンへの恨みはないが、それもうねりの中の一つ。ヨハネには脆弱と安寧の前に、怠惰な頭を持て余すカントーの人々の縮図が運転手の姿を取っているようだった。

「では、君は、ポケモンが何故存在するのかも考えた事はないのか?」

 運転手は、「そうですねぇ」と小首を傾げた。

「私はあまりいい大学の出じゃないもんで。ポケモントレーナーの道も一度は考えたんですけれど、やっぱり安定した職種でしょう。トレーナーの受け皿が安定していないカントーでトレーナーやるよりかは、こうして運転手したほうが随分とマシに思えたんですな」

 運転手の言葉にはトレーナーを蔑むような響きもない。ただ当たり前に、この道が最良だと信じた人間の言葉だった。このような時代の只中にあっても人間は安定したものを好む。時代を揺り動かす一撃があっても結局のところ、意味がなかったのではないかと思わせられる。

 キシベの行動は、このような人間達を目覚めさせるためにあったはずなのに、彼らは目覚めるどころか、より深い惰眠の中に自身を落とし込むだけだ。その在り方にヨハネは言葉を発しようとした。その時、鋭い頭痛が言葉を遮った。頭を抱え込むと、「どうなさったんで?」と運転手が尋ねてくる。

「……何でもない。君は運転に集中したまえ」

 ヨハネの声に、「そう言われましても」と運転手は戸惑った。

「病気の人間をシロガネ山へと連れて行くわけには――」

「運転したまえと言ったんだ!」

 ヨハネは声を荒らげた。紙幣を取り出し、「金はある」と握らせた。

「私を、シロガネ山、ヘキサ跡地へと連れていってくれ」

 運転手は渋々ながらその金を受け取り、「……着いたらポケモンセンターがあります」と告げた。

「人間でも、急患なら診てもらえるでしょう。恐ろしく顔色が悪いですよ」

「大丈夫だ」

 ヨハネは顔を上げたがフロントミラーに映る自分の顔は最悪に近かった。青ざめた表情で赤い眼だけが煌々と輝いている。

「とにかく私はこのまま五合目まで走らせますが、そこから先は」

「ああ。自己責任で歩く。そこまでは頼む」

 無言のうちに了承させ、ヨハネは先ほどまでの会話を思い返した。

「もし、この世界が間違っていたとしたら、どうする?」

 ぐわん、ぐわんと視界が揺れる。運転手は戯れ言だと判断したのか、「そんな事はありえませんよ」と言ったが、「たとえ話だ」とヨハネは譲らなかった。

「この世界が、何かしらの間違いの上にあるのだとしたら」

 うわ言のように繰り返される言葉に運転手は、「そうですね」と呟いた。

「だとしたら、我々の存在だって間違いなんでしょう」

 ハンドルを切る運転手の言葉をヨハネは吟味した。この存在そのものが間違い。だとすれば、生きている意味とは何だ? どうして人と人は出会い、何かを成そうとするのだ?

 ヨハネにはそれが分からない。キシベとの出会いに意味があったと信じたいが、未だにそれは霧の中の出来事のように掴もうとしては消えていく幻だ。

 五合目には大きめのロータリーが取られており、新しく建てられた白亜の建物がヘキサ跡地へと被さっている。まるであの日の出来事を記憶から消そうとでも言うように。

「着きました」

 タクシーの後部座席が開く。ヨハネは、「感謝する」とだけ言い残して歩き出した。息を切らして入場ゲートへと辿り着き、入場手続きを終える。山中だから空気が薄いのではないかと思ったがそれだけではない。関節が凍結してしまったかのように動けない。危うげに歩むヨハネの前で入場者が締め切られた。

「防犯上の観点で、ここで入場者を締め切ります」

 警備員の声にヨハネは立ち止まる。すると、一人の男が歩み出てきた。

「あっ、この人は僕の連れです。一人くらいいいでしょう?」

 どうやらヨハネの事を言っているらしい。男の言動に警備員は訝しげな眼差しを向けながらヨハネを通した。本来ならば国際警察の権限を使えば入れるのだが、事を荒立てたくないという側面からあえて一般客を装っていた。男は、「いやーツいていますね」とヨハネへと話しかける。

「みんな、皆既日食をカントーで一番高い山であるシロガネ山で観たがっている。そうでなくっても、シロガネ山といえば一時期強いポケモンが多く生息していたんですが、最近になってこういう施設が出来て。そういう点ではヘキサ様々ですな」

 男の言葉はどこか皮肉めいている。ヨハネが無視を決め込んでいると、「顔立ち、カントーの人間じゃないですね」と顔を覗き込んできた。

「イッシュかカロスの人ですかね。他の地方から来る人って珍しくない。僕はこれでも一週間に一度、シロガネ山に登っているから分かるんです。そういう他地方の人と話すのが半分趣味みたいなものでしてね。イッシュとかカロスの山のほうが標高高いんでしたっけ? あれ? そもそも山あったっけな? すいませんね、何分虫食いの記憶なもんで。でも、僕は――」

「話し相手なら他を当たれ」

 ヨハネは冷たく言い捨てる。

「私はその程度の事に恩義をわざわざ感じさせる君のような人間が大嫌いなものでな」

 男は瞠目したがやがて咳払いして施設内へと入っていった。『皆既日食を見よう』というキャッチコピーのシーエムが流れる。

『ついに二日後に迫った皆既日食ですが、皆さん、きちんと見る準備は出来ていますか? 目視は大変危険で失明の恐れもあります。日食グラスを用意して観ましょう』

『世界遺産登録されたシロガネ山』

 アナウンスとテレビのニュースの声が混在する。ヨハネは危うげにぶれる視界の中でその言葉が脳内をわんわんと残響するのを感じた。

『シロガネ山は十年前、空中要塞ヘキサが衝突し、一時期立ち入り禁止区域に指定されました。放射線などの異常が感知される可能性もあったからです。しかし、今ではきちんと瓦礫が取り除かれ、ヘキサ跡地は整備されました。以前のような綺麗なシロガネ山の外観を望む事は不可能になりましたが、二年前には世界文化遺産の登録もされ、さらに今年中には平和遺産登録もされようとしています。十年前と今を結ぶシロガネ山に、あなたも未来を馳せてみませんか?』

 ヨハネは動悸が早まるのを感じた。頭痛で視界が歪む。極大化した感知野が人の声を拾い上げる。

「高い山だー!」、「でもシロガネ山ってヘキサ跡地があるんでしょう?」、「もうテロリストの心配なんてしなくていいんだって」、「こういうのがあるからもうカントーにテロなんて仕掛けようとは誰も思わないでしょ」

 ヨハネはその場に膝をついた。その瞬間、ホルスターからヒトツキが飛び出した。緊急射出ボタンを押した覚えはない。ヨハネが額を押さえているとヒトツキが弾かれたように動いた。先ほどの男へと一直線に向かっていく。その姿が二重像を結び紫色の残像を帯びた。

「な、二本の剣……!」

 男が叫び声を上げる前に、剣が男の首を刎ねた。



オンドゥル大使 ( 2014/11/27(木) 22:26 )