最終章 最終節「Not Only Alone Human」
ロキは慟哭した。
その声は闇色の洪水の中に吸い込まれていく。
背中から着水し、息が出来なくなる思いを味わった。だがその感覚はすぐに失せる。
少しずつだが闇が天空へと吸い込まれていくのだ。それはロキとて例外ではなく、浮力を伴った身体が宙を漂った。ヨハネは雷鳴轟く中、自分を探して首を巡らせているのが視界に入ったが、すぐに闇の飛沫が遮った。自分の身体が鉛のように重く感じられ、全身から力が抜けていく奇妙な感触を覚えた。まるで遥か彼方、生物が存在する以前の母体の中にいるかのような安息感と、それとは正反対の今すぐここから出なければという切迫した感情が入り乱れる。
ロキは漂いながら、カントーの陸地を見た。カントーの陸地は少しずつ波で削れその地表が徐々に移り変わっていく。ジョウトとの繋ぎ目も変化し、山々は抉れて谷底のように暗いるつぼへと落ちていった。
この世界はどうなってしまうのか。ロキには何一つ分からなかった。
雷撃の白光と闇の洪水とが黒と白のコントラストを作り出し、黒白の彼方へと誘われる。この世界はどこへ向かうのか。気がつけば、草むらという場所が消え失せていた。洞窟も闇で洗い流された。
ポケモンが棲んでいたであろう場所は侵食され、人間が住んでいた場所は言わずもがなだった。ロキには時間の感覚はなかった。日食は続いたまま、空の扉が闇を吸い込み続ける。本当に世界を覆い尽くしていたのではないかと思えるほどにその総量ははかり知れなかった。
ロキはその中で胎児のように丸まった。意識の表面にノア達と出会ってからの事が鮮明に思い出される。
最初はヨハネの言葉を信じ込み、ノアを消せば母親が戻ってくるものだと思っていた。だが、ノアはより強固な意志を持って自分を打ち破り、ヨハネの首筋へと刃を突き立てた。
ノアは自分の知る限り誰よりも強く気高い。イミテに教えられた事はモノマネだけだったが、ロキはノアを通して母親とは何か、母性とは何かを感じ取っていた。ノアはどこまでも真っ直ぐに、自分の信念を貫き通した。クラックの能力を利用し、自らを利用してまでヨハネへと辿り着こうとする強固な意志の輝き。自分達はそれに魅せられたようについていく事を決めたのだ。
イシスの声が思い返されロキは涙を浮かべた。このまま永遠の孤独の中に自分の身体と精神が晒されるかに思われたその時、上空から吸い上げてくる勢いが下がった。唐突に無重力状態のような嫌な浮遊感が続いたかと思うと、何度か光が明滅した。日食で闇に染まっていた景色が罅割れるように消し去られた。
目を開く。視界に入ったのは人々の足並みだった。ブーツを履いている女やコートを羽織っている男などが目につく。どうやら季節は冬のようだった。しかし先ほどまでいたカントーは秋口だったはずだ。ロキはまずその違和感に気づき、周囲を見渡して唖然とした。
高層ビルが立ち並び、威圧的に見下ろしているのは話に聞いただけの都会を連想させたが、入ってくる情報は意味不明だった。
ロキは交差点の真ん中にいた。人々が足早に去っていく中、目に入る景色を確認する。「109」と掲げられた円筒状のビルを中央として道が割れている。建物があり得ない間隔で密集し、ロキにはそれが都会というよりも密林に近いのではないかと思わせた。
雑多な喧騒がロキを気にも留めないで歩いていく。ロキにはどうしてだか、それらの人々がトキワシティやマサラタウンで見た人々、もっと言えばふたご島刑務所の人々とも違うと感じた。
この違和感は何だ。
まるで別の惑星に降り立ったかのような奇妙な感覚は。ロキは今すぐにでも逃げ出そうとしたが、この群衆の誰にも頼れない事は明らかだった。人波が割れて、一瞬だけ沈黙が降り立つ。
その最中にヨハネが立っていた。
全身に血飛沫を浴びているヨハネはこの人々の中にあっても異質であるらしい。集団が避けていく、または嫌悪の眼差しを向ける者もいたが誰一人として叫び立てはしなかった。
「イミテの娘よ。お前と私は、ただ二人だけ、この真実の世界へと、偽りの世界の記憶を伴って訪れた」
それは紛れもない自分に向けられた言葉だとロキは悟った。能面を被ったように無関心な人々の中、一人だけ浮いた存在であるヨハネは歩み出す。
「ここは……」
ロキの狼狽に答えるように、「真実の世界、私とキシベの求めた完全な世界≠セ」と告げる。しかし、ロキには何が違うのか分からなかった。この世界が何なのかさえも。
「教えてやろう。この世界はポケモンのいない世界。ポケモンと人間の共存関係など存在せず、人間がこの世の頂点に立ち、歴史を突き詰めた結果の世界だ。今ならば分かるぞ、キシベ。この世界は西暦2015年の日本。その首都、東京の渋谷だ」
ヨハネが感じ入ったように言葉を発する。ロキには理解出来なかった。ポケモンのいない世界? だが、と自分の腰に視線を落とす。そこにはモンスターボールのホルスターがあった。
「本来ならば、それさえも持ち込む事は許されない。私はこの真実の歴史の上に立つ世界を守るために、ポケモンを捨て、排除しなければならない。この私のギルガルドでさえもな」
ヨハネがギルガルドを繰り出す。その時になってようやくヨハネの姿を認めたかのように群集は瞬く間にパニックの渦中へと放り込まれた。悲鳴が上がり、「何だ?」、「警察! 警察!」と声を上げる。
「美しい世界を守るためにお前と所持ポケモンは不要なのだ。ギルガルドを破棄する。その前に、お前という存在は消し去らねばならない」
その言葉にロキは逃げ出した。だが、群集がそれを邪魔する。「無駄だ」とヨハネは答える。
「この世界そのものが私の味方だ。だからお前の位置が分かったし、どこに行ってもお前の存在を感知出来る。この世界の異物であるお前を排除せよと歴史の強制力が告げているのだ」
ギルガルドがブレードフォルムに移行し、ロキを追い詰めようとする。ロキはタブンネを繰り出した。しかし、タブンネでは歯が立たないのは自明の理だ。
「言わなかったか? 刑務所で配布したポケモンは私のポケモンには相性上勝てない事になっていると。聖なる剣を一撃、それだけでタブンネは死ぬ」
ギルガルドが身を返して刃をタブンネへと突き立てようとした。その一撃でロキをも屠ろうと考えていたのだろう。タブンネへと指示を飛ばす前に衝撃波が身体を嬲ろうとした。
攻撃を回避しようとして無様に倒れ伏した身体からことり、と何かが音を立てて落ちた。視界に入れた瞬間、ロキはノアの言葉を思い返した。タブンネはロキの盾となったようだ。立ち竦んだタブンネの身体に斜の傷痕が走る。それが一瞬にして貫通し、ロキの顔に血糊が張り付いた。
「私はギルガルドを捨てる。捨てて、この世界の人間になるのだ。その前の、ただ一つ、些細な、たった一つの間違い。それだけを訂正しなければ」
ヨハネの言葉にロキは拳を握り締めた。
「いいや。お前は、この世界の人間になんてなれやしない」
突然にロキの声音が変わったからだろう。ヨハネが、「何だと?」と歩みを止める。ロキは握り締めていたそれを掲げた。
虹色の石があしらわれたペンダントだ。それと同時に身体を変身させる。成る人間はただ一人――。
「……R01B」
ヨハネが声に出す。ロキはルイの姿へと変身を果たし、ホルスターを見やった。もう一つだけ、自分の手持ちポケモンがいる。ヨハネもそれを察知したようだ。ハッとした表情で、「何を……」と声を詰まらせる。ロキは緊急射出ボタンを押し込んだ。
「いけ! リザードン!」
手の中でボールが割れ、中から光を振り払って現れたのは真紅の翼竜だった。尻尾の炎を燃え上がらせ、咆哮を轟かせるポケモンはルイの手持ちであったリザードンだ。ヨハネは一瞬怯んだようだったが、「それがどうした」と持ち直す。
「リザードン程度で私を――」
「止める。ルイさんのリザードンなら、止められる」
ロキはもう一方の手に朱色の宝玉を握っていた。それが意味するところをヨハネは感じ取って声にする。
「まさか……」
「リザードン、メガシンカ」
ロキの能力が完璧であったのは対象を模倣するという点において、だ。リザードンはルイからの命令だと判断し、朱色の宝玉の力を受け入れた。宝玉が砕け散り、内部の炎がリザードンを包み込む。炎の殻を突き破ってリザードンが現れた。否、それはリザードンの元の姿ではない。
より鋭角的に変化した体躯と、腕から生えた翼と、大型化した両翼を携えた新たなるポケモンだった。尻尾の炎がより勢いを増して燃え上がる。炎熱が周囲の大気を巻き込んで熱風が渦を成して吹き込んだ。
その中央に佇む翼竜の咆哮と共にロキが声に出す。
「――メガリザードンY」
ルイの使っていたメガシンカとは違う、もう一つのリザードンのメガシンカ形態だった。その姿にヨハネは呆然とする。
「馬鹿な。メガシンカが可能だっただと……。同調状態でもないのに」
「ボクのモノマネ能力を過小評価してもらっちゃ困る。声の質や内部骨格だけじゃない。相手の特性さえも、理解しているのならば模倣出来る」
それが出来たのは何も自分だけの力ではない。ノアが教えてくれたのだ。自分に出来る事を。成すべき事を。
「メガリザードンY、攻撃」
「させるか!」
ヨハネがギルガルドへと動きを促す。絶対防御の盾である「キングシールド」が展開されようとしたが、それは不完全であった。メガリザードンYの炎を纏いつかせた爪による一閃が打ち破る。
「まさか、ここで、だと……」
信じられない事のようにヨハネは口にする。「キングシールド」が破られたギルガルドは丸裸も同然だった。
メガリザードンYが足先から炎を発する。やがて全身に纏いつくように構築された赤い光が明滅したかと思うと炎の檻がヨハネとギルガルドを囲った。必殺の一撃の予感にヨハネが声を上げる。
「何をしているのか、分かっているのか! この世界こそが真実なのだ。本来、ポケモンとはあってはならないものだった。人の知覚を支配し、生態系を狂わせ、世界の理を捩じ曲げた。私のクラックの能力も、フリーズも、エンシェントも、アルケーも、全てポケモンが生まれながらに備えている能力なのだ。奴らは侵略者だ! この世界、この次元での私の死とお前とリザードンの生存はまた歴史を歪めるぞ! それこそ、あの偽りの世界の再現だ。ロケット団がまた生まれ、キシベのような存在が必要になってくる。ポケモンが跳梁跋扈する事に誰も疑いもしない、あの気持ちの悪い世界が、また……!」
ヨハネの言葉にロキは、「違うよ」と返した。
「お前は、ただ寂しさを紛らわせたいだけなんだ。自分の孤独を誰かの孤独だと思いたかった。ボクは確信する。人は、誰も孤独ではないと」
誰かが支えてくれる。誰かが傍にいてくれる。だからこそ、人は生きていられるのだ。それはポケモンだとしても同じである。
ヨハネは頭を振って叫んだ。
「やめろ! 知った風な口を聞いているんじゃないぞ!」
ヨハネは胸元に手をやり、「この孤独が!」と胸を締め付ける真似をする。
「誰かに分かるものか! 誰にも理解出来まい。あの絶対の孤独を、世界との付和による歪な感情を、もう誰かに味わわせるわけにはいかないのだ!」
思いの丈をぶちまけられた気分だった。ヨハネは身も世もないように自分の感情を発露する。ロキは一言だけ、自分のオリジナルの声で呟いた。
「――寂しいんだね」
その声にヨハネが目を見開いた瞬間、炎の檻が火柱を上がらせた。地面から湧き上がった炎熱にギルガルドは一瞬にして焼け焦げた。最期の瞬間、ヨハネの断末魔が聞こえたような気がしたがロキはもう聞くまいと感じていた。炎が渋谷という街を引き裂いた。ロキはメガリザードンYに視線をやる。既に役目を終えたその眼差しには諦観めいたものがあった。
「帰らなくちゃ」
しかし、どこに? とロキは立ち止まる。
ノアは死んでしまった。あの世界の事柄は全て幻のようにこの世界では意味がない。群衆が喚く中、装甲車がパトランプを明滅させて走り込んできた。中から武装した警官隊が出撃し、ロキへと銃口を向ける。
『未確認の兵器を有する対象を確認。発砲許可を』
無線の声が響く中、ロキは、ああ、これが、と感じていた。この世界において異物であるのはヨハネと自分、それにポケモンなのだ。ロキはメガリザードンYに一瞥をくれてから、「お疲れ様」と声をかける。労いの声にメガリザードンYは鳴き声で応じて、モンスターボールに戻した。
その瞬間、放たれた銃声がロキを貫いた。
ロキは仰向けに倒れ込む。交差点の白い点線に自分の血が沁み込むのを視界に入れた。手元へと転がったモンスターボールを見つめる。
きっとこれでいいのだ。
ヨハネの望んだ世界ではなくなるだろう。かといってノアが望んだ終わりでもないだろう。
モンスターボールの叡智を開くのに人類は何年、いや何十年かかるだろうか。その間にポケモンは増殖し、この世界を侵食する。
もしかしたらヨハネのような人間が再び現われるかもしれない。
だが、そのような不安と同じくらいにロキは満ち足りていた。混乱が訪れるとしても、その時にはきっと希望も訪れるのだと信じているからだ。
「――もう一度、会えるかな。お姉ちゃん」
たとえ「ロキ」という自分でなくとも。そう感じて目を閉じた。痛みは不思議となかった。
天地が逆巻き、世界が再び闇に呑まれるまで、それだけはあり続けた。
たった一個のモンスターボール。その叡智の扉を開くのは誰なのか。
今はまだ、誰も知らない。
Not Only Alone Human.