最終章 十三節「パーフェクトワールド」
視界に映ったのは貫かれた胴体だった。
ギルガルドの前面に展開された防御壁に穴が開き、ギルガルドのほぼ半身が焼け焦げている。それと同調していたせいだろう。ヨハネの横腹にも同じような傷痕があった。弾痕を浴びせかけられたのに近い。腹部に穴が開き、ヨハネが血反吐を吐く。
ロキの眼には終わったと思われた。ノアの意志の強さが〈キキ〉を動かし、ギルガルドの鉄壁の防御を打ち破ったのだと。
勝利、の二文字が眼前に掲げられたのを予感したロキは次の瞬間に聞こえてきた声に目を瞠った。
「……まさか、ここまでとはな」
口にしたのは他でもない、ヨハネだった。横腹を押さえながら、「この傷」と続ける。
「クラックの能力を得ていなければあるいは、という瀕死の重傷だろう。だが、ノア・キシベ。お前が自分を欺けたようにほぼ完璧なクラック能力を持つ私が自身の脳を欺けないと思っていたのか?」
ロキは双方を見やる。ノアは膝を落としていた。ヨハネが唇を歪める。
「時間切れだな」
ノアの胸元から血が滴り始めていた。それはノアのクラックが終わりを告げている事を示している。
「そんな……。お姉ちゃん……」
呻いてもノアは応じもしない。胸元から滴る血を認めた後に、ノアは大きく喀血した。身体がもがれたのではないかと思われるほどの痙攣を起こし、「あたし、は……」と呻き声を上げる。
「ここまでだ、という事だ。ノア・キシベ。お前はよくやった。常人ならば屈している運命に立ち向かった事は賞賛に値する。だが、全てはこのヨハネを押し上げる要因に過ぎなかった」
ヨハネは静かに歩み寄ろうとする。リョウは、とロキは視線を走らせたがリョウは身体をほぼ一文字に両断されていた。生きているのか死んでいるのか分からない。血の海の上で身体を折り曲げたまま動かない。そのポケモンであるリーフィアも同じだった。額から背中にかけて鋭い傷痕が一つ。それが致命傷だったのだろう。緑色の血が止め処なく溢れている。
ヨハネがノアへと止めをさそうとする。ギルガルドは健在だった。攻撃を真正面から受けたといっても戦闘に差し支えはないようだ。ただヨハネは確認するように何度かキングシールドを展開した。しかし不完全な形でしか銀色の防御壁は形作られなかった。
「キングシールドを機能不全に追い込んだか。そこまでの意気やよし。だが、忘れてもらっては困る。ギルガルドは何も守るだけのポケモンではない」
盾をスライドさせ、布の手でがしりと掴む。ブレードフォルムへと変貌したギルガルドが攻撃を加えようとした。
その時、水の剣がその行き先を阻んだ。ちらと目をやると、イシスが〈セプタ〉と共に応戦の構えを取っている。
「まだ、勝負は終わっちゃいない」
イシスの声にヨハネは醒めた様子で、「終わっているさ」と答える。
「ノア・キシベは限界を迎えた。チャンピオンは既に死亡している。後は君とイミテの娘だけだが、この際言っておく。君達に私が全力を出す必要があるか?」
イシスがその言葉に応ずる代わりに〈セプタ〉へと指示を飛ばす。水の剣を〈セプタ〉は突き出し、ギルガルドを切り裂こうとしたが、それは真逆の結果に終わった。
ギルガルドの放った剣閃はたった一つ。その一閃だけで、〈セプタ〉の三本の腕を駆使した剣戟はことごとく防がれたどころか、胸元に切れ込みが至った。
「もう一度、確認の意を込めて言っておこう。私が全力を出す必要があるか、と訊いている。イシス・イシュタル」
イシスは埋められない圧倒的な力の差に歯噛みするしかない。〈セプタ〉が再び攻撃の手を突こうとするが、その前に一撃が〈セプタ〉の胸部に食い込んだ。先ほどの攻撃で脆くなった箇所へと容赦のない攻撃が走り、亀裂が青い岩の体表を満たしていく。
「イシス・イシュタル。まだ間に合う」
ヨハネは冷酷に言葉を告げる。
「私の側につくというのならば、君には真の世界を見せよう」
その申し出にイシスは、「お断りだ」と突っぱねた。
「ノアを殺した。チャンピオンを殺した。それだけじゃない、お前は多くの人生を弄んだ。そんな奴の示す世界なんてこちらから願い下げだって言っているんだ」
イシスの返答にヨハネは、「残念だ」と言葉面だけ取り繕い、指を鳴らす。
次の瞬間、〈セプタ〉が胸元から砕け散った。八つ裂きにされた〈セプタ〉の血の残滓が舞う前にギルガルドが剣を振るい、その存在の価値さえも消し去ろうとする。イシスは思わず駆け寄り、〈セプタ〉の一部だった岩の欠片を手に取った。
「……〈セプタ〉」
「君に一分でも後悔の念があるのならば、私について来てもいい。ポケモンは、どうせこの際必要ないのだからな」
その言葉にイシスは唾を吐きつけた。ヨハネの靴に飛んだ一点の唾を見下ろし、「これは、どう取るべきかな」とヨハネが首を傾げた。
イシスは中指を立てる。
「クソッタレって意味だ」
放たれた言葉が消える前にギルガルドの放った一閃がイシスの首を落とした。唾とは比較にならない血飛沫が舞い散る。ごとり、と落ちたイシスの首が転がり、驚愕に見開かれたままの眼がロキを見据えた。ロキは覚えず胃の中のものを吐き出した。胃液で喉の奥が熱い。強烈に残る死の臭いにロキは息を切らす事しか出来ない。
「イミテの娘、かわいそうだとは思わないし年少だからと加減するつもりもない。お前にとって私は母親の仇だからな」
ロキは荒い息を漏らしながら目の前に立つヨハネを見上げる。圧倒的現実として立ちはだかるヨハネの背景には闇の雨が降りしきっている。世界は割れ、空が崩壊して白と黒が乱舞する。容易に終わりを意識させる光景だった。
タブンネが狼狽する。トレーナーである自分の不安を感じ取っているのだろう。ロキもどうすればいいのか分からなかった。タブンネでは勝てない事は明白だ。特性である癒しの心も、死んだものには届かない。
もう何もかもが手遅れだった。この際命乞いでもしようか、とロキは考えたが次のヨハネの言葉がそれを遮断する。
「逃げるのならば一撃でも撃って来い。そのほうが後悔はないぞ」
暗に逃げても逃げなくても殺すと言っているようなものだった。ロキはその場から動き出せなくなった。一歩も動けない。指先の筋一本でさえ自由ではない。圧迫されて呼吸困難に陥りそうだった。
「真の世界のために、お前達は邪魔なのだ。イシス・イシュタルは」
ヨハネはちらりと首から上のないイシスの死体を一瞥し頭を振った。
「残念だったよ。私と似たような感性の持ち主だったから、もしかしたら、と思ったんだが。彼女とならば、私は完全な世界の夜明けを見てもよかった。キシベ以外、誰かと見るつもりのなかった完全な世界だが、彼女とならば価値があるような気がした。随分と昔に死に絶えた感情だが、まだ私にもあったか」
ヨハネは独白するが隙は微塵にもない。タブンネが行動しようとすれば、あるいはロキが逃げ出そうとすれば、即座に首を刎ねるくらいなんて事はないだろう。
「完全な世界への扉は開き切った。偽りの世界は闇に呑まれ、真実の物語が幕を開ける」
空を仰ぐと扉と思しきシルエットは開き切っており、金環日食の太陽がまるで鍵のように中央に佇んでいる。
「偽りの世界は排除されるのだ。そしてお前もまた偽りの一人」
闇の洪水の中、生きているものがいるとは思えなかった。シロガネ山、ヘキサ跡地にいる自分達くらいしかこの世界で呼吸をしている人間はいないだろう。
「運命の残酷さには私も参る。子供を手にかける事を許したまえ、真の世界よ」
最早猶予はなかった。ロキは応戦するしかないのだが、タブンネ共々硬直してしまって役に立つとは思えない。
その時、天地が逆巻いた。少なくともロキにはそう映った。今まで地表を滅ぼす事しかしてこなかった闇の洪水が不意にやみ、轟く雷鳴の後に今度は天へと吸い込まれていくではないか。ロキには巻き起こっている事象の判断もつかない。
「時間切れだな。無駄話をしている暇もない」
何の事を言っているのだがさっぱりだったが、ロキは自分の残り時間はもうない事を思い知っていた。
――死ぬ前に何か、何か出来ないか。
そんな姑息な考えに身を浸そうとした時だった。ロキは背後から引っ張り上げられた。