最終章 十二節「幕」
「何だ、これは……」
リョウが呟きを漏らした直後、闇の塊はまるで泥のように地表へと降ってきた。瞬く間に下界が闇の塊に呑まれる。ノアには闇がある程度の意思を持って街々を噛み砕いていくのが分かった。
「これがノアズアークプログラム……」
イシスの呆然とした声に、「その通り!」とヨハネが応じた。黄金の瞳は爛々と輝き、燃え盛っているように見える。瞳孔には赤い縁取りが成されており、まさしく猛獣めいて映った。
「現行人類終焉の時だ」
ノアはヨハネが何を行っているのかまるで理解出来なかった。クラックの能力だけではない。もっと別の、開けてはならないパンドラの箱を開いたかのような焦燥に駆られる。
「これは、闇が、真っ黒いものが、世界を、呑み込んでいる?」
ロキがたどたどしく言葉を紡ぐ。そう形容するしかなかった。シロガネ山から窺える範囲の世界が空から降ってくる闇の泥の中に埋没していく。
「私はこの世界をクラックし、完全なる世界を呼び起こす。そのために、現行人類とポケモンには一度消えてもらわねばならない」
ヨハネが言葉を発する間にも世界は位相を変えていく。このままでは空の扉から止め処なく闇が押し寄せてくるばかりだ。闇は洪水のように世界を無言のうちに終わらせようとしている。
「……ざけんな」
ようやく口を開いたのはリョウだった。鋭い戦闘の光を双眸に湛え、ヨハネを睨み据える。
「こんな事が正しいわけがねぇ。てめぇ勝手に世界を終わらせる事なんざ」
「正しい、正しくないで済む話かね? 既に転がり出した石だ」
ヨハネの言葉にそうかもしれないと諦観する自分もいた。この世界は闇の洪水によって無に帰す。マサラタウンも、ふたご島刑務所も、全てが。今まで出会ってきた人々も恐らくは死を意識する間もなく終わりに誘われるのだろう。
マリアも、サキも。たった一人の母親と姉だと言ってくれた人も。この世界の終わりには等しく無力だろう。ノアは顔を伏せた。もう全てが意味を成さないのかもしれない。無駄な足掻きに終わったのかもしれない。
「……それ、でも」
拳を握り締める。ノアはキッと顔を上げてヨハネを見据えた。その瞳にヨハネは、「ほう」と声を漏らす。
「まだ反抗する気かね?」
「意味はないのかもしれない。世界は滅びるのかもしれない」
ノアは立ち上がり胸の前で拳を固め自分を鼓舞するように叩いた。
「それでも! この胸には! 命は! なかった事にしてはいけない! あたしはノア・キシベ。最後の最後まで、あんたを止める!」
〈キキ〉が呼応して動き出す。ヨハネは既にギルガルドを扱う事さえ無駄だと感じているようだった。
「ドリルくちばし!」
螺旋を描いて攻撃する〈キキ〉をギルガルドが前に出て止める。
「私はこの世界で唯一、生き残る資格を持っている。クラックの能力、ノアズアークプログラムとキシベとの約束がその証だ!」
「そんなもの、打ち砕いてみせる!」
闇の洪水が止まる様子はない。泥が分散的になり、雨のようにぱらぱらと降り始めた。顔にかかる水は湿っぽいというよりかは人肌に近い。ノアは白い髪を振り乱して叫ぶ。
「思い通りにはさせない!」
「何故だ。何故ここまで圧倒的な終わりを見せつけられてなお、諦めない? これは確定した運命だ。ノアズアークプログラムの向こう側こそ、真に人類が目指すべき場所なのだ」
その時、不意に剣閃が遮った。ギルガルドが後ずさる。ノアもそれを目にした。
リョウのリーフィアが傷を負いながらも果敢に佇んでいる。
「リョウ……」
「俺も同じ気持ちだ、ノア。世界が終わりって言うんならよ、最後の最後に俺達が足掻く。全ての人類の幸福なんて知った事か。運命なんて鎖は気に入らないんでね」
リーフィアが全身の毛を逆立たせた。満身の刃を発生させ、リーフィアがギルガルドへと突っ込む。ギルガルドは当然攻撃を受け止める。その瞬間を狙っていた。
「今だ! 行け! ノア!」
ギルガルドを押さえているうちに、〈キキ〉が「ブレイブバード」のオーラを推進剤のように焚きながらヨハネへと直進する。
「バラバラに砕かれるか、粉々になるまで止まらないって言ったわよね」
ノアは覚悟の相貌をヨハネへと向けた。
「――だったら、そうなるまで攻撃する」
〈キキ〉がヨハネへと突っ込もうとする。ギルガルドがブレードフォルムへと一瞬にして変身し、刀剣でリーフィアを両断した。リーフィアと同調していたリョウにも傷が及び、身体から血飛沫が舞う。それでも構わずに叫んでいた。
「突っ込め!」
ノアが雄叫びを上げる。〈キキ〉が青白いオーラを回転させて拡散し、ヨハネを射程圏内に据えた。
「ぶち破れ!」
呼応して叫んだ声にヨハネは、「まだだ!」と手を振り翳した。ギルガルドが一瞬にして前に立ち現れる。「かげうち」の能力の応用だろう。ヨハネ自身の影からギルガルドが出現し、〈キキ〉の攻撃を防ごうとする。
「キングシールド!」
銀色の防御壁が煌き、二つの光が相乗した瞬間、闇色に染まった世界に刹那の光が弾けた。