第七章 十七節「さよならの向う側」
メガゲンガーが拳を振るい上げる。黒い疾風が巻き起こり土煙がカマイタチの鋭さを帯びた。
「フシギバナ、花吹雪」
リョウが放ったフシギバナが身体を揺らめかせ極彩色の壁を形成する。小さな花びらで構築された「はなふぶき」の壁は一瞬にしてメガゲンガーの攻撃を受け止めるだけの物量へと変化する。さらに、それは攻撃へと瞬時に転じた。
フシギバナの放った花吹雪の一閃がメガゲンガーを叩きつける。メガゲンガーはルイを守るように手を掲げた。リョウが口走る。
「十年前と同じか……! ルイを苗床にしてやがるんだ」
ノアには十年前がどのようであったのかは分からない。ただ、今のルイとメガゲンガーがただのトレーナーとポケモンの関係でない事は確かだ。慎重に事を運ぶ必要があると判断する一方で、「何とか」と口を開く。
「ルイさんとゲンガーを分断する方法は?」
リョウは苦々しい顔で頭を振った。
「十年前にもそれは分からなかった。俺はこいつを相手取ったが、分離したのはヘキサツールを得たからだ。ルイの力が必要ないと判断するや、こいつは見限った。だが、今回は二の轍を踏むとは思えない」
つまり十年前の勝利の再現は難しいという事なのだろう。ノアは歯噛みすると共に、「なら!」と声を弾かせる。
「別の方法を探すまで! 〈キキ〉、ドリルくちばし!」
螺旋を描いて〈キキ〉がメガゲンガーの額にある金色の眼を狙う。せめて影踏みの特性を無効化しようと考えたのだが、メガゲンガーは全身から紫色の瘴気を棚引かせて〈キキ〉の攻撃を阻んだ。
「弱点なのか……」
「ノア。影踏み特性の無効化はやめたほうがいい」
リョウは初めて自分の名を呼んだがそのような感傷に浸る前に、「どうして?」と尋ねていた。
「ヨハネを逃がす結果になる。俺達はぎりぎりまでこいつを引きつけなければならないんだ」
リョウの言う事は分かる。影踏みを無効化すれば一番にこの街から出たいのはヨハネのはずだ。しかし、とノアは左胸の時計盤をさする。
「この滅びの歌の、リミットは?」
「俺の鼓動で計算すれば三十分弱ってところか。戦っていると余計に早まるかもな」
リョウはしかし、先ほどまでより落ち着いているように見える。本当の自分を取り戻したのか。ノアが観察していると、「ぼさっとすんな」と声が飛ぶ。
「何とかして、メガゲンガーを倒すんだろうが。同じ方向から攻撃したって意味がない。やるんなら挟み撃ちだ」
リョウがメガゲンガーの右側へと回り込む。ノアは左側へと回り込んだ。メガゲンガーはリョウのほうへと視線を向けた。脅威度が高いのは明らかにリョウだからだろう。ノアはその背中へと攻撃を突き刺そうとした。
「〈キキ〉! ブレイブバード!」
〈キキ〉が水色の筋を引きながらメガゲンガーへと突っ込んでいく。しかし、その道筋を突然迸った影の炎が打ち消した。
「背中でも見えているって言うの……」
ノアが呟くと、「感知野だ」とリョウが反対側で口にした。
「ルイの感知野を最大限に使っている。ヘキサツールを使っていた時みたいに変幻自在ってわけじゃない。だからルイを手放せないんだ」
その事実は同時にある希望を見出していた。
「ルイさんの、意識はある」
そうでなければ感知野を使えないはずだ。リョウは首肯した。
「呼びかければ返事がある……ってのは希望的観測か。どちらにせよ、ルイを殺す気はない。だからこそ、つけ入る隙はあると俺は思っている」
もっとも、この会話の意図がメガゲンガーに割れているのならば意味はない。メガゲンガーの眼は本能の赤で爛れていたが、同時に知性も兼ね備えているような気がした。
「リョウ。このゲンガーは」
「ただのゲンガーじゃない。十年前と同個体かまでは判別つかねぇが、恐らくは俺達が相手にしたのと変わらない戦力だろうな」
ノアは最悪の事態を想定する。自分達の会話と作戦がルイを通じて、いや、通じていなくともゲンガーは理解しており、その上を行かれる可能性だ。そうなった場合、こちらの不利に転がる。だが、ノアはあえて言葉を減らそうとは思わなかった。
「〈キキ〉の攻撃を防ぐって事は効くって事だと捉えていいのよね?」
「ああ。効かない攻撃ならばこいつは十年前みたいに影に身を浸せばいい。そうじゃない。このメガゲンガーは、そうそう自由に身体を変化出来ないって事だな」
その作用にはルイが関わっているのだとノアは直感的に理解した。ルイがメガゲンガーを留めているのだ。その真意がノアには見当がついていた。
――ルイはメガゲンガーを呼び起こされたのを利用してヨハネを倒すつもりだ。
「ほろびのうた」が使用された事と影踏みという特性を最大限に利用している事からも明らかだ。この街でルイは全てを決するつもりなのだろう。だが犠牲が伴う。だからこそ、自分をもしもの時にはリョウが殺せるようにしている。影の翼を広げて飛翔されればフシギバナの攻撃は通らない。〈キキ〉で応戦するしかないのだがそれが現実にならないのはルイが理性の一線を引いてゲンガーを律しているのだと分かった。
「呼びかけを続ける、か」
ノアの言葉にリョウは、「いや」と首を横に振った。
「けりをつけよう。ゲンガー。てめぇとは十年前に決着をつけたつもりなんだが、リターンマッチと行こうぜ」
リョウは自分ではルイを殺せない事を知っている。だからあえてゲンガーと決着をつけるつもりでいるのだ。つまり、ルイの命を奪うのはノアの役目という事になる。
重い役目だと思う反面、自分でしかそれは出来ないと冷静に判断もする。リョウでは迷いが生じる事だろう。イシスやロキには任せられない。同じ血を分けたノアでしか、この因縁に決着をつけられないのだ。
ノアはルイを狙えるように周回軌道に駆け出す。リョウは立ち止まり、メガゲンガーの注意を向けさせた。
「フシギバナ、花びらの舞」
フシギバナが花弁を回転させて巨大な花びらの竜巻を形成する。「はなふぶき」よりも鋭敏なそれはメガゲンガーの右腕へと振りかかった。メガゲンガーが影の腕で弾く。
「まだだ!」
リョウの声に呼応してフシギバナが鳴き声を強く上げる。メガゲンガーを覆い尽す花びらの刃が雨のように降り注いだ。ルイを傷つけかねないと分かっていながらも、これはノアのために作られたチャンスなのだと分かった。
「やれ! ノア!」
迷うな、と声音から伝わってきた。自分は出来ない。それを判断し、ノアに全てを任せようとしている。ノアはルイの横顔を視界に捉え、「〈キキ〉!」と鋭く声にした。
「ドリルくちばし!」
螺旋を描き〈キキ〉の身体がルイへと弾丸の如く直進する。メガゲンガーが弾こうとするが、「させねぇ!」とリョウが声を飛ばした。
塵芥が寄り集まり、地面から巨大な蔦が姿を現す。密集し、蔦はまるで樹の幹のようになった。一本が人の胴ほどもある蔦が数本、顕現してメガゲンガーの両腕を縛り上げる。
「十年前と同じ、とっておきだぜ! ハードプラント!」
メガゲンガーが乱杭歯の並ぶ口腔を開き吼えた。その声に気圧されそうになりながらもノアはルイだけを狙った。〈キキ〉の嘴がルイへとかかるかに見えた、その時である。
一筋の剣閃が軌跡を掻き消した。〈キキ〉は戸惑って翼をばたつかせる。リョウが視線を向けた。回転しながら〈キキ〉の攻撃を防いだのは剣の形をしたポケモンだった。
「ヨハネのヒトツキか!」
忌々しげにリョウが口にする。ヒトツキは〈キキ〉の攻撃を防いだ代わりにルイを柄にある眼で見定めた。狙いをつけているとノアが判じた瞬間、その身体が弾けた。切っ先を向けて真っ直ぐにルイを貫こうと迫る。
ノアが〈キキ〉へと指示を飛ばす時間もない。絶望的に思われた瞬間を封じたのは降りてきた蔦だった。巨大な蔦が壁のように屹立する。ヒトツキの切っ先が突き刺さる。リョウが痛みに顔をしかめた。
「……来るのを待っていたぜ。ヨハネ」
その言葉にノアは後ろへと振り返る。手を振り翳したヨハネが赤い眼をぎらつかせて、「何を」と口にしていた。
「てめぇは、絶対にルイの命を奪いに来るだろうと思っていた。ノアよりも先にな。随分と長話をしていたみたいだが、俺達はぎりぎりまで引きつける必要があった。それはメガゲンガーじゃない。てめぇだ」
ノアはヨハネを視界に捉える。厳しい顔立ちの中に、「なるほど」とヨハネは笑みを浮かべてみせた。
「私をトキワシティから逃がさぬためか。それにR01Bを私が殺すと踏んでいたのは、賭けだっただろう。もしかしたらやり過ごすと思わなかったのかね?」
「思わなかったな。なにせ、お前はどうにかして生き残らなきゃならない。そのために手っ取り早いのはルイを殺すことだ。メガゲンガーを殺すなんて、そのポケモンじゃ無理だからな」
最初からトレーナー狙い。それはノアも思っていた事だ。刑務所でも真っ向勝負は避けていた。何よりも、ヨハネは自分の不始末は自分でつけるタイプだと分析していた。
「第三使徒を名乗る奴がこの状況を作り出した事を、てめぇは心のどこかで悔いていたはずだ。……てめぇに悔いなんて人間的な感情があるかどうかはともかくな。けりをつけに来るのは分かっていたのさ」
リョウにはその確信があった。だからフシギバナをあえてメガシンカさせなかった。リョウは服を引っぺがす。胸元に虹色の石が埋め込まれていた。
「俺の天井を見せるわけにはいかない。腐っても国際警察だ。対策を練ってくるだろう。だから、このぎりぎりまで、俺はお前を引きつける必要があったんだ」
フシギバナが紫色の殻に包まれる。それと同期して組み込まれた石にリョウは左手を当てた。
「メガシンカ」
勝った、とノアは感じた。メガシンカはメガリザードンXとメガゲンガーしか目にしていないが確実にポケモンの能力を引き上げるはずだ。今よりもフシギバナが強くなればヨハネのヒトツキ程度では相手を出来なくなる。それは自明の理だった。
「――させると思っているのか」
ヨハネの眼が赤く輝く。その瞬間、しまった、とノアは感じた。駆け出しそうになったノアがつんのめる。時間が止まっていた。メガシンカの途上のフシギバナも、リョウも、メガゲンガーもルイでさえも。
「そうか。この時間に、君はついて来れるのだったな。ナンバーアヘッド」
ヨハネが言い放つ。ノアは〈キキ〉と共に睨み据えた。
「あたしだけがあんたを倒せる」
〈キキ〉は既に臨戦態勢に入っている。しかしヨハネには戦う意思はないようだった。頭を振って、「私は君と合い争う気はない」と左胸の時計盤をさすった。
「今は等しく、破滅の歌の支配下にある。だが、君達のほうが随分と時の進みが速いようだ」
ヨハネの秒針はゆっくりと刻まれている。それに対してノアやリョウの秒針は進んでいた。戦っていたせいだ。
「私を追い詰めるよりも早く、君達は死に瀕する事だろう」
ヨハネの言葉にノアは、「だからって」と言い返す。
「何もしないわけにはいかない」
「ではどうする? この静止した時間の中で、私と戦うかね? 言っておくがナンバーアヘッド。今は君ですら相手をしているのが惜しい。先にR01Bを始末しなければ」
ヒトツキがヨハネの声に呼応して動く。ノアは声を張り上げた。
「させない! 〈キキ〉!」
〈キキ〉がヒトツキの前へと回り込む。ルイを守るように立ちはだかった〈キキ〉へとヨハネは、「つくづく呆れたよ」と口にした。
「おめでたいと言い換えてもいい。君が守りたいのは何だ? 現行人類か? この世界か? それとも目先の人間の命か? 目的の定まらない人間の動きとは、こうも解し難い」
ヒトツキが剣の身体を振り翳して〈キキ〉へと立ち向かう。〈キキ〉は翼で受け止めた。
「君達は、全くの同調状態ではない存在。ならばこそ、この私のクラックの世界観について来られる。だが、ミスを犯したな、ナンバーアヘッド。ノストラとの戦いとリョウとの戦いを経て、君達の関係性は磐石なものになった。そこに穴がある」
ノアは〈キキ〉の反応が遅れている事に気づいた。見透かしたようにヨハネが言い放つ。
「同調ではないとはいえ、信頼関係を築けば築くほどに私とヒトツキの前では不利だ。私を最初から殺すつもりならば、ヤミカラスとの信頼など築くべきではなかった」
ヒトツキが〈キキ〉の応戦の動きを全て見切ったように背後へと回る。その切っ先が首筋へと至った。
「王手だ。ナンバーアヘッドとヤミカラス。この二つは最早私にとって脅威ではなくなった。凡俗へと身を落とした成れの果てだ。君達はあのまま刑務所で刑期終了まで待っていればよかったものを」
その剣先が振るわれる。しかし、刀身は〈キキ〉の身体を捉えなかった。ヨハネが目を見開く。〈キキ〉はヒトツキの真上へと飛翔していた。
「あたしと〈キキ〉の関係性を馬鹿にしないでもらえる? ヨハネ、あんたを倒すためにあたし達はさらなる高みへと至った。それは、あんたみたいにポケモンと人間の繋がりを否定する奴らの言葉なんかで掻き消される領域じゃない。もっと強い部分よ」
〈キキ〉が降下と同時に鉤爪でヒトツキを拘束した。ヒトツキが鞘を振り回して〈キキ〉を払おうとするがその前に〈キキ〉は黒い瘴気を纏った翼の一撃を加えた。
「追い討ち。悪タイプの技は効果抜群のはず。それに長ったらしくあたしへと説教してくれたみたいだけれど、そんなのは意味がないわ。何よりも――お喋りは嫌いよ」
ヒトツキがよろめいたのを〈キキ〉とノアは見逃さない。〈キキ〉はヒトツキを振り払い地面へと打ち落とした。その間に翼を大きく広げ、水色のオーラを纏う。
「ブレイブバード……、いや、さらに先を行った攻撃か。だが、私を殺してどうする? クラックで今は私と君以外の認識が遅れて動いているに過ぎない。それを元の速度に戻せば」
ヨハネの言葉に、「させるか!」とノアが声を弾かせた瞬間、メガゲンガーが漆黒の瘴気を周囲に向かって吐き出した。黒い波動がノアの視界を埋め尽くしていく。その波動の中、ほとんど動きを乱さずに的確に進む影があった。ヨハネだ。ヨハネだけはクラックで相手の隙を見る事が出来る。メガゲンガーの放つ僅かな隙へとつけ込み、ヒトツキはルイの影へと潜り込んだ。ノアは声を上げようとした。「いけない」と。だが、その声は結局喉の奥で掻き消えた。
「影打ち」
影から顔を出したヒトツキの切っ先がルイの身体を後ろから刺し貫いた。
ルイが震える眼差しでそれを認める前にメガゲンガーが叫び声を上げる。メガゲンガーを構築していたと思われる影の核がヒトツキによって砕かれていた。黒い勾玉が粉砕されメガゲンガーが内側へと収縮していく。ヨハネはそれを全て認めるまでもなく、身を翻した。
ようやく認識の追いついたリョウがフシギバナをメガシンカさせる。
しかし、紫色の皮膜が完全形成される前に一閃がリョウの胸元を引き裂いた。血飛沫が舞い、リョウは胸元を押さえる。埋め込まれていた石が砕かれていた。
「てめぇ……、ヨハネ……」
「殺しはしない。だが、メガシンカは封じさせてもらう」
メガシンカが中断され、紫色の殻が空気中に霧散していく。ヨハネを追う前にリョウはルイへと目を向けた。ルイは身体を貫かれており、重傷だった。
「ルイ!」
ノアはリョウの代わりにヨハネへと追撃の眼差しを送る。しかし、ヨハネは涼しくいなした。
「三日後、来るべき約束の時に完全な世界は現れる。もう私を追っても無駄だし意味がない。せめて、平和に暮らすといい」
「逃がさない!」
ノアが〈キキ〉へと攻撃の指示を出そうとするがヒトツキの防御がことごとく阻んだ。
「運命は、私へと向かえと告げている。第四の使徒が私の試練だった。それを乗り越えた私は既にキシベの求める理想の域へと達している」
どうしてだか〈キキ〉の攻撃はヨハネへと通じなかった。ヨハネは背中を向けて堂々と逃げていった。それよりも、とノアはルイへと目を向ける。リョウが付き添ってルイの手を握っていた。影にはゲンガーがまだ存在していたが、既に先ほどのような凶暴さを失っていた。
「ノア!」
イシスの声にノアは振り返る。ロキと連れ立って走ってきていた。その途中、ルイの様子を察したのか歩みが止まっていった。
「ルイ、は……」
イシスの言葉にノアはリョウとルイへと視線を投げた。ルイは震える手でリョウの手を握り返していた。白いワンピースは血で赤く染まっていた。
「ルイ! 死ぬな!」
リョウの必死に呼びかけにもルイはただ安息の表情を浮かべて頭を振るばかりである。ノアは、「ルイさん」と声をかけた。するとルイが視線を向けた。
「……来てくれたんだ。ノア」
ルイは微笑んだ。心の底から嬉しいと感じているようだった。
「リョウ。ボクは、もう」
「そんな事はねぇ! 必ず助けるんだ! そう誓ったんだよ、俺は」
ノアはその誓いが消え去る事を半ば理解していた。リョウとルイは今まで思い出を交し合ってきたのだろう。だと言うのに、このような幕切れはあんまりだった。
「俺は……、ルイ……」
「……リョウ。悲しまないで」
ルイは小さな手でリョウの頬を撫でた。母親のような慈しみも、恋人のような愛おしさも感じさせた。
ロキの名をルイは呼んだ。ロキは歩み寄る。ルイはモンスターボールを取り出し、ロキの手に乗せた。
「これは……?」
「ボクのリザードン。本当は、ヒトカゲのままで育てたかったんだけど」
ルイは照れたように笑う。ロキは嗚咽を漏らした。目元を押さえて、「大事に、します……」と声にする。ルイはリョウへと視線を向けて、「行かなきゃ」と告げる。リョウはその手を引いて、「まだ行くな」と顔を伏せた。
「……まだ、もう少しだけ」
「もっと、リョウと旅をしたかったけれど、この十年間、ボクは……」
そこから先の言葉はなかった。嬉しかったのか、救われたのか、何を言いたかったのかはルイの胸の中に仕舞われたまま永遠に呼び起こされる事はないだろう。
ノアは拳を握り締めた。どうしてここまで運命は自分達を弄ぶ。どうして、ただ生きているだけが出来ない。
リョウは慟哭した。イシスも目の端に涙を浮かべていた。ノアは空を仰いで声を発する。
「ルイ。あなたともう一度だけ、ゆっくりと話をしたかった」
人間としてか、それとも血を分けた姉妹としてか。どちらにせよ、造り物ではない、お互いを認め合った存在として、生きていたかった。
その望みは永遠に絶たれたのだろう。ノアは目を閉じた。頬を熱いものが伝う。左胸の時計盤が消え失せていた。ルイの影もただの影に戻っていた。
全てが何事もなかったかのように時を刻み出す中で、彼らだけは痛みを胸のうちに刻み込んだ。
第七章 了