第七章 十一節「守りたい世界」
まさか、支援に来てくれたのか。ノアが淡い期待を浮かべているとリョウは吐き捨てるように口にした。
「ルイから離れろ。クソ野郎……!」
喉の奥から発せられた怨嗟の声にノアは思わず聞き返した。リョウは、何と言ったのか。
「今、何て……」
「聞こえなかったのか? ルイから離れろって言ってるんだ!」
その声音の強さにノアは覚えず気圧されるものを感じた。鼓動が早鐘を打つのを感じながら、「それは」と口を開く。
「共闘、と取っていいのかしら」
ノアの声に、「何言ってるんだ、てめぇ」とリョウは怒りを滲ませた。
「ぬけぬけとよくも……。ルイを殺そうとするのなら、てめぇも敵だって言ってんだよ!」
放たれた言葉はすぐには信じられなかった。リョウは何かの冗談か、あるいはルイからゲンガーを引き剥がす算段でもつけて言っているのだと思われたが、リョウの放つそれは明確な殺気だった。
「リーフィア」
呼ぶ声と共にノアは後ずさる。自分の目の前にある地面をリーフィアの新緑の刃が抉った。粉塵が舞い上がる中、ノアは〈キキ〉へと指示を飛ばす。
「〈キキ〉っ。ドリルくちばし!」
「マジカルリーフ」
螺旋を描いた〈キキ〉の攻撃をリーフィアの身体から発せられた虹色の葉っぱの数々が防いだ。防御膜のように葉っぱが寄り集まったのだ。〈キキ〉は弾かれた形となって後ずさったが、それに追撃する形で葉っぱが幾何学の軌道を描いて身体に突き刺さった。〈キキ〉が声を上げる。
「〈キキ〉!」
「弱いポケモンで前に出るんじゃねぇ。俺の敵じゃねぇんだよ」
リョウの言葉にはいささかの嘘の香りもない。ただ真実だけを告げているようだった。しかし、ならばなおの事分からない。どうして、リョウはルイを守ろうとしているのか。
「リョウ! ルイさんは、ゲンガーの意思に呑まれている!」
「知っている」
返された言葉にノアが驚く番だった。リョウは、「俺の目的はルイを守る事」と続けた。
「だったら、てめぇだって例外じゃない。ノア・キシベ」
怨嗟の響きを伴って放たれた声にノアは唾を飲み下す。リョウは本気だ。本気で自分を殺そうとしている。
ノアは息を詰めた。覚悟を決めなければならない。ここでルイを殺し、ヨハネを追う。そのためにはリョウという障害でさえ超えなければならない。
「あんた……、トキワの人達がどうなってもいいって言うの」
その言葉にリョウは鼻息で一蹴した。
「それこそ、どうだっていいだろ。何人死のうが知ったこっちゃない」
ノアは、「……そう」と短く告げた後、自身を戦闘態勢に整え上げた。この数日で鍛え上げられた神経を研ぎ澄まし、《隻腕の赫》を視界に捉える。
「だったら、あたしがあんたを倒したって知ったこっちゃないわね」
ノアの言葉に、「出来ると思ってんのか?」とリョウは嘲った。
「クラックの能力もないお前はただの新人トレーナー。俺に勝てる算段でも?」
「ないわ。でも、こうして喋っている間が惜しいくらいには戦闘したつもり。――お喋りは嫌いよ」
ノアは戦闘用に研ぎ澄ました瞳をリョウへと据えた。リョウは、「そんな程度でよ」と肩を回した。
「俺に太刀打ち出来るわけがないんだよ」
戦闘の神経を走らせたリョウはまさしく獣だった。しかも、ただ無闇に獲物を食らう獣ではなく、知性を備えた獣だ。その鋭敏な知性が告げる。
「容赦はしない」と。
ノアとて同じだった。ここで情け容赦をかけて勝てるような相手ではない。何よりも、曲げない意志を持たねば今にも折れてしまいそうだ。
「リーフィア」
リョウが呼ぶとリーフィアが掻き消えた。「しんそく」だと知れた瞬間、ノアは〈キキ〉に指示を出す。
「ブレイブバード!」
水色のオーラを纏った〈キキ〉はリーフィアが現れるであろう場所を予測して突進する。その場所はノアの首筋だった。一撃で首を落とすか、頚動脈を切り裂こうとしていた新緑の刃が勇気の名を携えた翼によって打ち消される。〈キキ〉はその勢いを殺す事なく、リーフィアを押し出した。
「ブレイブバードの余波で、リーフィアを射程外に弾き飛ばそうってのか」
「ブレイブバード」には反動ダメージがある。しかし、それは愚直に攻撃を全身で受け止めた結果だ。受け流す流麗さを備えたのならば反動ダメージを発生させる余波を攻撃のかく乱に転じる事が出来る。
「一回や二回でそこまで至ったのは褒めてやるよ。どうやらお前にはトレーナーの才覚があったらしい。面倒な事にな。――だが、俺とリーフィアは玉座にその身を据えた存在だ」
リーフィアが全身の毛を逆立たせる。葉脈の浮かんだ皮膚は哺乳系のポケモンというよりかは植物タイプのポケモンのそれだった。現に表皮、毛皮は薄い葉っぱのような形状であった。リーフィアは全身から緑色のオーラを発した。その勢いが〈キキ〉の「ブレイブバード」の余波を打ち消す。
「俺のリーフィアは動く必要さえない。ただ少しだけ、お前達の放った殺気に波長を合わせるだけでいい」
ノアは歯噛みした。自分が頭を振り絞って発揮した戦法がこうも容易く破られるとは。
「王の名は、伊達ではないわけね」
しかし、とノアは考えつつ視線を移す。ルイとメガゲンガーは攻撃する気配を見せない。それは自分の見知った存在であるリョウがいるからか。それはつまりルイの自制心が生きている証明になったが、リョウはそれすらも計算に入れて現れたのか。
問い質す前に、「どこ見てんだ」とリーフィアの放った剣戟が〈キキ〉を打ち据えた。〈キキ〉は翼を羽ばたかせて離脱しようとする。その直前にリーフィアから伸びた蔓が〈キキ〉の翼の付け根を縛り上げた。悶絶する〈キキ〉へとリーフィアが追い討ちの剣を放つ。しかし、〈キキ〉も負けてはいない。一閃を相殺したのは「ドリルくちばし」だった。ほとんどゼロ距離で放たれた螺旋の一撃にリョウが舌打ちを漏らす。蔓を自ら断ち切り、リーフィアは下がった。
「そっちこそ、伊達じゃねぇな。世界の敵のポケモンなだけはある。勘、つぅのか。それが研ぎ澄まされている。刑務所で会った時にはそうでもなかったが、お前とヤミカラスは確実に成長している」
今はその言葉を額面通りに受け止める気にはなれなかった。ノアはルイ説得の声を出そうとしたがすぐさま放たれるリーフィアの攻撃に〈キキ〉を対応させる事に必死だった。
「リョウ! 本当の敵は誰なのか、分かって……」
ノアの言葉を、「よく分かった上での結果だ」と冷たく返す。
「ルイを殺させない。ヨハネにはその気がない。だがお前にはその気がある。だから前に立っている」
リョウの理論にノアは、「ここでルイさんを止めなくっちゃ」と左胸に手をやった。
「あたしも、あんたも、トキワシティの市民も、皆死んでしまう!」
「最初に言った通りだ。だから、どうした?」
ノアは舌打ち混じりにリョウへと敵を見る目を向けた。
「分からず屋が!」
「どっちが」
〈キキ〉がノアの意思に呼応したかのように直進する。翼が輝きを帯びてリーフィアを打ち落とそうとするが、リーフィアは間隙を縫って〈キキ〉の真上に至った。
「空中戦なら、自分達が有利だと思ったか? 悪いがその程度の対応はしてあるぜ」
リーフィアの額から葉っぱの刃が突き出し〈キキ〉の翼を射抜こうとする。ノアは手を振り翳した。
「〈キキ〉! 翻ってオウム返し!」
〈キキ〉が落下してくるリーフィアへと狙いを澄ませて銀色の皮膜を張る。「オウムがえし」の効力によってリーフィアは自らの身体に裂傷を刻み込むはずだったがその直前にリーフィアは前足で「オウムがえし」の皮膜を蹴った。軽やかに宙返りして〈キキ〉から距離を取る。悪戯心の特性すら見抜いた咄嗟の判断だった。
「オウム返しの皮膜には僅かだが質量が存在する。質量があるのなら、蹴って離脱出来ない道理はない」
どのような状態からでも可能にする、という響きを伴っていた。ノアは悪戯心を利用したオウム返しの戦術は通用しないと思い知った。
「生半可な攻撃じゃ、あんたを納得させられないみたいね」
「何を納得させたい。俺に、ルイを殺す事か?」
「ええ、そうよ。ルイさんを殺さなければ、あんたは後悔する」
「俺は十年前にルイをどんな逆境からでも守り抜くと誓ったんだ。そのためならばどんな剣にも盾にもなると」
「それをルイさんが望んでいるって言うの!」
今のルイは我を忘れている。メガゲンガーに操られているのは誰の目から見ても明らかだ。リョウはその現実を直視したくないがために自分と合い争っているように見えた。
「俺にルイの心が分からないって言うのか……」
滲んだ怒りの声音にノアはたじろがない。
「そうよ。あんたは、自分が一番分かっているようで、その実ルイさんを一番苦しめているのよ」
「聞き捨てならねぇな。そう易々と、他人が人の心を分かった風に……!」
リーフィアがリョウの怒りを引き移して神速の域に達する。ノアは〈キキ〉に自分を守らせる事はしなかった。その代わりに指示を出す。
「〈キキ〉。メガゲンガーに攻撃」
〈キキ〉の攻撃の矛先がメガゲンガーだと知るやリョウはすぐさまリーフィアへと思惟を飛ばす。
「させるか」
リーフィアがメガゲンガーの前に立ち塞がる。〈キキ〉の放った螺旋の一撃をリーフィアが新緑の剣を立てて受け止めた。火花と衝撃波で一瞬だけ砂煙が巻き起こったが、内側からの風圧が全てを弾き飛ばした。
「あんたが守っているのは何!」
ノアの声に相乗するように〈キキ〉が勢いを増す。リーフィアと同調したリョウが、「世迷言を……」と呻く。
「あんたとルイさんが、あたしを殺そうとしてまで守りたかった世界はどこにあるの!」
「お前はいちゃいけない存在だった。だから俺とルイは殺そうと――」
「それだけで! あんた達は他人の命を無下に出来るような人間じゃないでしょう!」
ノアは張り手を見舞う勢いで声を放った。その声の強さを借り受けた〈キキ〉の攻撃がリーフィアの前足を浮かせる。僅かだが〈キキ〉が押し出していた。
「押し負ける……。俺が?」
「自分達が守りたかったものを思い出せ! この馬鹿!」
ノアの声は突き上げるように天空へと吸い込まれる。〈キキ〉は螺旋と共に翼から水色のオーラを発生させた。二重像を結んだ〈キキ〉の姿がリーフィアの剣を突き飛ばす。リーフィアが初めて傾いだ。
「俺の、リーフィアが」
「守りたかったものは何だ! リョウ!」
その言葉にリョウは自分の身体へと意識を戻してルイを見やった。その眼差しに特別なものが宿る。命を犠牲にしても、何もかもを犠牲にしても守りたかったものを思い出させるためならば、自分はどのような悪にでもなろう。
一瞬だけリョウの意識がリーフィアから剥離した。その針の穴のような活路へと〈キキ〉が邁進する。螺旋と翼の膂力を得た一撃はリーフィアの鉄壁の守りを突き崩した。リーフィアが弾き飛ばされて初めて、リョウは気づいたようだった。
「リーフィア……」
その身へと影の腕が振り上げられる。ハッとしたリョウが見たものは、メガゲンガーの固められた拳だった。リーフィアを押し潰そうとしたそれを視界いっぱいに入れた直後、水色の閃光がその合間を掻っ切った。影色の拳から血が迸る。
ノアは、「させない!」と強く言い放つ。
「ようやく分かったんだ。あたしがやるべき事は」
ノアが身構える。リョウはリーフィアをボールに戻した。メガゲンガーは嘲笑を上げながら影の身体を炎のように揺らめかせる。
ルイを見やったが、その顔に生気はなかった。ほとんどの生命活動をメガゲンガーに委譲しているのだろう。すぐにでもルイを助け出さねばならなかった。
「リョウ。分かっているわよね?」
ノアが放った言葉の響きにリョウは一瞬だけ何かを思うような顔をしたが、すぐに応じた。ホルスターからボールを引き抜く。
「……ああ。ルイを守ろうとするあまり、ちょっと遠回りしちまった」
謝罪の色も含んでいたのだろうが今は頓着している暇はなかった。目的は同じだからだ。
「メガゲンガーを倒してルイさんを救う」