第七章 十節「破滅の秒針」
訪れたのは旋風。悪魔の輝きを誇る黒翼の天使。
ノアは唾を飲み下す。あれはルイだ。しかし、人間性というものがまるで感じられない。ルイの形を取った何者かだと形容されたほうがまだ納得出来る。
「ルイ、さん……」
ノアが声に出すとルイは赤い眼を向けて小さく呟いた。
「メガゲンガー」
メガゲンガーが両手を地について大口を開ける。その瞬間、金切り声が空を引き裂いた。黒色の波紋が浮かび上がり、トキワシティを埋め尽くしていく。
「滅びの歌」
その瞬間、ノアは胸元にちくりとした痛みが走った事に気づいた。視線を向けると左胸に円盤が形成されていた。秒針と分針があり、時を刻んでいる。それが時計盤だとノアはイシスの胸に浮かんでいるのを見て確信した。
「何だ、これ? 時計……」
「イシス、あんたの、進んでる」
「ノア、お前のも」
お互いに指差して時計が両方に現れている事を視認した。イシスは引き剥がそうとしたがまるで皮膚そのものについているかのように剥がれない。
「何だ、この時計。秒針が動いてる」
秒針がちくたくと時を刻む。それは全員が平等だった。
「何が起きているの……」
ノアにはそれを解するだけの頭はない。この現象に一番明るいであろう存在にノアは目を向けた。
「ヨハネ! あんたは知っているんだろう!」
声を張り上げるとヨハネは身を潜めていたのか陰から姿を現した。その瞬間、絶句する。ヨハネの左胸にも同じように時計盤が現れていたからだ。
「どうなってんだ……」
イシスが愕然と呟く。ヨハネは、「こうなってしまっては止められない」と前庭に降りたルイを見下ろした。
「教えろ! これは何だ!」
イシスの急いた声に、「滅びの歌だ」とヨハネは落ち着いて返した。
「ポケモンの技。一定距離にいる相手に対して有効な技でもある。定められた時間になれば、条件やレベルの強弱を無視して相手を抹殺出来る攻撃だ。ただし、その間中相手が手持ちを替えない場合に限るが」
ヨハネの言葉には切迫した様子はない。ただ単に事実だけを述べているように思える。ノアは〈キキ〉へと視線を向けた。〈キキ〉の下腹部にも同じような時計盤があった。
「でも、本来はポケモンの技のはず。どうして、人間に」
「あのゲンガーは普通ではない。最強のポケモントレーナーと最強のポケモンのための受け皿だ。人間の抹殺ぐらい、お手の物だろう」
ヨハネの放った言葉に怖気が走った。ルイはそのような事のために生み出されたと言うのか。
「お前の言う事が本当だとして、じゃあ射程距離から出ればいいって話だな」
イシスがノアの手を引いた。
「行くぞ、ノア。せいぜい病院内程度だろう。今の話じゃ、射程距離から出れば」
そのような簡単な話だろうか。そのような簡単な解除方法が通用する相手が最強のポケモンであるはずがない。
イシスは病院の外を歩いている人間を見て息を呑んだ。
「何だこれは……」
ノアも同じ心地だった。病院どころか、トキワシティ全域の空を覆う形で黒い天蓋が埋め尽くしている。それらからは常に金切り声が響き渡っている。
「トキワシティの人々を、巻き添えに」
「でもよ、トキワシティから出れば済む話だろうが」
イシスが歩を進めようとして、「無駄だ」というヨハネの声に立ち止まった。
「メガゲンガーの額にある単眼を見ろ」
ノアとイシスはその声にメガゲンガーを眺めた。金色の単眼がどの位置にいても見据えてくるのが分かる。その視線が纏わりついてくるのが感じられる。ノアは足元の影を見やった。すると、まるで集約するかのように自分の影やイシスの影、さらにはヨハネの影もメガゲンガーの金色の単眼に射止められていた。
「メガゲンガーの特性だ。影踏みは一定距離の相手を束縛する。射程は滅びの歌がトキワシティ全域に効果を発揮している事から推し量ればいい」
ヨハネの言葉は淡白だがそれはある事実を示していた。
メガゲンガーの射程から逃れる術はない。トキワシティ全市民が今や人質の状態にある。イシスもその意味を感じ取ったのか、「お前!」とヨハネに掴みかかった。ヨハネはされるがままにしていた。
「何をやっているのか分かっているのか? 一つの街を地図から消すと言っているんだぞ!」
切迫した声にもヨハネは心を乱される事はない。「だから、どうした?」と逆に問うた。
「何だと……」
「メガゲンガーを、R01Bを解き放ったのは私ではない。ノヴァだ。そのノヴァももう死んでしまった。アルケーの能力ならばあるいは、メガゲンガーを封じ込められたかもしれないのにな」
頼みの綱が切れた事を意味していた。イシスが、「全てはお前が招いた事だ!」と糾弾する。
「完全な世界だか何だか知らないが、そんなもののためにどうして犠牲が出る? どうして人が死なねばならない?」
「イシス。もういいわ」
ヨハネを責め立てるイシスへとノアが声をかけた。イシスは振り返り、「いいわけがないだろう?」と言った。
「お前の人生も、この街にいる誰かの人生も、ルイも、皆こいつに狂わされちまったんだぞ! ノアズアークプログラムなんていう馬鹿げた理想のために」
「今は、ヨハネを責め立てても状況は変わらない。違う?」
ノアは自分でも驚くほどに冷静だった。ヨハネは倒さねばならない。しかし、今はそれ以上に厄介だ。
「こいつを今、ぶっ殺せばいい」
「事はそう簡単じゃない。たとえヨハネを殺したところで、あたし達にあれが止められるのか分からない」
ノアは顎をしゃくって前庭のルイを見やった。イシスも視線を向け、「チャンピオンもいるはずだ」と口にする。
「手を組めば――」
「彼が、R01Bを殺せるとは思えないがね」
ヨハネが遮って口を挟む。イシスは睨みを利かせた。ノアは冷静に、「それは難しいと思う」と答えていた。
「何で……、有事なんだぞ」
「あたしの主観でしかないけれど、リョウはルイさんを誰よりも大事にしているように思えた。そんな彼に、この決断は重過ぎる。かといってあたし達がけりをつければいいってわけじゃない。その場合、ヨハネとリョウ、二人が敵になるでしょう」
結託の可能性も、ないわけではない。最悪のケースだが想定せざるを得なかった。言外に含めた声音を感じ取ったのか、「だからって」とイシスは抗弁を発した。
「ここで何もせずに見逃せってのか? この悪の元凶を!」
イシスはどうあってもここで決着をつけるつもりらしい。ノアとてそれが望ましいとは考えている。だが、と時を刻む胸の時計盤に手をやった。
「イシス。あんたとあたし、秒針の進む速度は同じ?」
「えっ」
虚を突かれたようにイシスは声を詰まらせた。自身の秒針を見やる。すると、イシスのほうが僅かだが速くなっているのが分かった。
「何でだ……」
「あたしの推測だけれど、滅びの歌が刻む時の基準ってのがもし、鼓動だとすれば。興奮すればそれは早く進むわ」
ヨハネに目を向ける。だから先ほどからヨハネは落ち着いているのだ。「ほろびのうた」の基準が鼓動の早さだと知っているから。イシスはそれに気づいて呼吸を整えるが今さらどうこうなるものでもなかった。
「イシス、ここは落ち着いて対処するのが一番だと思う。ヨハネはあたし達が息せき切って逃れようとしているのを逆手に取ろうとしている。あたし達自身の自滅を」
含む視線を向けるとヨハネは口元に笑みを浮かべた。
「ナンバーアヘッド。伊達ではないか」
その言葉を無視してノアはルイに視線を向け直す。自分の似姿であり、今や倒さねばならない敵になってしまった。ノアは〈キキ〉を呼んでその足に掴まる。ゆっくりと病室から降りて前庭でルイと対峙した。
ルイから放たれるプレッシャーは感知野のような特殊な方面に精通していなくとも分かる。生物の根源的恐怖を呼び覚ますものだった。やらなければやられる。その思いに、急いてはならない、と自信に言い聞かせてノアは呼吸を長くついた。ゆっくりと構えを取り、「ルイさん」と呼びかける。まだルイに心がある事を信じて。
「ルイさん。あたしはあなたを意識の中で初めて見た時、戦ってと言っていた。戦わなければ奪われる一方だって。それはあなたがそうだったから。あたしに面影を重ねてくれた。何度も、あたしを救ってくれた。だから今度はあたしが救う」
メガゲンガーの呪縛から解き放つ。それこそがルイを救う唯一無二の方法。
「〈キキ〉。準備はいい?」
〈キキ〉の嘴から弱々しい声の後、鼓舞するように鋭い声音が迸った。〈キキ〉とて成長している。自分だけではない。ノアは名乗った。
「ノア・キシベ。ヤミカラスの〈キキ〉。あたし達は人間としてあなたを止める」
キシベの名の持つ因果など関係ない。ルイと人間として決着をつけなれけばならないのだ。
ノアが動き出そうとするとメガゲンガーが再びルイの背後で集束し一対の翼と化した。翼から羽根の弾丸が放たれる。黒い旋風はノヴァを屠ったものと同じだと知れた。だが、ノアは臆す事はない。〈キキ〉と共に前身の足を止める事はなかった。黒い風がすぐ脇を通り抜けていく。
「殺すつもりならば、今のでも殺せた」
ノアは歩み寄って口にする。ルイはまだ迷いの中にある。それが分かった。片手で頭を抱えながらルイは呻いた。
「……来ないで」
黒い翼が展開しノアを覆い尽そうとする。押し潰すつもりだ、と感じたがノアは真っ直ぐルイを見据えた。その瞳には特別な能力があるわけでもない。クラックの能力は奪われ、ノアはただの人間だ。しかし、ただの人間とポケモンだからこそ出来る事がある。
翼がノアを叩きつけようとする。
「いけない。逃げろ! ノア!」
イシスの声にもノアは歩みを止めなかった。覆い尽そうとする闇へと抗うような瞳を向ける。その眼差しにルイはたじろいだ。
「……あの時のリョウと同じ……」
「ルイさん。あたしはあなたを救いたい。だから――」
その言葉尻を閃光が引き裂いた。ノアは咄嗟に飛び退く。戦闘に慣れた神経がなければその攻撃には反応出来なかっただろう。ルイとノアを遮るように一条の剣閃が放たれていた。
ノアはそれを放った相手を見やる。
「リョウ……」
ノアの眼前には《隻腕の赫》の異名を取るチャンピオンの男の姿があった。