第七章 九節「漆黒の天使」
トキワシティに辿り着いた時には、感知野をルイに使わせまいとリョウは感じていた。それはグレンタウンで遭遇したノエルの事もあったが、何よりもルイの心の中にまだ居座っている負の部分を呼び起こさないようにするためだ。
――ゲンガーは生きている。
十年前に「さんみいったい」の攻撃の向こう側へと消えたかに思われた存在はルイの中で根を張り、着実に復活の時を待っていたという事だ。
リョウはあの時、ゲンガーを倒したと確信していた。キシベの口からも「最強のポケモントレーナーとポケモンは潰えた」と聞いた事が説得力を持たせていたのかもしれない。あるいは、キシベでさえも気づかないほどにルイの中のゲンガーは小さな存在になっていた可能性もある。
リョウはゲンガーをもう一度相手取って勝てる気がしなかった。ヘキサツールは破壊されたとはいえ、ゲンガー単体でも充分な脅威だ。十年前とは違う、と自身を鼓舞する一方でリョウは最悪の想定を考えずにはいられなかった。
――もし、ゲンガーが目覚めたら。ルイの手に負えない代物に育っていたとしたら。
その時自分はどうするべきか。決まりきった事だ、とリョウは反芻した。
――ルイを助ける。命を賭けて。
だが、その行動によって他の人々が傷つけられたら。命の危険に脅かされたら。自分はカントーのチャンピオンとして動かなくてはならない。立場は人を雁字搦めにする。十年前に空中要塞ヘキサを攻撃したドラゴン使いのワタルもそうだったのだろうか。リョウという個人としての意思とチャンピオンとしての責務。どちらを優先すべきかは分かりきった事だった。
カントーの民草を守る存在として自分はルイを抹殺する側に回らなくてはならないかもしれないと。リョウは覚悟出来ていなかった。ノアを殺すのならば、まだ耐えられた。自分に無関係な、この世界を滅ぼそうとする存在と言う免罪符があったからだ。だが、ルイには。十年前に断ち切ったはずの重石を再び背負わせるわけにはいかない。他の誰かならばいい。ルイにだけは。
しかし、その思いはトキワシティでヨハネの気配を探ろうとした矢先に裏切られる事になった。突然に街の中に現れた黒い地球儀。まるでワームホールのようだった。別次元に繋がっているとしか思えない存在に対し、何かしら攻撃を仕掛けようとして考えを纏めようとしたその時、突然にルイの身体に黒い地球儀が浮かんだ。掌大ほどの大きさのそれはルイの胸元に収縮しすぐに消滅したが、その胸元に石を埋め込んでいった。黒い勾玉だ。リョウは最初、それが何なのか分からなかった。しかし、直後にルイが呻き始めた事から有害なものであると判断した。
「何を……」
「リョウ! 逃げて! また、ゲンガーが……!」
「ゲンガー、だと」
ルイの口から出るとは思えなかった言葉に狼狽しているうちに、ルイの影がその身体を押し包み、背中から黒い翼を形成した。
「漆黒の、羽根……」
リョウが呆然としているとルイは翼を羽ばたかせて飛翔した。弾丸のような速度でルイは真っ直ぐに現象の中心部であるトキワ病院へと向かった。
リョウは嫌な予感が汗となって伝い落ちるのを感じた。ルイが自分の知らない何者かになった。その確信だけが胸を埋め尽くしていく。カントーのチャンピオンとして今すぐにでも動くべきだ。しかし、その一方ですぐにここから逃げるべきだという警告が身体を震わせた。
これは歴戦を勝ち抜いてきた経験則が告げている。この場に留まってはならない。それはきっと、ルイにとっても、カントーにとっても不利益となる。今すぐにオオスバメを使って離脱するべきだ。
内奥から湧き上がる警告をリョウは歯噛みして打ち消した。
「……それでも、俺はルイを救わなきゃならないんだよ」
十年前とは違う。頼れる仲間はいない。だが変わっているのは何も状況だけではない。リョウとて強くなった。それこそカントーの未来を双肩に背負えるほどには。
リョウは駆け出していた。その直後に黒い地球儀が内側からシャボン玉のように割れた。能力者が死んだのか、それとも解除されたのか。それは分からなかったが、一刻も早く向かわなければという焦燥がリョウの心を占めていった。