第七章 八節「無価値」
「何をした……」
少年が狼狽する。ノアは自分達の策を明かした。
「これは賭けだった。あんた達にはあたし達の声が聞こえていない、という前提で進めた賭け」
ノアがゆらりと佇む。〈キキ〉が中空を漂っていた。
「わたし達が仲間割れを起こせば状況把握のために能力を解除するかもしれない。だが、それだけでは要素としては弱い。だから、ノアには死んだ振りをしてもらった」
「死んだ振り、だと」
少年の声にヨハネが付け加える。
「ポケモン亜空間は同じポケモンが順繰りに上昇していく空間だ。それを逆利用されたな」
ヨハネの言葉の意味が分かっていないのか、少年は、「何が……」と呻く。
「三分三十秒で一巡する。その法則を利用して、あたしはあんた達から見えないであろう下のポケモンの足場へと落下した」
その言葉でようやく少年は理解したらしい。ノアは、「勝ち目の薄い賭けだったけれど」と続ける。
「どうやら有効だったみたいね。そして、アルケーの能力は解除された」
ノアは少年へと歩み寄る。ヨハネが落ち着き払った様子で後ずさった。
「どうする? ノヴァ。彼女達は仲間割れどころか、より強い結束の力を持って、お前を始末しようとしている」
ノヴァと呼ばれた少年は両手を合わせ再び砂時計を顕現させた。
「アルケー……」
「〈キキ〉っ!」
ノアの声に反応した〈キキ〉が素早く螺旋を描く嘴でその手を払う。砂時計が形成される途中で床に落ちた。呻いたノヴァの腹部へと「ドリルくちばし」で叩きつける。ノヴァはそのまま倒れて腹部を押さえた。
「死ぬようにはしていない。ヨハネ、ようやく追い詰めた」
ノアはヨハネを睨み据える。ヨハネは思いのほか落ち着いた様子だ。クラックでもしもの時は逃げるつもりなのだろう。だが、ノアには通用しない。クラックを使用するよりも早く、〈キキ〉の攻撃を叩き込める。その射程内に入っている。
「クラック能力を使って逃げようとしても無駄だ。あたしは、ここであんたとの因縁を終わりにする」
ヨハネはしかし慌てた様子はない。赤い眼でノアを見据える。自分のものであったはずの赤い瞳。真っ直ぐに、淡々とヨハネはノヴァに語って聞かせた。
「やはり、私の下へと運命を連れて来るのはノア・キシベ、ナンバーアヘッドだった。ノヴァ、お前のような安易な物の考え方しか出来ない人間ではなかった」
ノヴァはヨハネを睨みつける。その眼差しに殺意が宿った。
「ヨハネ……!」
掌から砂時計を突き出す。しかし、回り込んでいたヒトツキが影からノヴァの肩口を切り裂いた。ノヴァは喉の奥から悲鳴を漏らす。ヨハネはヒトツキを傍らにして、「一つ、いい事を教えてやろう」と告げた。
「ノヴァ。お前に洗礼名はない」
その言葉にノヴァは目を見開き、「そんなはずが……」と呻く。
「だって、オレの名前は輝ける者を意味するノヴァのはずじゃ――」
「その認識そのものが間違っている。ノヴァ、お前の真の名はNo、Value、すなわち無価値だ。ノアズアークプログラムにおいて、三使徒を造るに当たっても何の役目も、意味も成さないと判断された、くず鉄以下の存在だ」
ノヴァは目を慄かせる。しかし、腑に落ちるものがあったのか動揺は少なかった。「オレが、無価値……」と両手に視線を落として呟く。
「その通り。お前はこの世界にも、新たなる世界にも居場所がない。本当に意味のない薄っぺらな人間だったよ」
ヨハネの目は既にノアへと向けられていた。ノヴァは突きつけられた事実に慄然としている。しかしヨハネは興味など失せたかのようにノアに注意をやった。
「ここまで来るとは思っていなかった。さすがはノアズアークプログラムの申し子だ」
ヨハネが赤い眼を据える。ノアは屈服しない光を双眸に湛えた。
「クラックの能力の対象外にあたしはいる。たとえイシスが攻撃出来なくとも、あたしと〈キキ〉ならば通る」
「どうかな。その程度でヒトツキを止められると思うか?」
「逆だよ、ヨハネ。ヒトツキだけで、あたしと〈キキ〉を止められると思うか?」
ノアの言葉にヨハネはフッと口元に笑みを浮かべた。
「どうやら刑務所での経験は相当なものらしい。ちょっとした百戦錬磨って奴だな。だが、私は腐っても国際警察だ。それなりの実力は備えている」
ヒトツキが刀身を突き上げてノアに対して身構える。ノアも構えた。〈キキ〉が臨戦態勢に入る。どちらかが動けば勝負がつく、とお互いに察知したその時だった。
「……そうかよ。意味がない、ってか。オレの人生は。造られて、消費されて、ただヨハネ、お前を押し上げるためだけの土台にされて。だが、ただでは逝かない」
ノヴァは再び砂時計を繰り出した。ヨハネは視線を振り向けるまでもなく、「無駄だ」と断じる。
「亜空間に引き込んだところで、お前自身の心の弱さが災いする。それどころか、亜空間で私は日食を待てばいい。そのような事を許すノア・キシベと仲間達ではないだろうがな」
ノヴァが今さら小細工をしようとしても、それは自分の不利には働かないと悟っているのだろう。ヨハネの声には自信があった。しかし、ノヴァは肩を震わせて嗤った。
「……何がおかしい?」
「やっぱり、あんた馬鹿だ。気づいていないのか? アルケーの能力はもうお前達なんかを相手取るためにあるんじゃない。既に亜空間を放った。お前らじゃないぜ。オレが感じる、もう一つの気配に、だ」
その言葉にヨハネはハッとして周囲を見渡した。
「まさか、来ているのか……」
何の事だか分からずノアは、「何を」と声にする。
「無駄話をするために来たんじゃ――」
「無駄どころか、ノア・キシベ、お前らにとっては最悪の敵だ。そしてヨハネ、あんたを滅ぼすための敵でもある」
敵、という言葉にノアは該当する人物を思い描こうとしたがそれはヨハネ以外にありえなかった。だがヨハネはすぐさまその言葉の意味するところを理解したようだ。
「R01Bとチャンピオンが既にトキワシティに入っている。そしてアルケーの能力で、R01Bの中にある闇を誘発したのか」
「闇?」
ノアが聞き返すと、「十年前から育っていた闇だ」とヨハネは応じた。その言葉にノストラの最期の言葉が重なる。
「第四の使徒……」
「来てはならない災厄が訪れようとしている。ノヴァ、お前、私の持っていたゲンガナイトを……」
懐を探ったヨハネがノヴァを睨み据える。ノヴァは口角を吊り上げた。
「そうさ。亜空間を繋げる能力でR01Bに直接埋め込んだ。もう逃れられない。すぐに来るぞ、この場所へ」
ノヴァが嘲るように身体を揺らした。ヨハネは拳を握り締め、「私とキシベの理想郷を邪魔しようと言うのか」と怒りを滲ませた。
「ノヴァ。お前のようなくず鉄が私とキシベの黄金の夢に割って入ってくるんじゃない!」
初めて見せる気迫にノアがうろたえたがノヴァは冷静な眼で、「来るぞ」と告げた。その直後、空間を震わせる振動と共に影の刃が病院内を貫いた。病室の中を黒い旋風が突っ切る。ノアは咄嗟に〈キキ〉に防御の姿勢を取らせた。イシスが〈セプタ〉を呼び、自分とノアを守らせる。
「何が起こって……」
その視界の中にノアは黒い翼を生やした天使の姿を見た。ワンピースから影が滲み出し、翼を展開している。薄紫色の髪と赤い瞳はこの世のものとは思えなかった。
「黒い翼を湛えた天使のお出ましだ」
ノヴァが言い放った直後、ノアはその天使が誰なのか分かった。
「ルイ……!」
ノアの言葉にルイは微かに反応したようであったが、すぐに赤い瞳からは表情が消え失せた。すぅと手を掲げ、ノヴァを指差す。すると、黒い翼を羽ばたかせて漆黒の旋風を作り出した。ノアは覚えず飛び退く。イシスも同様だった。ノヴァだけが身体を晒してその風を満身に受け止めた。ノアとヨハネは同じように目を見開いてノヴァの最期の姿を見つめる。
「これが、お前らを破滅に導く、第四の使徒だ!」
ノヴァが哄笑を上げると、続け様に放たれた黒い影の刃がノヴァの身体を塵芥のように消し去った。一人の人間が、先ほどまで生きていた人間が、最初からいなかったかの如く消滅した。
その事実に戦慄する前に黒い翼を広げたルイは地に降り立った。病院の敷地内、前庭に影の衝撃波を湛えて舞い降りたルイの姿は天使とも悪魔とも映った。まるで黒い稲光だ。ルイから発せられた黒い衝撃波が周囲の木々を薙ぎ倒し、その白い姿を黒く染めていく。瞬く間にルイのワンピースは黒くなった。
「目覚めてはならない、第四の使徒が目覚めたようだな」
ヨハネはどこか達観したようにそれを見つめている。恐怖はないのか、とノアが勘繰る前にルイの身体から瘴気のような影が迸った。形状を成したその姿にノアは目を慄かせる。
影そのものが屹立したと思える立ち姿。亀裂が走ると赤い瞳が発生し、その下には乱杭歯の並ぶ口腔がてらてらと揺らめいている。逆立った影は炎のように燃え上がり、両手が顕現してルイの前へと地面を踏み締めた。額に一筋の亀裂が入ったかと思うと縦に割れた。それは金色の眼だ。その眼に捉えられた瞬間、ノアは「逃げられない」と強く感じた。
強迫観念のようなその呪縛に足が竦む。
「降り立ったな」とヨハネが告げた。
「R01Bとゲンガー、いや、私達の理解を遥かに超える存在。十年前のヘキサツールゲンガーをも超える最悪のポケモン。メガゲンガーだ」
ヨハネの宣告にノアは肌が粟立ったのを感じた。