第七章 七節「悪意の塊」
ノヴァは孤児ではなかった。
他の使徒とは違い、里親がいたのだ。しかし、里親になった人間はこの世の底辺とも思える人格の持ち主だった。ノヴァの目が気に入らない。その理由でノヴァは八年間、虐待を受けた。通っていたスクールの教師に相談したところ、面談を申し込むと言ってくれたが、里親と面談した教師はころりと態度を変えた。
「あなたが悪い」そう宣告された時、ノヴァはこの世界が腐り落ちていくのを感じた。自分は何一つ、本当に何一つ行っていないのに、誰もが自分の事を批判する。ノヴァは教師が里親に言いくるめられたのだと思ったが、後に教師は職を辞して隠居した。多額の金が毎月支払われているのを知ったのはそう遠くなかった。ノヴァはこの世界の裏側ともいえる部分ばかりが、頼んでもいないのに自分の目の前で展開されるのを何度も眺めた。
人は私利私欲に生き、誰もが欲望に忠実な奴隷であり、それはポケモンでさえも代わるところはない。
ノヴァは一度としてポケモンを持った事がない。それは禁じられていたわけでもなく、モンスターボールとポケモンとの共存関係が築けなかったのだ。当たり前の事が、ノヴァにはとてつもなく困難な事に思えた。
人は何故、ポケモンを隷属させるのか。ポケモンは何故、人に従うのか。その理屈が全く分からなかったのだ。
歴史の授業でノヴァはアルセウスが宇宙を創り、この世界に時間と空間をもたらしたというシンオウの神話を聞いた時、奇妙な感覚に捉われた。ポケモンがこの世界を創ったと言うのはどうにも性質の悪い冗談に思えたのだ。かといって、人間が築いただけにしてはこの世界は歪んでいる。
人は完全ではなく、ポケモンも万能ではない。アルセウスが神だというのならば何故ポケモン図鑑に登録されているのか。何故、人間の叡智程度のモンスターボールで捕らえられるのか。不思議でならなかったが、その問いはしてはならないのだと直感的に分かった。
しかし、集団の異分子であるノヴァは成長すると余計に孤独を深めていった。自分の名前の意味を知りましょう、という授業でノヴァは自分の名前が「輝く」事を意味する名前だと知った。それを里親に報告したところ、いつもよりも多く殴られてしまった。
その翌日、ノヴァは家出をした。行くあてなどなく、ちょっとした気分転換のつもりだった。ノヴァは当時、ハナダシティに住居を構えていたのだが街の北方へと出かけた。すると、いつの間にか草むらに入っており、野生のポケモンに襲われた。傷だらけになったが不自然な事に誰にも発見されず、凍えた夜を過ごした。
翌日になって傷口が化膿したので街の中心部を目指した。だが、その途中で意識が途切れ、気がつくとノヴァは個室にいた。病院だろうかとノヴァは思ったが、すぐに険しい顔立ちの制服の警官達がやってきてノヴァに手錠をかけた。ノヴァが病院だと思っていた個室は豚箱だった。
何でもその前日にハナダシティの北方に別荘を構えているポケモン通信工学の権威、マサキの妹が何者かによって惨殺されていたのだと言う。その重要参考人だとしてノヴァは捕らえられた。ノヴァの爪や皮膚が不自然に汚れていたので現地警察はノヴァが犯人だとしたのだ。事件当時、マサキの別荘の付近にいるはずのトレーナー達は連れ立ってハナダシティのトレーナー登録センターに出席していたためにアリバイは取れていた。アリバイのないのはノヴァだけだった。もちろん、ノヴァは否定したが状況証拠が全てを物語っていた。不自然な事が連鎖する。ノヴァの服には被害者の血痕の一部が飛び散っていた。そんな記憶はないというのに。
ノヴァは拘留され起訴された。驚くべき事に里親は何一つ不満を挟まず、そのまま二年の刑期に付されたのである。後になって警察がよく調べると、その夜には被害者の不注意で野生ポケモンに襲われたのであり、人間の仕業ではなかった。だが、驚愕すべき偶然であるが、マサキの妹を襲ったポケモンはそのままノヴァを襲ったのだ。血の一部が服に飛び散っていたのはそういう理由だった。
冤罪だと分かった時にはノヴァはもう自分で立つ事すら儘ならないほどに精神をすり減らしていた。人間に会うとまず関わり合いを避けた。何日も野宿する時間が続いた。浮浪者のように身体は汚くなり、時折野生のポケモンに襲われた。身を守る術はなかった。モンスターボールを買って試してみても一度としてポケモンは捕まらなかった。ノヴァはこの世界そのものが自分を拒んでいるのだと感じるようになった。泥水をすすり、腐った食物を口に運ぶ日々。ノヴァは荷物に紛れてグレンタウンへと渡った。グレンタウンで職探しでもしようかと思ったのだ。だが、簡単に見つかる仕事はなく、日雇いもなかった。ノヴァは自分がこの世界の中で底辺だと思い込むようになりある日、何となしに自分の身体に火を放った。恐れはなかった。この世界からようやく解放されるという安堵があった。
しかし、運命はノヴァに死ぬ事を許さなかった。ヨハネに出会い、ノヴァは自分の父親を見つけた。大罪人、キシベ。その遺志を継ぐ存在としてヨハネがいる。ノヴァはようやく自身の能力、この世界の裏側を暴いてきた正体を見つけた。
能力、アルケー。
この世界の根源に至る能力であり、魂のない生命体を自分の空間内に顕現させる事が出来る。まさに無敵。アルセウスすらも超える造物主の力。自分の名前に、ノヴァは今ならば誇りを持てる。ノヴァ・キシベ。輝く存在である自分がキシベの名を持っている。
――だが。
ノヴァは隣にいるヨハネを見やる。ヨハネはそれすらも自分の手柄だと言うべき態度を取っている。
「ノヴァ。何とかして、奴らをポケモン亜空間内で殺す事は出来ないのか。これでは持久戦になるぞ」
「……ごちゃごちゃ、うるせぇんだよ」
ヨハネに聞こえない声で呟き、ノヴァは不満を爆発させる。ポケモン亜空間を創ったのはこのノヴァだ。本気を出せば亜空間にヨハネを放り込む事も出来る。
――このノヴァは無敵だ。アルケーの能力は全てを可能にする!
ノヴァは苛立ちの中に新たな空間を創り上げた。自分の背後に現れた小さな空間には逆さまになったヨハネがいる。ノヴァはヨハネの目を盗んで虚像の懐を探った。
――何でこいつなのだ? 三日後の日食の時に完全な世界を手に入れるのは。資格はあるはずだ。自分とてキシベの息子、栄えあるナンバーシリーズだ。
懐を探るうち、ノヴァは小さな石を見つけた。掌よりも小さな黒い勾玉である。
「メガストーンの一種、ゲンガナイトだ。これでR01Bの中にあるゲンガーを呼び起こせないものかねぇ。完全な世界が欲しいよなぁ」
「おい。ノヴァ」
呼ぶ声にノヴァはすぐさま空間を閉じて、「何でしょう?」と尋ねた。
「奴らが動き出したぞ」
ノヴァは亜空間の中を見やった。こちらからノア達を見る事は出来るが、向こうからは見えないはずである。ノアとイシスは言い争っているようであった。
「何だ? 仲間割れか……?」
声までは聞き取る事が出来ない。ノアの操るヤミカラスがイシスのガメノデスを攻撃した。イシスがガメノデスで反撃する。何が起こっているのか分からなかった。
「ノヴァ、声を聞く事は」
「無理です。出来ません」
空間を創り、維持するだけでもやっとなのだ。ポケモン亜空間の中にイシスを引き込んだ事を褒めてもらいたいぐらいだったが、ヨハネはそのような態度に出る事はない。当たり前だと言いたげだ。
――その当たり前に潰された人間が目の前にいるってのに。
ノヴァの中の鬱憤は遂に溜まってきた。このヨハネの背中をちょっと押してやれば亜空間に突き落とせる。ノヴァは手を伸ばした。すると、ヨハネが声を発する。
「見ろ。イシスがノア・キシベを攻撃している」
その言葉にノヴァは亜空間内部に目を向けた。ガメノデスの放った攻撃によりノアが突き落とされていった。ヨハネが、「いかん!」と声を荒らげる。
「ノア・キシベは運命を携えているのだ。こんな事で死なれては運命が狂う。ノヴァ、何とかして亜空間内のイシスを排除するのだ。イシスを連れて来たことは間違いだった」
ノヴァは目を瞠った。この大人も自分の行動が間違いだったと言うのか。自分は輝ける存在だと言うのに。
「オレは、何も間違えてはいない……」
「だが現に仲間割れが起こっている」
「それはあんたが望んだはずだ」
ノアとイシスを排除しろと。ヨハネは、「排除の仕方というものがある」と答える。
「このような末路は違う。私の望み通りではない」
結局のところ、この大人も同じだ。自分の理想通りでなければ他人に罪を被せる。ノヴァは歯噛みした。
「能力は、解除しない。亜空間内で奴らが自滅すると言うのならば、それでいいじゃないか。何も間違えてはいない。アルケーの能力は無敵だ。亜空間内部で死ねば、それは現実の死と同義なのだから」
「しかし、ノヴァよ。何が起こっているのかも分からない。現状を把握し――」
「必要ない」
ノヴァはヨハネの言葉を遮った。
「ポケモン亜空間で奴らを始末する。目的はそれのはずでしょう? 何を迷う事があるのですか?」
ヨハネは睨む目を向けた。ノヴァは、「恐れる事など何もない」と続ける。
「ノア・キシベは死んだ」
ノヴァは充足感と共にそう呟いた。あとはイシスを潰すだけだが、イシスに対して持久戦を持ち込むのは不利だろう。
「分かりました。要求通り能力を解除します。イシスだけならば、我々の敵ではないですからね。ノア・キシベが死んだ今となっては、彼女の心も揺らいでいるはずだ。アルケーの能力は決してパワーがあるわけではないが、亜空間内部にまた押し込むと言えば態度も変わってくるでしょう」
ノヴァは砂時計を両手で包み込んだ。砂時計が消え、ポケモン亜空間が消滅する。亜空間内部で生きているのはイシスだけのはずだ。自分でも屈服させる事が出来る。黒い地球儀が回転しながら集束し、イシスは病院の個室へと呼び出された。当然、目の前に立っているのはイシスだけのはずだった。
しかし、ノヴァは展開された光景に目を見開いた。
そこにいたのは、イシスと死んだはずのノアだった。