第七章 三節「黒い地球儀」
その現象は音もなく突然に現れた。
ノア達はとりあえず落ち着ける場所を探そうという意見で一致しかけた頃、トキワシティの中心街が唐突に黒い球体に覆われた。その異様な光景に人々は狼狽する。
「何が起こっているんだ?」、「まさかテロか?」という声を聞き流しながら、ノアはその現象がテロでも事故でもない事を確信した。
「まさか、またヨハネの使徒が」
ノアの声に、「だとしてもあれは何だ?」とイシスが声を上げる。黒い半球体は表面に大地を浮かび上がらせていた。まるで黒い地球儀だ。
「分からない。だけど、多分、こんな事を可能にするのは能力に違いないと思う」
ノアは黒い地球儀が浮かび上がったのが病院を中心とした区画である事を確認する。
「ヨハネは多分、病院にいる。この現象の中心部にいるはず」
「分かるのか?」
イシスの言葉に、「そうでなければ説明がつかない」と応じる。ノアでさえ胸中は穏やかではなかった。何が起こっているのか。もしかしたら、ヨハネはこの現象を巻き起こす事によって約束の時を待っているのかもしれない。ノアが歩み出そうとするとイシスが腕を掴んだ。
「何?」
「ノア。迂闊だぞ」
イシスは本気で心配している様子だったがノアはその手を振り解こうとした。
「行かなきゃ。ヨハネを倒すしか、ノアズアークプログラムを止める方法はない」
「待てよ。だからといって動くのは迂闊だって言っているんだ」
イシスはノアの前に立った。ノアはそれを退けようとするがイシスは頑としても動かない様子だった。
「退いて」
「退かない。ノア。焦ったって何もいい事はない。ここは、出来るのならばチャンピオンを待つべきだ。わたし達だけではこの現象をどうこうする事は出来ない」
「あたしはやらなきゃいけないんだ」
強い口調にイシスも負けない強さで応じる。
「ノア! 屈しない事と無鉄砲なのは違うんだぞ!」
そのような事は一番よく分かっている。それでも、進まなければならないのだ。
「行くわ。〈キキ〉と一緒に飛び込む」
「おかしいだろ! まだ何にも分かっていないんだ! あの黒い半球体が何なのか。そもそもノストラみたいな能力者がそう何人もいるのか」
「ママは、使徒を三人造ったと言っていたわ。そのうちの一人よ」
「言い切れる話ではない」
「どちらにせよ、ヨハネはそこにいる」
「だから待てって!」
駆け出そうとしたノアの腕を引っ掴みイシスは叫ぶ。
「お前、ちょっとおかしいぞ。ノストラと戦ってからだ。何を吹き込まれた? どうしてそんなに焦るんだ」
「何も」
ノアは答える。本当に何も吹き込まれていない。ただノアの中にある衝動が静観を許していないだけだ。
「今の〈キキ〉ならばヨハネのヒトツキを倒す事が出来る。もし、この現象の能力者がいたとしてもたった二人。今ならば無力化出来る。ヨハネの能力はクラック。ポケモンとの同調が高ければ高いほどに隙が生じる能力。でも、あたしなら、同調に頼る事はない」
暗にリョウとルイを待てないと言う意思表示でもあった。イシスはそれを感じ取ったのか、「だがお前だけが行く事はないんだ」と頭を振った。
「わたし達も――」
「いいえ、イシス。あんた達は外で待っていて欲しい。特にロキ、あんたは」
急に名前を呼ばれてロキは困惑の顔を向けた。
「どうして、お姉ちゃん……」
「あんたが、もしもの時にはリョウ達と合流して欲しい。イシスはあたしの背中をきちんと見ていて。あたしがまず、〈キキ〉と共にこの黒い物体に飛び込む」
黒い地球儀はその面積を拡大させる事はない。現れた時と同じ部分だけを侵食している。だが、半透明で中の物質が破壊されたような形跡はない。この地球儀に触れれば無条件で消滅、という能力ではなさそうだ。
「ノア。承服出来ない」
イシスが首を横に振るがノアは決意を改めて声にした。
「誰かが行かなくては、ヨハネを止められない。もしかしたらヨハネはこの能力でぎりぎりまで潜むつもりかもしれない。今ならば倒せる! 場合によっては殺す事もやむをえない!」
ノアの言葉にイシスは気圧されたようだった。ノアは黒い地球儀に向き直ってホルスターからモンスターボールを引き抜く。
慌てふためく人々が逃げ惑う。ノアはそれらの人々とは真逆の方向を行った。
「行け、〈キキ〉」
〈キキ〉を繰り出し、ノアは黒い地球儀へと歩み寄る。音もなく、何かが吸い込まれていくような風の逆流もない。黒い地球儀はただそこにあるだけだ。それにどれほどの意味があるのか、ノアには分からない。すぐ傍に地球儀の皮膜があった。黒い皮膜に触れるが温度もない。ただのこけおどしか、あるいは何らかの能力の誇示か。推測しながら、ノアは黒い地球儀の内部に入った。
次の瞬間、景色が変っていた。まず襲ってきたのは下降感だ。ノアは胃の腑を押し上げる重力に目を瞠った。周囲はトキワシティの街並みではない。それどころか、建物一つさえもなかった。空間はピンク色で満たされている。
「ここは? トキワシティは? 黒い地球儀は?」
突然の変化にノアは戸惑う。振り返ったがイシスの姿も見えなかった。ノアは足元へと視線を落とす。水色の物体だった。巨大さゆえにその全貌が把握しきれないが、ノアはそれが生物の形を取っているのが分かった。
よくよく目を凝らせば水色の物体はつやつやとしていて丸まっている。背面には茶色の甲羅があり、指先のようなものが突き出しているのが見て取れた。ノアは〈キキ〉の名を呼ぶ。〈キキ〉はこの空間にあっても自分と共にある。どうやら水色の物体はゆっくりと上昇しているらしい。
ノアは天上を仰いだ。空には雲一つない。ピンク色の空が同じように広がっている。どこか作り物めいた景色にノアは一種異様さを感じながら周囲を見渡した。その景色の中の一点に、小窓のような場所があった。
そこにはヨハネと、もう一人少年が立っている。オレンジ色の髪の少年はノアを眺めると、すぅと目を細めた。その手には砂時計がある。黒い砂がさらさらと落ちていた。
それを認める前に小窓が掻き消え、ピンク色の空間に呑まれた。ノアは声を張り上げる。
「これは! この能力は!」