第七章 一節「神の強迫観念」
冬瓜が使われている料理が運び込まれた。ヨハネは白みがかったソースのかかったそれを見下ろす。ベッドに腰を下ろした影へとヨハネは視線を向けた。
「この料理には冬瓜が使われている」
フォークで細かく切り込まれた冬瓜を突き刺し、口に運ぶ。人影は何も言わない。ただじっとその様子を眺めているだけだ。
「ノヴァ」
ヨハネは彼の名を呼んだ。人影が身じろぎし、「何でしょう?」と僅かに首を傾げる。ヨハネは、「この料理」と言葉を継いだ。
「少し辛みがかっている。もしかしたら私の苦手な調味料がペーストされて入っているかもしれない。君も食べてくれないか?」
ノヴァは殊更驚くわけでもなく、立ち上がった。ヨハネは足を見やる。彼の足はグレンタウンで骨折していたが、驚くほどの治癒力によりほとんど完治と言っても差し支えなかった。ノヴァは個室の中央にあるテーブルへと誘われる。ヨハネが国際警察の権限を使って個室を用意したのだ。本来ならば相部屋で事足りるのだが、自分達の行動を誰かに制限されたくなかったのもある。
トキワシティに渡って三日目。ノストラは戦いへと赴いた。ノエルが自分達の気配のかく乱を行ってくれたのならば追跡してくるリョウとルイは撒けたはずである。
だが、ヨハネは同時にノエルとノストラの生命反応が限りなく小さくなったのを感知していた。死んだか、もしくは戦闘不能にまで追い込まれたのだろう。だが、ヨハネの胸中に吹き込む風は穏やかだ。二人の使徒を失えば本来ならば狼狽し、慌てふためくだろう。そうしないのは、自分の心が確実にこの世界から隔絶されたものへと変化しているからかもしれない。俗世間の常識からはかけ離れた精神へと自分は進化しつつある。その進化の前兆がこの異様なまでに穏やかな心地なのだとすれば何と報われた事か。ヨハネは自分の心が波打たない事を感謝した。神にではない。自分自身の実力に、だ。
ノヴァは髪の毛をオレンジ色に染め上げた少年だった。後ろに流しており、額がはっきりと見えている。その下にある垂れ目は弱々しい印象を持たせた。
この体制への反発と、自分を変えたいという欲求。それがせめぎ合って彼の人相を形成しているのが分かった。
「ヨハネ様。オレがいただいても?」
尋ねてくる彼へとヨハネは首肯する。フォークを手に取り、ノヴァは冬瓜を口にした。何度か歯ごたえを確かめてから、「ソース類に」と口を開く。
「香辛料がいくつか使われています」
「私はマヨネーズが駄目なんだ。それに近い、卵黄が使われていると分かると身体が受け付けなくってね」
ヨハネの言葉に、「確かめます」とノヴァはもう一度口に含んだ。奥歯で噛み締めた後、一つ頷く。
「マヨネーズとは違いますが、卵黄が使われていると思われます。味付けは変えてありますが、十度ほど咀嚼するとマヨネーズに近い風味が現れます」
ヨハネはその回答に、「なるほど」と応じてから皿を遠ざけた。
「君が食べてくれ。マヨネーズらしいと分かると、どうしてもね。この歳になって恥ずかしいものだが」
ヨハネの言葉にノヴァは淡白に料理を口に運んだ。うまいともまずいとも言わない。食事、という行為というよりもこれはオートメーション化された動きだ。機械の類にその行動は似ている。平らげてから、ヨハネは尋ねた。
「君の身長は、何センチだ?」
ノヴァは、「測っていないので正しい数値は不明ですが」と前置きする。
「一七〇前後かと」
「なるほど。私もそれくらいだ」
ヨハネは立ち上がった。ノヴァが黙って見つめているので、「立ってくれ」と顎をしゃくる。目線の高さはほとんど自分と同じだった。
「靴のサイズは?」
「二十六です」
「私もそうだ」
ヨハネは答えて簡易脈拍計測器を用いた。二人して脈拍を測るとぴったりと一致した。
「……面白い」
ヨハネの言葉にノヴァは意図を把握していないのか困惑した声を出した。
「ヨハネ様。オレはまだ洗礼名をもらっていません。このままではヨハネ様のお役に立てるかどうかが分からないのです。ノエルとノストラのように、オレにも洗礼名を」
その言葉には急いた様子はない。ヨハネは椅子に座り直してから、「いいのではないだろうか」と口にする。
「君が第三の使徒である事は紛れもない事実。なに、焦る事はない。約束の時までまだ三日はある」
ヨハネはテレビの電源を点けた。ちょうど三日後に迫った皆既日食のニュースが行われていた。イヤホンをつけなければならないので音は分からなかったが、過去の皆既日食の映像が映し出されている。
「しかし、オレはまだ第三使徒として役目を果たせていません」
「もしかしたら、君の役目は私を見届ける事なのかもしれない。記録者としての人間はどのような神話でも必要だ。語り部の役割が、与えられているのならば何もおかしな事はない」
ヨハネは落ち着き払っていた。ノエルとノストラのお陰で自分を追跡する相手は遅れをとっているはずだ。何が来ようと全ては約束の時に自分を押し上げる存在に過ぎない。小事が大事に騒ぐ事はあろうとも、今までの行いの中に間違ったものがあるとは思えなかった。ヨハネは、「神というものに対して」とノヴァへと話す。
「君はどう解釈する?」
ノヴァは突然の質問に戸惑うわけでもなく、「神ですか」と返した。
「オレは神を信じていません」
「それは何故?」
「シンオウの神話を、スクールに通っていた頃に聞かされました。ですが、オレにはそれがどうしても信じられないのです。アルセウスとかいうポケモンが千本の手を持って描かれている絵を見た事もあります。ですが、感動はしませんでした。逆にオレの心は今までにないほどに醒めて、これが神であるはずがない、と懐疑したのです」
ノヴァの告白にヨハネは、「それが君の価値観か」と頷いた。
「懐疑する者。この世界は虚飾に満ちている。そうは思わないか?」
「オレには、虚飾というよりも、何らかの強迫観念がこの世界を覆い尽しているように思えます」
「強迫観念、か。興味深いな」
ヨハネは顎に手を添える。アルセウス神話がこの世界を完璧に整えるためにデザインされた強迫観念の一つだとすればなるほど、分からない話ではない。
「君はスクールに通っていたのだな」
「ええ。ですが、すぐに辞めました」
「どうして?」
「オレにはポケモンを操る才能はてんでなかったんです。どのポケモンもオレが操ろうとすると、モンスターボールの束縛があっても何かしら嫌な顔をする」
「嫌な顔、か」
意味深長な言葉であるように思える。ポケモンと人間の隔絶を誰よりも味わった言葉であるはずなのだが、ノヴァの声音は淡々としていた。まるで観察しているかのようだ。
「スクールにいて、どれだけ懐きやすいポケモンであろうとも、オレにだけは懐きませんでした。それが、オレにとっては世界から見離されているように思えたんです。周りが、ある程度とはいえポケモンを所持し、トレーナーとしての道を歩む中、オレだけが失格者の烙印を押されたような気がして」
「だから己に火を放ったのか」
グレンタウンで出会った時、ノヴァは全身を大火傷していた。火傷と骨折で延焼が三十メートル近くもあったと言う。ノヴァに理由を求めると、「死んだところで」と呟いた。
「オレが死んだところで、この世界にとっては意味なんてないと感じていたんです。そのほうが世界は合理的に回るんじゃないかって。ああ、でも、死んでしまったらその後の世界を知る事なんて出来ないですよね。そういう点でオレは死後の世界でも期待していたんですかね」
「この世界は間違っている」
ヨハネの声に、「ええ、その通りです」とノヴァは応じた。その言葉こそが、自分と三人の使徒を結ぶ架け橋だった。
「ヨハネ様。オレに洗礼名をください。そうして能力の開花を助けてください」
懇願するような言葉面だが、声音はむしろ落ち着いている。ノストラのように切迫した感じも、ノエルのように祝福を受けたような感慨もない。ただ能力が授けられるのを待ち望んでいる声だ。それが当たり前だと言うかのように。
ヨハネは手を組んで、「それは、なくても別にいいのかもしれない」と答えた。
「ですが、二人の使徒は旅立ちました」
「何も洗礼名を授けられる事が特別なわけではないよ。私と共に、少しだけ待とう。そうすれば、君の持つ答えが分かるかもしれない」
ヨハネの言葉に承服したのか、ノヴァは言葉を仕舞った。