第六章 十四節「Unknown」
「まさか……、ノア!」
イシスが叫びを上げる。ロキも歩み寄っていた。ノアとノストラがよろめき絡まり合って倒れ伏した。遠目にはどちらが勝ったのか分からない。
相打ち、という最悪の想定を頭に呼び出してロキが目を見開いていると、ざわりと天上のアンノーンの群れが蠢いた。二人とも顔を上げる。アンノーンの群れがまるで嵐のように上空を行き過ぎていった。黒々とした暗雲が遠ざかっていく。アンノーンは一体も残っていなかった。
「や、野郎……」
むくりと身体を起こしたのはノストラだ。全身から血を噴き出して手を震わせている。
「快調であると錯覚したオレの身体が、結果的にこいつに死のスペルを見せないように動いてしまうなんて。身体そのものを道具としたオレの戦法が逆に仇になるとは……」
突き上げる一撃がノストラの顎を揺さぶった。ノストラが糸に引かれたように後ずさりながら、「しかし、偶然か?」と尋ねる。
「オレの身体が結果としてお前の命を救ってしまったのは。もし、オレの身体が少しでもずれていれば成立していなかった結果だ」
仰向けに倒れたノストラへとノアは荒い息をついて口にする。
「偶然よ。あんたの身体がスペルを隠してくれるなんて考える暇がなかった」
その声にイシスとロキが、「やった」と声を漏らす。
「ノアが勝ったんだ!」
その言葉にノアはイシスへと目を向ける。しかし、すぐにノストラへと視線を移した。何か問い質したい事柄があるように見えた。
「答えて。ヨハネは何のつもりで、あんたみたいなのを遣わせたのか。最終目的は何なのか」
ノストラは血の泡を吐いて口元に笑みを浮かべた。その様子を警戒したイシスが、「またアンノーンを呼ぶ気かも」と注意を促す。
「もう、アンノーンは呼べない。エンシェントの能力は底をついた。操る体力は残っていない。だが、最終目的が何か、と問うたか?」
ノストラは哄笑を上げる。ノアが、「何がおかしい」と鋭く睨んだ。
「ナンバーアヘッド、お前には分かっているはずだ。何を目的としているかなんて。そして、お前はオレに偶然で勝ったと言っていたな。オレは、今、とても満たされている。今まで浪費されるばかりだったオレの生がようやく意味を帯びたんだ。偶然の勝利をお前に及ぼすという結果として」
「何を言って――」とノアが戸惑う声を出す。ノストラは、「そうだろう?」と聞き返した。
「ヨハネ様が求めているのは偶然の集積による必然、つまり運命だ。誰一人として運命には抗えないのだ。ノア・キシベ。お前は、オレという障害を乗り越える事こそが運命だった。ヨハネ様が約束の時までに欲しているのは強い運命を携えた存在なのだ」
「ノア! そいつの戯れ言を聞いているんじゃない。さっさと、とどめを!」
イシスの言葉にもノアは耳を貸さない。それどころかノストラの言葉に聞き入っている。
「オレとお前、強い運命を持つ存在こそ、ヨハネ様は欲している。約束の時の後に訪れるという完全な世界=Bそこに赴くのは真の強者だ。この世の強者とは力の強さで決まるのではない。今のオレには分かる。運命の強さこそが、強者の証なのだ」
ノアは何も言葉を発しない。ノストラの言葉に何か強い魅力を感じたように固まっていた。
「そして、運命の強さを秘めた者達がヨハネ様をその世界へと押し上げるために集まってくる。R01B、ルイと《隻腕の赫》でさえ、その運命の梯子に過ぎない。それどころか、R01Bはお前達にとって最後の敵となるだろう。覚醒したオレには分かるんだ。――何せ、R01Bの中に眠るゲンガーは死んでいないのだからな。十年の歳月をかけて、それは再生の時を迎えた。R01Bはお前らの仲間ではない。四人目の使徒は、そいつなのだから」
その言葉尻を水の剣が遮った。目を向けると〈セプタ〉が「シェルブレード」でノストラの顔を叩き潰していた。
「いつまでもお喋りしてるんじゃない! こんな奴の戯れ言に惑わされて、わたし達は足を止めている場合じゃないんだ。運命だと? そんなものでたくさんの犠牲が払われてきたってのか? ふざけるな! 運命なんて、人間が切り拓くためにある!」
イシスの強い言葉にノアは何も返さなかった。その場から立ち上がり、「行きましょう」と簡潔に告げる。
「トキワシティへ。ヨハネを止めるために」
ノアは結局、ノストラに勝った事は偶然とも、運命とも判断しなかった。その背中を眺めながらロキは感じる。
どれだけ強い運命だろうと他人の命を弄び、誰かの人生を足蹴にするヨハネは邪悪だ。その本質だけは幼いロキでも分かる。
邪悪は止められなければならない。たとえこの世界が何を望んでいたとしても、十年前にヘキサが止められたように。今度は呪われた名前を持つノアが止めようとしているのだ。
その足を止める言葉は、ロキの中にはなかった。
カーステレオをかけながら彼は突然に空が暗くなったのを感じて窓越しに空を仰いだ。だが、青空と日差しは当たり前のように降り注いでいる。
「何やってんのぉ」
助手席に乗り込んだ彼女は彼の様子を怪訝そうに眺めた。「何でもないよ」と彼は返してハンドルを握る。
その瞬間、後方から黒い突風が流れ込んだのを感じた。その感覚に疑問を浮かべる前に彼女の発した叫びが耳朶を打つ。
「前! 目の前に、突然草むらが――」
そこから先の言葉は意味を成さなかった。何故ならば車は草むらへと突っ込み、次の瞬間、炎上したからである。
爆発四散した車を見下ろしていた複数の眼は無関心に行き過ぎていく。
古代よりそれらは自由だ。そしてこれからも、誰の束縛も受けず、世界を回していくのだろう。観測される事のない「未確認」の名と共に――。
第六章 了