第六章 十三節「高潔な魂」
〈キキ〉を呼び寄せる。
もう一度、ドリルくちばしを叩き込むしかなかった。ノストラは、「ここまで至ったんだ」と肩を竦めた。
「種明かしをしよう。さっきの攻撃、STEEL、つまり鋼のスペルを呼び出してオレの体細胞を変化、炭素を大量に発生させて鋼タイプにぶち当たったかのような事実を錯覚させた。つまり、オレはドリルくちばし程度では貫けない」
「やってみなければ分からない。思い込む事で不可能が可能になるというのならば、あたしと〈キキ〉も思い込めばいい。この一撃は鋼をも砕くと」
ノアが身構える。〈キキ〉はもう一度「ドリルくちばし」の姿勢に入った。「無駄な事だ」とノストラは憐れむような目を向けた。
「言ったはずだぜ。思い込み一つで人間は殺せる、と」
アンノーンが降ってくる。「D」のアンノーンだった。
「オレはこれからスペルを組む。お前ら三人を同時に始末出来る、人間が逃れられぬ言葉。D、E、A、T、H、つまり死だ。これを目にすれば人間は、たとえポケモンであろうとも、確実に始末する事が出来る」
次に「E」のアンノーンが降りてきた。ノアは〈キキ〉の名を呼びつけた。
「ドリルくちばし!」
ノストラがにたりと口角を吊り上げる。
「無駄だな。その攻撃が到達する前にスペルは完成する。それを目にした瞬間、お前らの死は確定――」
そこで言葉が途切れた。それ以上は聞き取れなかった。
何故ならば。ノアは目を閉じ、耳を塞いだからだ。〈キキ〉も同じように目を閉じているだろう。
「見る事で確定する死ならば、見なければいい。聞く事も駄目なら、聴覚も必要ない」
ノアは〈キキ〉へと思惟を飛ばした。〈キキ〉は迷わずにノストラの身体へと螺旋を描く嘴を叩き込んだ。ノストラがよろめいたのが気配で伝わる。ノアはそのまま、「〈キキ〉っ!」と名前を叫んだ。
続け様に放たれた「ドリルくちばし」の猛攻がノストラに襲いかかる。死のスペルを刻もうとしていたアンノーンの動きが鈍った。スペルが乱れ、戸惑っているのが空気の流れで分かる。ノストラが〈キキ〉の攻撃を受けて仰け反った。そのまま、ノアは〈キキ〉へと攻撃の手を緩めないように命令を下そうとした。だが、ノストラの姿が不意に掻き消えた。
ノアはうろたえて目を開く。先ほどまでノストラがいた場所には誰もいない。ノアが視線を巡らせていると、「何も聞かず、何も見ない事は不可能だ」とノストラの声が差し挟まれた。
ノアは顔を振り向け様に〈キキ〉へと思惟を飛ばす。弾かれたように〈キキ〉が弾丸の鋭さを持って空気を抉った。しかし、その場所にノストラはいなかった。どこへ、と周囲を見渡すがノストラの姿は捉えられない。声だけが明瞭に耳朶を打つ。
「脳は錯覚する。そう教えたな。視界を封じ、聴覚を封じる。なるほど、有効な手だ。即席にしては、な。だが、誤魔化せない感覚器がある。人間は視覚と聴覚だけで出来ているわけではないのだからな」
ノアは〈キキ〉を呼びつけて指定した方角へと螺旋の攻撃を浴びせた。だが、穿ったのは何もない空間だけだ。
「人間を構成するのは五感と呼ばれる感覚だ。視覚と聴覚を切り離せば、お前はオレの姿を捉えられない。それと同時に、アンノーンがお前を組み伏せる事が出来ないと考えているな。甘いぞ」
ノストラの声が響いて来るのがその証だった。何かを自分は捨てられていない。ノアは本能に任せて〈キキ〉へと指示を飛ばすが当然ノストラは捉えられない。
「音は空気の振動。目で捉えられる像は光の屈折角。お前は、ただ単に目を瞑り、耳を塞いだに過ぎない。人間は、それだけで音を遮断出来るようにはなっていない。骨伝導、という言葉を聞いた事があるか?」
ノアは片手を振るって〈キキ〉を飛ばす。だが目を瞑っているためにノストラが本来どの場所にいるのかは当てずっぽうだ。ノストラは構わず続ける。
「骨伝導とは生体内部を伝播する音を聞く方法だ。声などの音声は鼓膜だけが捉えているのではない。身体全体、そもそも人間という生命体は全身で音を聞いている。頭蓋骨を伝わり、聴覚神経を震わせる音を遮断する事は、物理的に不可能だ」
ノアは雄叫びを上げて〈キキ〉に命令を下す。暗い視界の中でノストラを探そうとするが耳も塞がっているためにノストラの位置が特定出来ない。
「十八世紀のドイツの作曲家、ベートーベンは二十代後半に難聴になったがこの時彼は指揮棒を歯で噛みピアノに押し付けて音を感じ取る事で作曲を続けられたのだという。もっとも、偽りの歴史にまみれたこの世界では正しく伝わっていないかもしれないが……。アンノーンはそれを可能にする。お前に張り付いたアンノーンがオレの声を伝えているんだ」
ノアは身体を揺すった。「振り落とそうとしても無駄だぜ」とノストラが告げる。
「アンノーンそのものにほとんど重量はない。何よりも、お前らが視認出来ないようにアンノーンを不可視にした。お前らはアンノーンが見えていても、それを視覚で捉える事が出来ない。捉えればそれはそれで、お前らの精神に介入する事が出来る」
畢竟、手詰まりである事を明かされているようだった。アンノーンが自分に接触している。この状態では骨伝導によりノストラの声は聴覚神経を震わせ、ノアに錯覚させる。だが、アンノーンを見ようとすれば視覚情報から錯覚させられる。
「オレは昔、マグマ団とアクア団が抗争して、陸と海を広げる事に関して情熱を燃やしている事を理解出来なかった。何故なら、そんな事をしなくっても、陸なんて干上がれば勝手に広がるし、氷が融ける事によって海抜は大きくなる一方だ。こいつらは、眼前の問題を棚上げにして、自分達の言い分を通そうとしている幼稚な連中に思えた。だがな、オレはこの力を得て、こう思えるようになったんだ。広げたかったのは陸でも海でもない、人間のエネルギーなのだと。思考する、思想する、思案するエネルギーを人間は広げたかった。自分の見たものを、感じたものを他人と共有したかったんだ。そのために生まれたのが宗教であり、人間の存在そのものである。その意思が、理屈ではなくオレの魂で感じられた。分かるか? つまり、誰もがグラードンでもあり、カイオーガでもあるんだ。人間は考えるエネルギーによって伝説のポケモンをも凌駕する事が出来る」
ノストラの声を頼りにして〈キキ〉へと命令を下すが、ノストラはかわすまでもなく攻撃は命中しなかった。今の自分はアンノーンによって錯覚させられている。骨伝導の範囲ですらアンノーンを操るエンシェントの能力の赴くままだろう。
「お前らには分かるまい。このはりぼての世界を生きる苦しみが。生きているのに死んでいるゾンビの感情が。お前らはオレの像を捉える事すら出来ない。正しきを見て、正しきを聞く事すら出来ない、無知蒙昧なこの世界の奴隷達よ。そうだ、オレは人間であって人間ではない。オレもまたポケモンなのだ」
〈キキ〉は完全に戸惑っているようだった。ノストラが見えていないストレスばかりか、トレーナーの不安すらも感じ取っているのだろう。
「オレの魂は伝説のポケモンなんだ!」
ノストラの叫びがノアを身体の芯から震わせた。次の言葉が放たれる時には、それは死を囁かれる時だ。ノアは、「……だったら」と耳を塞いでいた手を離した。閉ざしていた瞼を開けた。
「ノア! 何を!」
「お姉ちゃん!」
イシスとロキの声が響く。開けた視界の中にこの世界が見えてくる。アンノーンによって歪められた世界。周囲には音もなく、ノストラの姿もない。恐らくはエンシェントの能力で消したのだろう。
「目で見る事に意味がないのなら、目で見る必要はない。耳で聞く事に意味がないのなら、耳で聞く必要もない」
今、ノアを動かしているのは理性ではなかった。自分の内奥、自分を構築する一番小さな部品に集中する。それは、ヨハネに奪われてしまったものだ。だが、まだあるはずだ。その上澄みでもいい。自分の中にある、可能性を信じて。
――どうして自分の存在をノストラは感じ取る事が出来た? 自分が接近するのを、ルイが感じていたように。あるいは覚醒の予兆が肌に感じられたように。
ノアは思い出す。クラックの能力が自分を満たした時の感覚を。捨てたはずのナンバーアヘッドである部分を。造り物の自分ではなく「ノア・キシベ」という人間がもう一度拾い上げる。
ノアはくるりと身体を反転させた。薄く目を開く。
アンノーンが張り付いた景色の中に身を潜めたノストラの姿が映った。
――あたしが何者なのか、聞こう。ヨハネが何をするつもりなのか、聞こう……。
ノアは静かに〈キキ〉へと命令を下した。螺旋を描いた嘴の軌跡は正確無比にノストラの身体を叩きつけた。
ノストラが血反吐を吐き出す。ノアは目を開き〈キキ〉へと命じる。
「このまま、倒す」
ノアの言葉に呼応したように〈キキ〉が「ドリルくちばし」を流星のように叩き込む。ノストラがよろめき、身体をひねった。アンノーンを前に出して防御の姿勢を取ろうとする。その前にノアはさらに強固な攻撃の姿勢を取った。
「倒れろ」
ノアの精神が形になったように、〈キキ〉から光が迸る。弾丸のように射抜く速度を携えた一撃を、〈キキ〉は飛び散らせた。ノストラが目を見開く。
「何だ、それは……」
「あたしにも分からない。ただ、〈キキ〉が得た光である事だけは分かる。この光が未来を切り拓く事も。〈キキ〉」
その技の名前を口にする。
「――ブレイブバード」
〈キキ〉の身体が音速の壁を引き裂いて光さえ発しながらノストラへと直進する。水色の拡散粒子が〈キキ〉を包み込み、一瞬にして〈キキ〉の全長を超える仮初めの翼が形成された。
勇気の名を携えた技が〈キキ〉の全身を貫き、ノアは前に進むという意思が〈キキ〉に新たな力の胎動を許しているのだと分かった。
ノストラが呻き声を漏らす。アンノーンの防御の皮膜を突き破り、ノストラの腹腔を〈キキ〉は破っていた。
「やった……」
ノアが安堵して力を抜こうとした刹那、ノストラは手を伸ばした。ノアの身体を引き寄せて血を吐き出す。
「完敗だ……、オレの。だが、ただでは死なない。オレは自分で自分にアンノーンで錯覚させた。オレは瀕死の重症を負ってはいるが、この身体は今までにないほどに快調なのだと、オレに幻視させた。さぁ、完全な状態のオレを、お前は破る事が出来るか?」
ノアは怖気が走った。それほどまでにノストラを衝き動かすものは何なのか。だが、恐れは〈キキ〉に伝わる。ノアは身を竦ませそうになった恐れは自身を鼓舞するために使った。
「このままぶっ潰す!」
〈キキ〉がノストラの身体を打ち据える。それと同時にノアの身体へと何かが張り付いてくるのを感じた。アンノーンだ。アンノーンでノストラは自分に錯覚させようとしている。
「D」の文字のアンノーンが視界を掠める。構わずノアはノストラへと攻撃を叩き込んだ。
続いて「E」、「A」と文字がノアを死へと誘おうとする。ノアはさらに雄叫びを上げて自分を保持した。決して屈しない。少なくとも、死などを思い込んだりはしない。自分にあるのは有限の生だけだ。ならば、この命、燃やし尽くそう。極限まで絞られたノアの意識がノストラを打ち据える。ノストラがよろめき、ノアを引っ張った。その直後、ノアは内側から突き上げてくる衝動に視界が暗転したのを感じた。