第六章 十二節「虚弱精神回路」
赤い眼がヨハネを想起させた。イシスもそれを感じ取ったのか、「敵か?」と尋ねる。
「ああ。ヨハネが第二の使徒、ノストラ。洗礼名はナンバーストライク」
その言葉を受け、三人に緊張が走った。
「ナンバーシリーズ……」
ノアの声に、「その通り」とノストラは答えた。
「お前らに引導を渡すために、オレは現れたのさ。ノア・キシベ。いや、こう言ったほうがいいか? ナンバーアヘッド」
その名前にノアがささくれ立つ。ノストラはそれを見越したように背筋を伸ばして佇んでいた。
「お前、その名前を口にするって事は覚悟が出来ているんだろうな」
イシスが〈セプタ〉を伴って踏み出す。ノストラは自信を湛えた表情を浮かべている。ノアは口を挟んだ。
「気をつけろよ、イシス。この状況下で自ら姿を現したって事は、その必要があったって事だ。恐らくここから先の攻撃にはあたし達が見えていなければ出来ない」
その言葉にイシスが足を止め、「ああ」と頷く。
「しかも何十体と操っている割にはそいつらで攻撃しないところを見ると、何らかの制限があると考えるべきだな」
ノアとイシスの声にノストラは目を慄かせた。こちらとてただ闇雲に今まで戦ってきたわけではない。相手に対して気を引き締める事ぐらいは出来る。今の言葉は完全にこちらを接近させるように誘導する言葉だ。という事は、とさらなる事実が推測出来る。
「近ければ近いほどに有効な手が打てる。イシス、物理攻撃は避けるべきだな」
「とすれば、物理攻撃メインの〈セプタ〉で攻撃するよりも、ロキ」
「うん」とロキがモンスターボールからタブンネを繰り出す。タブンネは指先で電流の弓矢を番えた。
「タブンネ、十万ボルト」
タブンネが放った電流の矢をノストラは手を振り翳して防御した。しかし、先ほどのようにポケモンとして顕現する事はない。十万ボルトを受けたそのポケモンはすぐに倒れてしまった。
イシスがそれを観察して声を出す。
「このポケモン、防御のほうはほとんどゼロみたいだな」
「ええ。タブンネのタイプ一致ではない特殊技で沈むという事は、つまりそれほど能力値が高くないという事」
ノストラは一歩、後ずさった。それらの言葉を受けて動揺しているようだ。
「な、何だ、お前らは」
「こいつ、うろたえてやがるぞ」
「どうやら図星みたいだな。このままタブンネで一気に畳みかけよう」
ノアの声にロキが頷いてタブンネに指示を飛ばそうとする。ノストラは鼻筋を押さえていた。つぅと鼻血が滴る。
「……まただ。集中力が……。鼻血が……」
ノストラがその場に膝をついた。その時、空が歪み振り仰ぐ。視界の中を埋め尽くす光景にノアは息を呑んだ。
「……見ろ、イシス。こんなに……」
イシスとロキもそれらを視界に入れた。空を覆い尽すポケモンの群れがあった。暗雲のように立ち込めているそれらのポケモンは密集し、細やかな鳴き声を上げていた。
「アンノーンが、オレの制御を……」
ノストラが呻いた声にノアはそれらのポケモンがアンノーンと呼ばれているのだと推測した。
「どんな能力だか知らないが、どうやらこいつ、そのアンノーンとかいうポケモンを自在に操っていたみたいだな。わたしも、今気がついた」
普通ならば空を埋め尽くすアンノーンに気づくはずだ。それを今まで気にも留めなかったのはアンノーンが自分達の認識の外で動いていたせいだろう。
ノアは刑務所でのスリープを思い出した。もしかしたら同じように認識を食う能力だったのかもしれない。
「だが、どちらにせよ、終わりだな」
イシスの声にノストラは喘ぎながら目元を覆っていた。
「〈セプタ〉! ロキのタブンネと同時にとどめをさせ!」
〈セプタ〉が水の剣を携えてノストラへと肉迫する。ロキのタブンネが十万ボルトを発生させた。これでノストラは確実に戦闘不能になる。「じゅうまんボルト」の矢と「シェルブレード」の切っ先がノストラにかかると思われた。その時だった。
「あっ、そうだ。こうすりゃいいんだ」
アンノーン二体がタブンネと〈セプタ〉の前に降り立つ。その瞬間、アンノーンから細やかな光が連なって放たれた。タブンネと〈セプタ〉がピタリと動きを止める。イシスが息を呑んだ。
「何を……」
「まずは一本」
その言葉が放たれた瞬間、〈セプタ〉の腕が根元から折れた。枯れ枝のように容易く折れた腕が力をなくす。イシスが戸惑っている間に、「お前も一本」とノストラがイシスを指差した。
その直後、雷鳴のような音が鳴り響いた。
イシスが膝を折る。彼女は右腕を押さえていた。心臓が早鐘を打つ中、イシスが目を見開く。
「う、嘘だろ……。指差さされただけなのに」
疑いようがなかった。イシスの右腕が折られていたのだ。イシスが喉の奥から叫びを上げる。ノストラは鼻血を指先で拭って、「別にポケモン同士で戦ってやる必要ないな」と呟いた。
「トレーナーやっちまったほうが早い」
その言葉の後、弾かれたように笑い出した。ノアは怖気が走るのを感じた。ノストラはタクトを振るように指でリズムを取った。
「アンノーン。F」
その言葉に空を埋め尽くしていたアンノーンの姿が根こそぎ消えている事に気づく。空から零れたようにアンノーンが落ちてきた。そのアンノーンは見方によればアルファベットの「F」を象っているように見える。
「I、R、E」
矢継ぎ早に言葉が放たれ、それと呼応したアンノーンが降ってくる。それらが並び立った時、ぼん、という音が耳朶を打った。音の方向へと振り返る。
イシスの身体から炎が発していた。イシスは火達磨になりながらよろめき後ずさる。ノアは〈セプタ〉に命令を下した。
「〈セプタ〉! 水でイシスの火を消して!」
〈セプタ〉が水を噴き出してイシスの炎を消す。イシスの皮膚は黒ずんでいた。焼け爛れた皮膚が痛々しい。しかし、どうして突然炎が発せられたのか。一体、ノストラは何をしたのか。ノアはそれらを考えながらも今すぐにこの少年を無力化しなければと思っていた。
このままでは自分達は不利に立たされるばかりだ。
「〈キキ〉! ドリルくちばし!」
命令の声を飛ばすと〈キキ〉が羽ばたいてノストラへと突っ込む。ノストラはまたも指揮者のように振る舞った。
「S、T、E、E、L」
その言葉に呼応してアンノーンが降ってくる。それらのアンノーンを無視して〈キキ〉はノストラの心臓を捉えた。
――倒した。
それを確信したが、ノストラは後ずさるどころかにやりと笑みを浮かべた。〈キキ〉がよろめく。嘴に亀裂が走っていた。ノアが驚愕の視線を向けていると、「驚いたか?」とノストラは首筋をさする。
ノストラの身体はまるで鋼のように硬質化していた。それが〈キキ〉の「ドリルくちばし」を無効化したのだ。ノアは突然なノストラの変化に怯えていた。
――こいつは何だ? 何をしたのか。
その謎を追及する前に、「次はお前の番だな、ナンバーアヘッド」とノストラが口にする。
ノアは覚悟を決めるしかなかった。どうにかしてアンノーンが何をしているのか。何が起こっているのかを解明しなければ勝つ手段はない。
「お姉ちゃん! タブンネ、冷凍ビーム!」
タブンネが指を立ててノストラへと向ける。ノストラは一瞥を向けた後、ただ一言だけ告げた。
「凍るのはお前のほうだ」
その言葉の直後、タブンネの指先にピシリと何かが凝結した。ノアとロキが同時に目を向ける。「れいとうビーム」を放とうとしていたタブンネの指先から二の腕までが凍りついていた。
「タブンネ!」
ロキが声を上げる。凍結した腕からは血が滴っている。ノストラは、「オレに不可能はない」と胸を反らした。
「オレはヨハネ様のために命を捧げる。その覚悟がある。さぁ、お前達にオレの覚悟が砕けるか? この、ダイヤモンドのような覚悟が」
ノアは考えを巡らせた。本当に不可能はないのか。ノストラの前では何事も無力と化すのか。
「三人同時だ」
ノストラの宣言にノアは肌を粟立たせる。
「次の攻撃でお前らは三人同時に死ぬ。アンノーンには、エンシェントの能力にはそれが出来る」
ノアは必死に次の思考へと繋げる。考えろ。考えなければ。この状況を打開する方法を。
「ナンバーアヘッド。お前は、やはりヨハネ様の前に立つべきではない。能力を奪われたお前ではな」
ノストラの眼が赤く輝く。ノアは思い出した。
能力。ノストラはそれを行使しているのだ。今までアンノーンが巻き起こした事を思い出せ。
最初は一番道路を峠道のように思わせた。次にいるはずのない伝説のポケモンを顕現させ、さらにもう一体のポケモンを発生させた。空をアンノーンが埋め尽くしていた。アンノーンによって何もされていないはずのイシスの腕が折られ、人体自然発火が起きた――。
それらに共通するもの。アンノーンは何を操っているのか。
「……精神」
ノアはその答えに至った。峠道のように思わせる。伝説のポケモンがいるように思わせる。それらは目を閉じた自分の前に無力だった。ノアはハッとして顔を上げた。
「アンノーンの能力、エンシェントの能力は精神へと介入する。それこそがアンノーンの力……」
その言葉にノストラは感嘆の息を漏らした。
「答えに辿り着くとは。ナンバーシリーズの申し子なだけはある。その通り。アンノーンは精神へと介入し、ないはずのものをあると錯覚させる」
ノアは足を踏み出した。
「おっと。錯覚だからって油断するなよ。人間は、思い込む。思い込む事によってどんな逆境も可能になる。それとは反対に、どんな容易な事でも思い込む事によって不可能になる。人間は、思い込みに殺されるんだ。精神を操るアンノーンにはそれが可能だった。オレは今まで正しきを見、正しきを聞いてきた。この世界の真実の声を。真実の姿を。だから思い込んできた。オレは誰よりも思い込みを操る事が出来る」
アンノーンの能力は精神への介入。自分に炎がつくと脳が錯覚すれば勝手に発火物質を集めて炎を発生させる。骨が折れたと思い込めばその部分の骨密度が変化し骨が折れる。
人は、思い込み一つで生死を分ける局面に立たされる。
ノアは、「だったら」と声を発した。
「あたしも、あんたに勝つと思い込めばいい。思い込みにあたしは殺されない」