第六章 十一節「共鳴連鎖」
ノアが降りてくるとマリアは目元を腫らしていた。ロキがテーブルの対面に座っている。マリアは目元を拭って、「行くのね」とノアに言葉をかけた。その声に頷く。
「うん。一刻も早く、ヨハネを止めなければならない。そのためには奴を先回りしなければ」
「きっと、あなたは止めても行くのよね」
マリアの言葉にノアは、「ええ」と返す。
「あたしの名前はノア・キシベ。もう、この名前をただの呪いだとは思わない。この名前は、ママとの繋がりでもあるから」
マリアが伝った涙を拭いながら頷く。イシスが頭を下げた。
「さっきはすいませんでした。わたし、結構ひどい事を」
「いいのよ。悪魔の研究者だった事は事実。私は、たくさんの命を侮辱した。その罪は決して拭えないわ。あなたは正しい。あなたみたいな人が、私の娘の仲間で誇らしいほどよ」
その言葉にイシスは照れ隠しのように後頭部を掻いた。ノアは微笑んで玄関へと歩みを進める。
「もう行かないと」
本心ではマリアとの時間も欲しかった。せっかく、再会出来たというのに結局傷つけ合うだけで別れる事になってしまうのが寂しい。だが、マリアの優しさに甘えていては前に進めない。今は進む事だけを考えろ。
ロキが椅子から立ち上がりマリアに一礼した。
「コーヒー、おいしかったです」
ロキの言葉に、「また来て。その時にはもっとおいしいのを用意するから」とマリアは答えた。ロキとの間にも何か思うところがあったのかもしれない。
「ママ。あたしにとって、ママはこの世でたった一人。だから、許す許さないとかじゃない。これからもずっとママでいて。あたしの願いは、ただそれだけ」
偽らざる言葉を紡ぎ出す。マリアは精一杯微笑んで、「待っているわ」と応じた。
「あなたが、この世界でたった一つ、帰って来れる場所を用意しているから」
ノアにとってもこの場所は故郷だ。故郷はいつでも、自分を慰撫してくれる。ノアは確信を持って頷いた。
「行ってきます」
いつものように、特別な感慨がこもったわけでもない言葉。それをいつも通りに発せられる。それだけで幸福が目の前にあるような気がした。マリアはまた感極まったように瞳を潤ませたが、やがて頷いた。
「行ってらっしゃい」
その言葉を背中に受けられる事がどれほどの幸せなのか、ノアは噛み締めながら歩き出した。もう行かなくてはならない。ヨハネを止めるために、自分は戦いの道を選んだ。
「マリアさん、決して悪い人ではないんだろうな」
一緒に歩きながらイシスがぽつりとこぼす。きっと、人間を悪意に駆り立てるのは、そのものの善性や悪性ではない。何かが邪悪で、何かが正義など本当は誰にも決められないのだ。
イシスは自分が悪魔の研究者だと言った事に負い目を感じているらしい。イシスの事だ。自分がその立場ならば、という事を考えたのだろう。
「わたしには、全ての罪の象徴である子供を抱えたまま、生きている事なんて出来ないだろうな」
イシスは顔を伏せる。自分達も女性だ。いつかは子供を授かる時が来るのかもしれない。その時に、我が子に罪の十字架は背負わせられないだろう。マリアがキシベの事を決して悪く言わなかったのはそれもあるのかもしれない。
「お姉ちゃんのママは、とても強い人だったね」
ロキが口にする。ロキと話してマリアは泣いていた。ロキの何かがマリアの心を動かしたのだろう。彼女もまた、罪の象徴たるイミテの娘だ。
「ええ。誇れるママよ」
ノアはそれだけは譲らなかった。どれだけ人々の悪意が自分を責め立てても構わない。ただ偽らざる信念としてその部分だけは捨てないでおこう。ノア・キシベという「人間」としてあるのならば、確固たる理念を。決してナンバーシリーズではない、ノアズアークプログラムの執行者でもない、自分はただの「人間」なのだ。
「一番道路を行くわ。そのままトキワシティに出る。シロガネ山に行くためにはトキワシティを通らなければならないはず。必ずヨハネを足止めするわよ」
「ああ、分かっているさ」
イシスの言葉を受けながらノアは一番道路へと踏み出した。軽い丘陵があり、凸凹とした道が続いている。草むらがあるが出現するポケモンはふたご島に比べれば随分と弱いだろう。ノアは予め〈キキ〉を出しておく事にした。そうするとポッポなどの弱いポケモンは自然と避けていく。強いポケモンには逆らわない事を本能的に察知しているのだろう。
「草むら、やけに多いな」
「最初の関門って言われているから。カントーでトレーナーとして旅立つのならここからスタートになる」
ノアは踏み締める草むらの感触を足裏で確かめる。すぐにトキワシティに辿り着くはずだ。一番道路はそれほどの距離がない。
「……おい。いつになったら着くんだ?」
イシスの声にノアも怪訝そうにした。一番道路は短い道のはず。だと言うのに、歩けども歩けどもトキワシティが見えてくる気配がない。
「何だか暗くなってきていないか? それにさっきまでよりも草むらが深くなったような気が」
ノアは空を仰いだ。先ほどまで確かに昼間のようだったのに既に夜の帳が降りたように周囲は闇に包まれている。それだけではない。草むらは足首程度までしかなかったはずなのに、いつの間にか眼前を圧迫するほどに長くなっている。
「おかしい。一番道路にはこんな道はない」
「間違えたんじゃ」
「それこそ、あり得ないわ。一番道路は一本道よ」
ノアは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。一番道路そのものが自分達を拒んでいるかのように不可思議な迷宮と化している。ノアは目の前の草を払った。その瞬間、草むらが盛り上がり、巨大な影が屹立した。
イシスとロキがそれぞれモンスターボールを構える。ノアは現れた影に戸惑った。赤い積層構造の身体を持った巨獣だった。黄色い眼光が射る光を湛えてノア達を見下ろす。イシスが、「何で、こんなところに……」と声を詰まらせた。遥かに巨大な影にノアは、「知っているの?」と声をかける。
「ああ、こいつはグラードンだ。ホウエン地方にいる伝説のポケモン……」
伝説のポケモンがどうしてこんな片田舎の一番道路にいるのか。ノアは問いかけようとしたが、その前にグラードンが咆哮した。地面が捲れ上がり、鳴動する空気の中に熱気が混じる。
「グラードンは陸を象徴するポケモンだ。何だってこんなところにいるのか、わたしにも見当がつかない」
グラードンが鉤爪を備えた扁平な腕を振り上げる。ノアは咄嗟に声を出した。
「〈キキ〉、ドリルくちばし!」
〈キキ〉が螺旋を描いてグラードンへと突き刺さる。しかし、グラードンにはほとんどダメージがないように見えた。〈キキ〉が戸惑う鳴き声を上げる。ノアは続け様に叫んだ。
「電磁波!」
〈キキ〉が電流を放ち、動きを止めようとするがグラードンはそれを引き千切った。イシスが声を出す。
「グラードンは地面タイプだ。電磁波は効かない。わたしの〈セプタ〉で!」
イシスはガメノデスの〈セプタ〉を繰り出す。〈セプタ〉は手刀の形に突き出した腕から水流を発し、水の剣を構築した。
「シェルブレード!」
〈セプタ〉が躍り上がり、水の刃でグラードンの腕を切り落とす。しかし、グラードンは怯んだ様子もなかった。千切れた腕をグラードンは瞬時に再生させる。まるで吸い込まれるように腕は元通りになった。イシスが目を見開く。
「何が起こった……」
ノアにも分からなかった。グラードンは攻撃に転じようとする。身体を開き全身に青い血脈を走らせた。グラードンの足元が陥没し、地面が亀裂を走らせる。赤い血潮のようなマグマが噴き出した。
「地割れか! ノア、離脱しろ!」
イシスは〈セプタ〉に自身とロキを抱えさせて飛び退る。ノアは〈キキ〉の足に掴まった。
「〈キキ〉、飛んで!」
その直後、地面が崩壊し粉塵が舞い上がった。ノアは眼下に赤く染まった地面を見やる。
「なんて威力……」
「地割れは巻き込まれれば確実にやられる。あんな危険な技をこんな狭い道路で」
その言葉にノアはハッとする。上空から見下ろした一番道路は一本道だった。たまに丘陵があるものの、基本的に迷うような構造にはなっていない。目を転じるとトキワシティはすぐ傍だった。
「何で……。あたし達はどうしてこんなに時間がかかったの?」
「今はグラードンを倒さなくちゃならない。〈セプタ〉で何とか時間を――」
そう口にしようとしたイシスの言葉尻を裂くようにグラードンが吼えた。背筋が割れ触手が蠢き出す。ノアは息を呑んだ。割れた背骨から出てきたポケモンは全くの別物だ。緑色の触手で構成された違うポケモンだった。
「モジャンボ……? 何で、グラードンの体内に」
モジャンボと呼ばれたポケモンはグラードンの背筋から飛び出すと触手で〈セプタ〉を絡め取った。〈セプタ〉にイシスが命令の声を飛ばす。
「シェルブレードで切り裂け!」
自律的に動いた四本の腕がそれぞれ水の刃の輝きを灯して絡んだ触手を切り裂いた。モジャンボは中央の黒い球体の本体を突き出す。すると眼前で緑色の光が集束した。球体を成し、光が乱舞する。
「ソーラービームか……!」
イシスが苦々しく口走る。その直後、一筋の光条が発せられた。ノアは咄嗟に〈キキ〉へと命令を下す。
「オウム返し!」
〈セプタ〉の前に降り立った〈キキ〉の眼前に銀色の皮膜が形成され、太陽光の光線を反射させた。モジャンボへと直進したそれはモジャンボの身体を焼き切る。粉塵が舞い上がり光線の威力を思い知らせた。焼け爛れた身体を引きずりながら、モジャンボが砂煙を裂いて現れる。再びモジャンボは「ソーラービーム」の発射態勢に入った。イシスが叫ぶ。
「グラードンの特性を利用しているんだ。グラードンの特性は日照り。その恩恵を受け、モジャンボはソーラービームをチャージせずに乱発する事が出来る」
空を仰ぐと、暗がりの中、奇妙なほど強調された太陽光が視界に入った。ノアは手でひさしを作り、「おかしいわ」と口にした。
「どうして一体のポケモンの中からもう一体のポケモンが」
「わたしにも分からない。だが、あれを突破しなければトキワシティに行けそうにないな」
ノアは考えを巡らせる。本当にそうなのか。目の前のグラードンとモジャンボは本当に敵なのか。
「どこかに操っているトレーナーがいるはずだよね? でも、そんなの見えない……」
ロキの言葉にノアは思い返す。グラードンも草むらを分けた時、突然に現れた。モンスターボールから出したのならば光なり音なりの反応はあったはず。だと言うのに、グラードンは最初からそこにいたかのように唐突に出現したのだ。そして、不可解なモジャンボ。
ノアは攻撃姿勢に転じようとしているイシスへと、「目を閉じて」と口にした。イシスが、「何を……」とうろたえる。
「今、目なんて閉じたら地割れでやられるぞ」
「違う。イシス、ロキ、二人ともよ。目の前のグラードンとモジャンボは、本当に存在するのか」
「ノア、何を言っているんだ。現に攻撃を受けている」
その通りだ。だが、ノアは試さずにはいられなかった。
「いい。三つ数えるわ。その間に、目を閉じて。全員よ」
「馬鹿な。全滅するぞ」
「一つ」
皆まで聞かずノアはカウントを始める。すると視界の中でモジャンボが攻撃態勢に入った。太陽光を眼前に集束させる。
「ノア! ソーラービームをまともに受けるぞ!」
「二つ」
ノアはイシスの言葉を聞かずにカウントする。ぎゅるぎゅると「ソーラービーム」の光が凝縮し、今まさに発射されようとしている。
「ノア!」
「お姉ちゃん!」
それらの言葉を聞かず、ノアは最後のカウントをした。
「三つ」
ノアは目を閉じた。他の二人も同じように閉じたかは確認していない。その瞬間、空間を震わせる光の帯が発射されたのが分かった。空気を焼きながら光条が放たれ、自分達を焼き切ってしまう――はずだった。
だがいつまで経っても痛みも衝撃も訪れない。ノアは目を開いた。すると、一拍遅れて事の次第を確認したイシスが驚愕の声を上げた。
「何だ、これは……」
ノアも瞠目する。先ほどまでグラードンだと思っていたそれはグラードンではなかった。黒いポケモンが寄り集まってグラードンの形を成しているだけだ。モジャンボも同じである。黒く細やかなポケモンがモジャンボになりきっていた。
ノアは〈キキ〉へと指示を飛ばす。
「〈キキ〉! あのポケモンに攻撃!」
〈キキ〉が黒い瘴気を纏わせて翼でモジャンボを構築していたそのポケモンを打った。するとモジャンボの形が崩れ、ぼろぼろと知恵の輪を解いたようにそのポケモン同士のリンクが外れていくのを感じた。
グラードンを構築しているのも数十体の同じポケモンだ。だが、同じ、というには語弊があった。それらのポケモンは基本的な形状は似通っている。眼球のような意匠があり、黒いぺらぺらな身体である事は同一だが、一体ごとに形状が違っていた。ノアは戸惑っていた。一体、これは何なのか。〈キキ〉が叩き落した一体を見据える。イシスが声を出した。
「こいつは、ポケモンなのか? わたしも見た事のない種類だ」
モジャンボを形成していた数十体のポケモンは空へと吸い込まれていく。そのポケモンはあろう事か空間に溶けていった。ノアは目をしばたたく。一瞬のうちに巻き起こった出来事に三人ともついていけなかった。しかし、次の瞬間に放たれた声に目を向けた。
「まさか本物ではない事を見破るとはな」
声の方向を見やると、少年が立っていた。黒い髪を逆立たせ、赤い眼が爛々と輝いている。自信に満ちた瞳だ、とノアは感じた。
「襲撃程度ならば、出来るようになったぜ。それくらいの集中力が戻ってきたってわけだ」
少年の言葉にノアは身構えた。