第六章 十節「赦すこと」
ノアは自分の育った部屋を訪れていた。部屋は新聞社で働き始める以前よりほとんど使っていなかったが、そのままの形だった。イシスが腕を組んで扉にもたれかかる。
「どうして、あの女を許せた?」
マリアの事を言っているのだろう。ノアはマリアを責める気にはなれなかった。それどころか、未だに母親と呼んでいいのか、と了承を取った。マリアは戸惑っていた。自分のような悪魔が母親でいいのか、と。ノアは頷いた。
「……あたしにとっては、母親は一人だけだから。たとえ血が繋がっていなくとも、あたしにとってこの世で一番信じられるのは、ママなのよ」
イシスは鼻を鳴らす。
「ぬるいな。そんな事では、これから先、ヨハネを止める事も難しい」
「絶対に止めてみせる」
ノアは拳を握り締めた。イシスが、「あいつから聞き出せた事は、大きく二つ」と指を二本立てる。
「三日後の日食の時に、ノアズアークプログラムは完成する。もう一つはシロガネ山、空中要塞ヘキサ跡地に行かねばならない事。そこでヨハネは事を起こすつもりだ」
ノアは窓辺からシロガネ山を見やった。空中要塞ヘキサ跡地。全ての因縁の集結する場所。ノアは呟く。
「ねぇ、イシス。あたしは、ノア・キシベをまだ名乗るわ」
自分にとっては因縁の名前だ。しかし生まれは切り捨てられるものではない。ずっと背負っていくしかないのだ。自分がマリアを許せたように、この名前も許そう。
「そうか。だが、あの女にとっては罪の証だ」
自分がキシベの名を名乗る事は自分にとっても、マリアにとっても重いものとなるだろう。しかし、ノアの中の決意は固かった。
「あたしは人間、ノア・キシベとしてヨハネを止める」
造られた存在やナンバーアヘッドなどでは決してない。一人の人間として、許せない事に立ち向かうだけだ。
「その決意にわたしも乗らせてもらう」
「酔狂ね」
ノアが顔を振り向けると、イシスは口元を斜めにした。
「酔狂で結構さ。わたしも根っからの変わり者だからな」
イシスの言葉にノアは微笑んだのも束の間、すぐに真剣な表情をシロガネ山に向け直した。
「日食の時、その時までにヨハネを見つけて決着をつけなければ」
ロキはノアの母親が言っている事の半分も理解出来なかったが、イシスがそれに対して怒りを抱いているのは分かった。ノアはしかし、それらもひっくるめて「許す」という判断を下したのだ。それは自分では及びもつかないほど慈愛に満ちた決断だという事は容易に想像出来た。
ノアは造られた存在であった。キシベの娘である事は間違いないが、母親であるマリアとは血縁関係がない。つまりノアは絶対の孤独に立たされたのと同義だ。だと言うのに、ノアの魂は穢れるどころかさらに高貴な輝きを帯びてヨハネを止めるという一事に向かっている。そのひたむきさにイシスもついて行く事を決めたようだった。
だが、ロキはどうすればいいのか分からなかった。ヨハネによってノアが自分の母親を殺した人間だと思い込んでいた。生き返らせる、という言葉を額面通りに受け取ってノアを殺そうとも考えた。だが、ノアは自分をも許してくれたのだ。それどころか信頼もしてくれた。脱獄は自分達を危険に陥れる行為だと分かっていてもノアはヨハネを追わずにはいられなかった。それは彼女の魂が奥底から光を放っているからに他ならない。世界の敵、キシベの娘という咎を背負っていながら、この世の誰よりも清い精神の持ち主なのだ。
ロキはマリアが淹れてくれたコーヒーを眺めながら考える。自分はどうするべきなのか。ノアの助けになるのだろうか。
「ロキちゃん、よね」
マリアが口を開いた。ロキが顔を上げると、「あなた似ているわ」と言葉が発せられた。
「えっと……だれに?」
「ノアに、よ。ノアが小さい頃によく似ている」
マリアは微笑んでいた。ロキは聞かずにはいられなかった。
「お姉ちゃんの事、どう思っているんですか?」
マリアは微笑みを掻き消し、「最初は、憎しみの体現者と思っていたのかもね」と呟く。
「憎しみ……」
「そう。私もキシベも、この世界が許せなかった。私は、ノアには言っていないけれど、子供が産めない身体なの」
「えっ」とロキは覚えず聞き返す。マリアは腹部をさすりながら、「昔、ロケット団がいた頃にね」と話し始めた。
「私はシルフカンパニーという会社の重役の娘だった。でもある日、シルフカンパニーはロケット団への資金提供が露見して重役連は清算され、市民によるリンチにあった。私も、その被害者の一人だったわけ」
ロキは言葉をなくしていた。マリアは暗い光を湛えた瞳で口にする。
「だから、キシベとは利害の一致もあった。この世界は間違っている。それがあの人の口癖だったわ。私も同じ気持ちだったから、生態分野の研究に心血を注いだ。Rシリーズはあの人の娘、ルナのクローン実験の分野。多分、真っ先におかしくなっていたのはあの人なんだと思う。自分の娘と同じ姿の実験体が何人も生産されて、気が狂わなかったはずがないわ。私は、実験だと割り切って臨んでいた。Rシリーズが何人死のうが、それらの実績がナンバーシリーズに引き継がれようが興味がなかった。人間というものに絶望していたのね。こんな、たんぱく質と電気信号の塊に情なんてないものだと思っていたわ。感情、精神は脳を伝わる電気信号の一種。肉体はたんぱく質で出来た偶然の産物。そこいらの電子レンジと変らない、いつ壊れてもどうって事のないものだと思っていた。ノア、あの子と出会うまでは」
ロキはマリアが罪の告白をしているのだと分かった。余計な言葉を挟まずに、ノアの事をどう思っていたのか尋ねる。
「お姉ちゃんの事を、愛していたんですか?」
「そうね。愛、なんていう通俗感情なんて捨て去ったと思っていた。でも、あの子のぬくもりと笑顔を感じた時、ああ、ここで死んでもいいのかもしれない、と私は思えたの。おかしいわよね。今まで、どれだけ死体を見ても平気だったのに、この子だけは自分の命を賭してでも守りたいだなんて、身勝手そのものだと思えた。でも、同時にそう思える事っていうのは人間にとってごく当たり前の、それこそどれだけ魂が汚れていたって持っている感情なんだって知れた。私の魂でも、愛おしいものを愛おしいと思える事は出来るんだって。……あの子は自分だけじゃない、私も救ってくれたのよ」
マリアは本当の事を語っているのだとロキは直感した。マリアの眼差しが自分を見つめてくれた母親と重なったからだ。
覚えず、「……うらやましいな」と口にしていた。
「ロキちゃん、お母さんは?」
「しんでしまいました。もう、いないんです」
その言葉にマリアはハッとして、「ごめんなさいね」と謝った。ロキは、「いえ、いいんです」と言った。
「ロキは、刑務所で育ったんです。ずっと、ママからもらった能力でまわりをだましながら。でも、お姉ちゃんに出会ってわからせられました。他人をだまして、あざむいて得た結果は、しょせん、その程度でしかないって。お姉ちゃんは、とてもまっすぐなんです。ロキは、そんな人に会った事がなかった。刑務所の中は汚い大人達であふれかえっていたから。だから、ロキも、お姉ちゃんの光に、すくわれたんです」
ノアはキシベの娘という十字架を背負っていながら、それで精神がひねくれてしまうような事はない。悪として宿命づけられていても正義を成そうとする心は育まれるのだ。ロキはマリアに教えた。
「きっと、お姉ちゃんを今のお姉ちゃんにしたのは、お母さんであるマリアさんの事も会ったと思うんです。マリアさんはお姉ちゃんにすくわれたって言っていましたけど、多分まわり巡ってマリアさんがお姉ちゃんをそういう人にしてくれたっていうか。……うまくいえないんですけど、そう思うんです」
ロキは言葉足らずな自分を責めたが、マリアには伝わったようだ。頬を透明な涙が伝う。ロキは大人が苦しみ以外で泣いたのを初めて見た。
「……ごめんなさいね。私、そう思えなかった。ずっと、ノアには言えなかった。あなたの父親は立派だって教えてきたの。キシベの名を負い目に感じる事のないように。それ以上に、あの子が自分の生まれに縛られないように。でも、それって私の利己主義な一面もあったのよ。キシベの事を私はある一面では崇拝していたし。この世界は間違っているってのも、まだ信じている。だからノアズアークプログラムを組み込んだ。でも、私には迷いもあったの。そんな私の一部分があの子に自壊プログラムを組み込んで、ノアズアークプログラム阻止を企てた。賢しいのよ、私って。結局のところ、一線を踏み越えられていない。踏み越えたくないって。でも、ノアは私が思うよりもずっと立派に成長してくれた。誇りを持って言えるわ。あの子が私の娘で、まだ私の事を母親と呼んでくれて、本当によかったって」
マリアは口元を押さえて嗚咽を漏らした。ロキの言葉がマリアの感情の一つを動かしたのだろう。
その姿にロキは希望を持つ事が出来た。人間は、誰かのために感動出来る。誰かの事を思って涙出来る。そんな人間に貴賎はないのだ。だからこそ、現行人類を滅ぼそうとしているノアズアークプログラムは阻止しなければいけない。それは今を生きる人間の感情を無視してしまう事になるから。
誰だって生きたい時代に生きられるわけではない。生きたい場所に生まれられるわけではない。選べないのだ。そんな自由の利かない人生を、誰もが必死に生きている。ヨハネの行おうとしているのは、そんな人々の尊厳を叩き潰す行為だ。それは絶対に許されてはいけない邪悪なのだと、ロキは思えた。マリアの涙が、ロキの信念に火を灯す事になった。
「マリアさん」
ロキは優しく言葉をかける。マリアは、「何?」と涙を流しながら尋ねる。
「ロキは、ノアお姉ちゃんの味方です。たとえこの世界が終わっても、ずっと」
その言葉にマリアは、「ありがとう」と何度も礼を言った。