第六章 九節「聖母」
真っ昼間のマサラタウンを訪れると、白い家屋の屋根が眩しい。
高速艇を降りて、添乗員の怪訝そうな眼差しを受けたが追及はされなかった。ふたご島刑務所は内々に事を収めるつもりなのだろう。自分の事はまだ報道されていないらしい、とノアは実感した。添乗員の目も白髪に注がれていた様子だ。ノアは白くなってしまった髪をかき上げてマサラタウンに流れる風を感じる。始まりの町を自称する場所は穏やかな息吹に包まれていた。
「ここに、お前の母親がいるのか?」
後ろから続いてきたイシスの声にノアは首肯する。
「そのはずよ。あたしが収監された時に何もなかったのだとすれば」
思想犯として逮捕された時、母親に何かあったかどうかは聞いていない。バッシングを受けたのだとしたら別の地に移り住んでいる可能性もある。
「ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんのママはどんな人?」
ロキが尋ねる。ノアは歩きながら、「そうね」と顎に手を添えた。
「とても優しいママよ。だから、あたしはこの世界で唯一信じられる人だと思っている」
思っていた、というほうが正しいのかもしれない。自分が造られた存在であり、ノアズアークプログラムの中枢であった事を知った今となっては、母親の愛情がどこまで本当だったのかは疑わしかったが、その事は会うまで二人には言うまいと思っていた。
「ノア。あんまり悠長な事も言えない。確かにわたし達は囚人の証であるオレンジのジャケットは捨てたし、ふたご島刑務所も事を荒立てたくないみたいだ。だからと言って、わたし達を誰も追っていないのだと考えるのは楽観的過ぎる」
イシスの言う通りだった。警察機関には顔写真と脱獄の事実くらいは伝わっているかもしれない。だからと言って公共機関を使わずに絶海のアルカトラズから抜け出すのは不可能だった。高速艇を使い、グレンタウンを経由しない方法でマサラタウンに至ったのも目撃情報を減らすため。何よりも今のノアには分からない事だらけだった。
ヨハネの目的は何なのか。ノアズアークシステムとは一体何の事を指すのか。クラックの能力を奪われて相手を感知する術は失われたかに思えた。だが、この先ヨハネの動きを先回りできるのならば自分達にも勝機はある。リョウとルイだけに任せて静観している事など出来なかった。
「あたし達は刑務所で何度も死にそうな目に遭った。だから、これはあたし達の戦いよ。ヨハネの思惑が何なのか。はっきりさせる必要がある」
ノアが強い調子で発した言葉にイシスとロキは頷いた。既に四日経っている。もし、ヨハネの目的が果たされているとすればこの世界は終焉を迎えているはずだが、何か変わった様子はない。だが、そうでなくとも出遅れている事実だけは変らなかった。
ノアは一つの家屋へと歩み寄った。表札はない。「キシベ」の名をわざわざ名乗ろうとはしなかった。
「ここか?」というイシスにノアは首肯する。何日ぶりの我が家だろう。ノアはインターホンを押した。すると、「はい」と応じる声と共に玄関が開かれた。
立っていたのは黒髪の女性だ。イシスが息を呑んだのが伝わる。ロキもそうだった。きっと同じ感想を抱いたのだろう。
――若過ぎる、と。
女性はノアを認めると少しだけ目を瞠ったが、やがて全てを悟ったように、「ああ」と呟いた。
「おかえり、ノア」
「ただいま。ママ」
それだけでお互いの認証が取れたような気がした。
「上がりなさい。話があるんでしょう?」
女性は奥へと引き返していった。ノアは久しぶりの実家に足を踏み入れる。イシスとロキがたじろいでいたがノアは手招いた。
「大丈夫よ」
「罠だという可能性は」
「そんな事はないわ」
ノアは確信を込めて言い放つ。
「ママが裏切るはずはない」
その言葉にイシスは眉をひそめたがやがて玄関をくぐった。ロキも、「おじゃまします」と入ってくる。
リビングに向かう廊下を歩き、ノアは懐かしい香りが鼻腔を掠めたのを感じる。我が家の匂いだ。
「さぁ、こっちへ」
女性はノア達をリビングのテーブルへと誘った。イシスは警戒して座ろうとしない。ロキが少しばかりの逡巡を浮かべたが女性の笑顔に椅子に座った。ノアもその隣に座る。
コーヒーを淹れた女性はノア達の対面に座った。ノアとロキ、それにイシスへとそれぞれマグカップを手渡す。黒々とした液体に自分が映っていた。
「ノアはブラックだったわよね」
その言葉に、「うん」とノアは首肯する。次いでロキへと目線を向けた女性は、「この子には、まだ苦いかしら?」と気を遣った。
「いえ、あの、ロキは大丈夫」
「そう。ロキちゃんっていうのね」
女性は柔らかく笑んだ。ロキが照れたように顔を綻ばせる。イシスは佇んだまま、コーヒーに手をつけようともしない。
「あんたが、ノアの母親か」
無遠慮な言葉にも女性は不快そうな様子を見せる事なく、「そうよ」と応じた。
「マリア・キシベ。それが私の名前」
臆面もなくキシベの名前を名乗った女性にイシスは面食らったようだった。マリアは、「意外?」とイシスに尋ねる。
「私がキシベの名前を、何の躊躇もなく使った事を」
イシスは気後れ気味に、「ええ」と答える。マリアは、「そう思われても不思議はないわ」とマグカップを両手で包んだ。
ノアは早速切り出した。
「ママ。どうしてあたしがふたご島刑務所を出たのかは、聞かないのね」
「訊いても、私にはどうしようもない」
マリアはコーヒーを一口含んでノアへと視線を向けた。
「そうでしょう?」
ノアはどこから話すべきか悩んだが、最初にはっきりさせておくべき事を明示する事にした。
「ママ」
「何?」
「あたしは、ママの子供じゃないのね」
マリアの指が少しだけ硬直した。だが、その問いに対する答えは最初から用意されていたようにすんなりと答えられた。
「そうよ」
呆気ない言葉にノアは本当なのだ、と実感する。自分はマリアの娘ではない。キシベの娘でもない。ノアは確かめるために言葉を継ぐ。
「あたしは、ノアズアークプログラム実行のために造られた、ナンバーアヘッドと呼ばれている存在」
ノアは内心否定して欲しかった。そんな馬鹿げた話があるものか、と。あなたは私がお腹を痛めて産んだ娘だと。
だが、与えられた答えは非情だった。
「よく、調べたわね」
その言葉にノアは次の言葉を発せられなかった。リョウの言っていた事は何一つ間違っていなかったのだ。ノアは胸元の辺りが重くなっていくのを感じた。
「若過ぎると、わたしは思っていた」
イシスが口を出す。ノアも考えまいとしていた事だ。マリアは随分と若い。まだ三十代にもなっていないだろう。
「何者なんだ?」
イシスが切り込んでくる。マリアは、「あなたのお友達?」とノアに尋ねた。ノアは、「頼れる仲間よ」と答える。
「あたしが、刑務所の中で得たもの」
「そう。羨ましいわね」
マリアの言葉は素っ気ない。どこか突き放す響きがあるようにも思える。
「私が何者か、ね。見当はついているんじゃない?」
マリアはイシスへと試す視線を向けた。イシスは、「ノアが造られたという時点で、ある程度絞れてはいる」と応じた。
「じゃあ、答えは?」
「研究者。それが一番、あんたには相応しそうだ」
ノアも思っていた事だ。自分を管理するとすれば研究者だろう。しかし、だとすればどうしてキシベの姓を名乗る必要があったのか。それだけが分からなかった。
マリアは拍手を返す。
「正解。私はノアズアークプログラムの主任研究員。ノア、あなたを管理するためにいた」
分かっていた事とはいえ、衝撃は隠せなかった。イシスは問いを重ねる。
「ノアズアークプログラムとは何だ?」
「その事は知らないのね」
マリアはノアへと視線を振り向ける。ノアは息を詰めて回答を迫った。
「答えて、ママ」
マリアはその言葉を受けて微笑む。
「……それでもまだ、私の事を母親だって思ってくれているのね」
ノアは応じない。マリアはマグカップを置いて、「ノアズアークプログラムとは」と切り出した。
「現行人類の終焉。キシベが計画していたとされるヘキサ蜂起よりも前から、私達に与えられていたものよ」
「誰が、こんな計画を考え始めた?」
「もちろん、キシベ。彼は限られた人員にのみ、この計画を話した。何故かと言えば、この計画はヘキサなんてものよりもなお難しく、壮大な計画だったから。ヘキサが蜂起し、なおかつその目的が潰えた後の世界を想定していた。つまりキシベは全ての計画が消えても、この計画だけは最終的に生き残るよう、計算していた」
「あんたが、その主任研究員だった」
「そう。私は、元ロケット団員よ。キシベがロケット団に所属していた時、雌伏の時より私はこの計画を知らされていた。私以外に知っているのは、ノアを育てるために資金援助をしてくれたランスぐらいかしら」
ノアは面会室で戦ったランスの事を思い出す。彼はノアの力の事を予め知っていたのだ。
「でも、ランスでさえ計画の全容は知らなかった。恐らくは、ロケット団を立て直す存在としてしか認識していなかったはず」
「その先がある……」
ノアは覚えず口にしていた。マリアは、「そうね」と淡白に応じた。
「ランスは所詮、ロケット団再興なんていう夢物語を追いかけていた。でも、そんなものじゃない。ノアズアークプログラムはそんな小さな目的のために使われるものではなかった」
マリアが手を組んで語り始める。ノアは自分が何のために造られたのか。それを知らなければならないと感じた。
「教えて。ノアズアークプログラムとは、何?」
「分からないわ」
発せられた意外な言葉に、三人は色めいた。マリアは落ち着いてコーヒーに口をつけている。
「分からないって……」
イシスが怒りを露にして詰め寄った。
「そんなはずがないだろう。ノアは、あんたが造った。ノアズアークプログラムの研究で主任であった事をあんたは明かした。その計画の全貌を理解していないだなんて」
「でも、本当にその通りなの」
マリアは悪びれるわけでもなく、イシスを見つめて答える。
「私はノアをオーダー通りに造っただけ。クラックの能力を付与したRシリーズの発展型、ナンバーシリーズとして」
「キシベが何を最終目的にしていたかも、分からないってのか」
イシスの責め立てるような言葉にマリアは、「それは分かる」と応じた。
「クラックの能力に目覚めたのならば、然るべき時に然るべきものを携えてある場所へと向かえばいい。それがノアズアークプログラムの最終段階だと」
「最終段階?」
イシスはノアへと視線を振り向ける。恐らくはヨハネが向かう場所はそこだ。
「その場所ってのは?」
マリアは落ち着き払った様子で、「あなた達もよく知っていると思うわ」と前置きする。
「カントージョウトを隔てる巨大な山。十年前の罪の象徴が横たわる白銀の頂」
その言葉にノアとイシスがハッとする。
「シロガネ山……」
「そう。その場所へと、三日後に始まると言われている金環日食の時にクラックの能力を携えて向かう。その時、終焉の扉が開かれるとされている」
「終焉の扉」
繰り返しながらノアは感じ取る。その時に開かれる場所こそヨハネの求める完璧な世界≠ネのか。だが、それは現行人類の破滅をも意味している。
「終焉の扉を開くには、ナンバーアヘッドであるあなただけでは足りない。私はもう三人、あなたの能力を補助するための使徒を造った」
「使徒?」
ノアが聞き返すと、「男性型のナンバーシリーズよ」とマリアが答える。それは初耳だった。
「恐らくはクラックの能力が完全覚醒した時に、彼らもまた吸い寄せられるように覚醒を始めたはず」
「そいつらの動向は?」
イシスが尋ねると、「分からないわ」とマリアは首を横に振った。
「何故、分からない? あんたが造ったはずだ」
「私が担当したのはノアだけ。他の三人は別の研究者が受け持った。今どうしているのかさえも分からない。でも、先導者であるクラックの能力保持者に引き寄せられる。それは引力のようにどうしようもない運命」
ノアはそのような人間に出会ったかと記憶を手繰ったが思い当たらない。刑務所で出会ったのはイシスとロキと小説家だけだ。彼女達はナンバーシリーズとは無関係のはずである。
「でも、クラック能力を解放出来るはずがないのに、奇妙ね」
マリアはコーヒーを啜った。「どういう事だ?」とイシスが問い詰める。
「私は安全装置としてノア、あなたがクラックの能力を制御出来るようになった時には自壊措置を取っておいた。クラックを悪用されないために」
ノアはクラックを自分の意思で使った時に感じた酷い体調変化を思い出す。髪の毛が白くなったのもそれが原因だ。そのまま死ぬ運命にあったと考えるとぞっとした。
「あんたは、そこまで知っていて何故、ノアを生かしておいた? あんたの目的もまた、キシベやヨハネと同じなのか?」
イシスの問いに、「ヨハネというのが誰だか分からないけれど」とマリアはノアの目と髪を観察する。
「ノアが今、クラックを持っていない事からしてみて何かとてつもない事情を抱えているのだけは分かるわ」
「知っていたのね」
ノアの追及する声にマリアは、「ノアズアークプログラムが実行される条件は」とノアの持っているモンスターボールを指差す。
「ポケモンとの接触。だからこそ、私はあなたにポケモンと接触させなかった。ノアズアークプログラムの覚醒は食い止めなければならなかったから」
「あんたは、ノアズアークプログラムを実行させるために動いていたんじゃないのか?」
その質問にマリアは、「だとすれば、私は早期にノアとポケモンを接触させている」と答える。確かに、ノアズアークプログラムを実行させたいのならばノアの人格形成も儘ならない頃からポケモンと接点を持たせるのが手っ取り早いだろう。だというのに、この年齢までポケモンを持たせなかったのは何故なのか。
その答えが導く先をノアは察して言葉を発する。
「あたしを、覚醒させたくなかった……」
イシスが、「馬鹿な!」と声を荒らげる。
「こいつはノア、お前を兵器として造ったんだ。自分でそう言っている。ノアズアークプログラムを実行するために、お前を育てたのだと」
イシスの言葉にノアは頭を振った。
「兵器として造った。でも、兵器として育てたとは言っていないわ」
「詭弁かもしれない」
疑り深いイシスにマリアはふっと口元を綻ばせた。
「いい仲間を持ったのね、ノア。ここまであなたの事を真剣に心配してくれている」
マリアはマグカップを傾けてコーヒーを口に含む。ノアは黒い液体に映る自分の姿を眺めた。白い髪に黒い眼。ノアズアークプログラムに必要なクラックの能力は奪われてしまった。
それでも、そのプログラムを止めようと動いている自分達にマリアが話すという事。それはつまり、マリアは終わりを望んでいないという事だ。
「何のつもりで――」
「イシス。あたしは聞き出さなければならない事がある」
色めき立ったイシスへとノアは遮って言葉を発する。イシスは、「何が」と言い返した。
「こいつは悪魔の研究者だ。お前の命を弄んだんだぞ」
「あたしは、生まれちゃいけなかったのかもしれない。でも、一つだけ教えて欲しい。ママは、キシベに賛同したから、この計画のためだけにあたしを育ててくれたの?」
マリアは沈黙を挟んでから、「そうね」と呟いた。
「随分と前の事だから、その時の気持ちとかは忘れてしまったわ。でも、覚えているのは培養液にいたあなたの横顔。それを見つめていた時の私は研究者だった。でも、培養液から出る事を許されて初めて毛布に包まって眠ったあなたを見た時、私の心は研究者のそれではなかった。母親のそれだった」
マリアの言葉にノアもイシスも口を挟まなかった。マリアは、「満ち足りていたわ」と口にする。
「研究者として、果てのない探究心と切り離した良心で、私はあなたを見ていたのに、いつのまにか情が移っていた。一つ、はっきりした事を教えるわ、ノア」
「何?」
マリアは優しく語りかける。その口調はノアのよく知る母親のものだった。
「私はあなたを愛していた。母親として、一人の娘として。それと同時に、あなたは紛れもなくキシベの娘だという事。キシベの娘、ルナの血を分けたあなたに私の血は混じっていない。それでも、おこがましいかもしれないけれど、私はあなたの事を自分の娘だと思っている。これは研究者としての言葉じゃないわね。一人の、母親になり損なった女の戯れ言よ」
マリアはコーヒーを口につけて呟いた。
「……こんなにまずいコーヒーは初めて」