第六章 八節「エンシェント」
「選ばれるという事は、幸福な事なのだ」
ヨハネは病室でそう切り出した。グレンタウンの市立病院には何人もの患者が入院している。その中の、一室にヨハネと彼に付き従う者達が言葉を聞いている。敬虔な信徒のような張りのある声でヨハネは告げる。自分の中にある、ノアズアークプログラム実行の礎である希望を胸に抱いて。
「選択は常に時代の勝者が掴み得てきた特権だ。その選択の機会は、誰にでも平等に訪れる。問題はそれを掴む覚悟を持つか否かなのだ。お前達は、覚悟を背負う資格がある」
ヨハネは三人の少年を見下ろした。髪を刈り上げたノエルはまるで神託のようにヨハネの声を聞き、眼は爛々と赤く輝いている。その眼差しの中にヨハネは闘志を感じた。この者達には内に秘めた闘志がある。それは誰かの勝手で奪われるものではない。
開花させるのだ。自分にはその役目がある。
父親を知らぬ彼らが真の幸福へと辿り着けるように。道を示してやるのが自分のするべき事だと。
「ナンバーの名を持つキシベの息子達よ。私を彼の地へと押し上げるために、お前達は三人の使徒としてノアズアークプログラム実行のために動いてもらいたい。まずノエル」
名前を呼ばれたノエルは、「はい」と頭を垂れる。
「お前が持つこの世界の裏面を暴く能力、フリーズと名づけよう。フリーズを行使して我々に歯向かう愚鈍な者を排除するのだ。既にチャンピオンが動き出している。事は可及的速やかに行われなければならない」
ノエルは首肯して病室を出て行った。弱点とその能力については彼自身が既に理解しているだろう。最早、余計な口を挟む必要はなかった。
「ヨハネ様」
その声に目を向ける。青白い顔をした細身の少年だった。彼は鼻筋を押さえている。つぅ、と赤い血が鼻から漏れていた。
「オレの鼻血を、止めてください。これじゃ、何も出来ないんです」
ヨハネは彼の名前を呼んだ。
「ノストラ」
ノストラは頭を振り、「いつもそうだ」と喚いた。
「オレにはこの世界の全てが歪んで見えるんだ。何もかもが嘘くさく見えて、例えば文字だってよくよく見れば奇妙に嘲っているように思える。チクショウ、バカにしやがって! オレの身体に何をしやがったんだ。オレは、生まれた時からおかしいんだ。それを色んな奴に相談した。でも、みんな変な奴だって、カワイソーなんだって、そういう目で見やがる」
ノストラは顔を押さえる。ささくれ立った爪が眉間に食い込んで血が滲んだ。ノストラは目を見開いた。
「血だ! ああ、また血が出ている。オレは、いつだって生きている感触が欲しいだけなのに。この現実感のない、閉ざされた世界がオレを邪魔するんだ。みんな、どうやって、どんなシステムで生活してやがるんだ。気が狂いそうなんだ。だから、オレは自分が生きていると証明したくって、それだけで……」
ノストラが両手を差し出した。リストカットの痕が幾筋も残っている。自殺を試みたのだろう。しかし、全て失敗しているのは彼を見れば分かる。
「ノストラ。言われたか? 『心の病気なんだ』、『不安で仕方がないのは分かる』と」
ノストラは、「ああ……」と呻き、両手で目を塞ぐ。掌で眼球を押し潰そうとしているのが分かった。ヨハネはその手をそっと取る。ノストラは信じられないようなものを見る目つきを向けた。
「オレは心の病気なんでしょうか? この世界がおかしいと思うのは、いけない事なんでしょうか?」
魂の訴えにヨハネは静かな口調で返した。
「それは当たり前なのだよ、ノストラ。お前は自身の存在意義に忠実であるがゆえに、そう思い続けている。懐疑する事こそが、お前の生きる目的なのだ」
「でも、オレはもう、疑ってばかりの人生は嫌なんです。どうして、他の人間みたいに馬鹿になれないんだ。なぁ、ヨハネ様。教えてください。どうして、みんな平気な顔をしていられるんですか? こんな無茶苦茶な世界で」
ノストラは爪を立ててヨハネの袖口を掴んだ。痛みが走ったが、ヨハネはそれを気づかせぬ穏やかな口調で説き伏せた。
「ノストラ。お前の疑問は正しいんだ。この世界は間違っている。誰も、それに気づいてないだけだ。お前だけが正しい世界を見る事が出来る。正しい事を正しく認識するという事は、実はとても難しい事なんだ。人は、生きるという事に真剣に向き合うように出来ていない。どこかで妥協点を見つけ出そうとする。それが欲望であったり、他者であったりするのだ。お前には、そのどちらもが嘘くさく、まるではりぼてのように思えるのだろう」
ノストラは自身の心の奥底を代弁されたお陰が、少しだけ顔色がよくなっていた。だが、それでも生々しい傷痕を見せ付けて、「これを見てくれ!」と叫ぶ。
「こんだけやっても、世界は応えてくれない! どうしてなんですか! この世界は何を隠しているんですか? どうしてオレは、こんな不均衡な世界に生まれてしまったんだ。ああ、いっその事死んだほうが……」
ノストラは鋭い爪で眼球を抉り取ろうとする。ヨハネはそれを制した。
「痛みが正しい世界を見る事に繋がると思っているのだな。それはある一面では正しい。お前はいつだって正しいんだ、ノストラ。だが、一つだけ、過ちがあるとすれば、それはお前が生きる意味を見出そうとするあまり生き急いでいる事だ。落ち着いて、お前の父親の事を考えよう。キシベという男の事を考えるのだ」
ノストラはその言葉に呼吸を落ち着けた。鼻の下を擦る。血がぱりぱりに固まっていた。
「鼻血が、収まってきた……?」
「お前の血脈の事を話しているのだよ。ノストラ、お前は知らなかった。本当の父親というものを。その背中を。キシベという男がどれだけ偉大なのかを」
「オ、オレは」
ノストラが声を上げる。両手が震えていた。
「お前は、母も、父も知らないのだな」
ヨハネの言葉にノストラは頷いた。
「オレは捨て子なんだ。施設の大人達は、オレがポストに捨てられていたって言っている。ノストラ、っていう名前のメモだけを置かれて。オレは、この世界から、生きる事に不適合の烙印を押されたんだ」
「それは違う」
ヨハネは優しく諭す。ノストラが視線を振り向ける。
「お前は生まれたその時から、正しきを見る眼を持ち、正しきを聞く耳を持っている。その手は自らを傷つけるためにあるのではない。大いなる目的を成し遂げるためにあるのだ。キシベがお前を生み出した事は、決してマイナスではない。この世界においてプラスなのだ」
ノストラは、「で、でも」とヨハネにすがりついてきた。
「オレには何の能力もない! 正しきを行うにしても、人並みに生きる事すら出来ない!」
「出来る。出来るんだ、ノストラ。お前の名はそのためにあるのだから。その能力が示すところを、私が見出そう」
ヨハネの言葉にノストラは呻き声を上げた。
「……いっその事、馬鹿になれれば、って何度も思う。頭がおかしいんだってどこかで思えれば。でも、そうじゃないんだ。馬鹿にもなれない、狂人にもなれない。オレは、オレ自身が誰なのかすら分からない」
「それは当然の考えなのだよ。何もおかしくないんだ。ノストラ、お前の名前に込められた意味。それは三人の使徒の中で、最も強い。洗礼名を与えよう」
ヨハネが手を差し出して告げる。ノストラはその場に膝をついて、「神様……」と呟いた。ヨハネが首を振る。
「この世界に、神はいない。ノストラ、祈る相手は神ではない。自分自身だ。己の中に、神を超えるものがある。その衝動はお前を内側から衝き動かし、お前の血に熱を与えるだろう。洗礼名はナンバーストライク。お前は、三使徒の中で一番強いのだ。自分の強さを自覚しろ。自負する強さは誇りの高さになる。何よりも誇り高いのがお前なのだ」
「でも、ヨハネ様。オレに、能力なんて――」
「あるさ。全てが嘘くさく見える、と言ったな」
ヨハネは一度、目を瞑り、やがて開いた。赤く染まった瞳がクラックの能力を伴ってノストラの内面を探る。ノストラはポケモンを所持していない。ノエルはバグポケモンを操り、相手の認識を凍結させるフリーズの能力だった。ノストラは所持ポケモンがいないように思える。しかし、それは外面的の話だ。
「ジョウトに、大きな遺跡がある。アルフの遺跡と呼ばれている場所だ」
ノストラは呼吸を落ち着けさせていた。
「それが、オレはジョウトに行った事なんて」
「お前の能力の話をしているのだよ。お前に何が出来るのか、その話だ」
ヨハネはそう前置きして言葉を継いだ。
「アルフの遺跡は1500年以上前に作られたとされる古代遺跡。十五年前、学会で調査権限が認められ、ジョウトの技術者に留まらずカントー、ホウエン、シンオウからも研究者が呼ばれ、大規模な発掘調査が行われた。しかし、その段階で判明していたのは、アルフの遺跡が何か、人間を拒むような装置として機能しているという事だ。石版の文字、パズルのような文様。全てが謎に包まれていた。同時に、その場所には価値などないのではないか、とも思われていたのだ。アルフの遺跡そのものは昔からあったので、ジョウトの人々は知っていたが、何のために作られたのか。そもそも考古学的見地から意味があるのかなど、全てが不明。その遺跡調査も、一時のブームに乗っかったものだった。研究員は一人、また一人と離れ、結果的には少数のみがジョウトに残る事となった。だが、彼らの調査が実を結ぶよりも先に、ある一人のトレーナーが、石版を解読して遺跡の秘密を解いてしまった」
そこでヨハネは言葉を区切った。ノストラは話を聞き入っている。唾を飲み下したのが気配で伝わった。
「断っておくが遺跡内部には本当に何もいなかったのだ。三地方の識者達が頭脳を合わせても全く理解出来なかったのだから当然だろう。しかし、そのトレーナーが封印を解いた事によってある一つの、不可解な出来事が起きた。ジョウトの地にて追跡調査をしていた研究者達はあるものを発見した」
「ある、ものってのは……」
ノストラの言葉に、「未だに不明だが」とヨハネは言い含めてから口にする。
「それはポケモンであったとされているがよくは分かっていない。何なのか。研究者達に問い詰めようにも出来ないのだ。何故ならば、彼らは全ての記憶が消されていたからだ」
ヨハネの言葉にノストラは衝撃を受けたようによろめいた。「私は事実だけを言っている」と伝える。この情報は今しがたクラックでノストラの潜在意識から拾い上げたものと国際警察として調査した記録に基づいている。
「残されたのは意味不明な象形文字だけ。その文字も、文字と呼ぶべきなのか分からなかった。簡潔に述べるのならば、それは文字の形をした何かだった。何かの記録が彼らの下には残っていたが、それが何なのかを学会で証明する事は出来なかった。ただ一つ、それの名前以外は」
「それの、名前は……」
ヨハネは一つ息をついてからその名を口にした。
「――アンノーン。その象形文字が書かれたノートはアンノーンノートと呼ばれていた」
「アンノーン……」
ノストラは何かを得たようにその言葉を繰り返す。ヨハネは続けた。
「アンノーンはシンオウ地方のズイの遺跡においても確認されているが、どちらが先なのか、そもそもどちらも同じアンノーンなのかさえ証明されていない。何故か。それはアンノーンには不思議な力があるからだ。その力によって、人の記憶に介入したり、その場所を不可侵にしたりする事が出来るとされている。だが、これ以上は、国際警察である私でさえも知らない。だが、ズイの遺跡には意味深な解読文字が最も奥に書かれている。解読者の手記曰く、『全ての命は別の命と出会い、何かを生み出す』。この手記が正しいのならば、アンノーンという存在そのものが何か、人類の根元、ともすれば宇宙の神秘を含んでいると思われる」
「それが、オレなんかとどういう関係が……」
戸惑うノストラへとヨハネは教えた。
「どうやらそのアンノーン、遺跡にだけいるわけではないらしい。お前が見る景色、お前が見るもの。どうやらこのグレンタウンにも、いるらしいな」
その瞬間、ヨハネの視界を何かが掠めた。その何かを認識する前に掻き消える。しかし、ノストラは神の啓示でも見たかのように目を見開いていた。
「今のが、ですか? 今のが、アンノーンなんですか?」
ノストラの問いにヨハネは答えられない。何故ならば、ヨハネには見えなかったからだ。何かが自分の周囲にいるのは分かる。だが、感知野の網にも引っかからない。まるで透明人間に背後を取られたかのようだ。そこにいるのは分かっているのに、それを証明する手立てがない。
「そうか、アンノーンってのはお前らか」
ノストラが中空に向けて話し始める。その眼が赤く染まっていた。能力が目覚めたのだ。だが、ヨハネには御する方法が分からなかった。アンノーンという存在がいる、という証拠はない。ノストラの虚言かもしれない。だが、それが妄言の類でない事は同じような能力を持っているだけに分かった。
――この者は、もしかしたら最も危険なのではないか。
三人の使徒の中で強大な力を持つ事を約束されたナンバーストライクの名前。ヨハネは指先に恐れが宿るのを感じた。正体不明の何かがすぐ傍にいるのに、それを全く感知出来ない。だが、このアンノーンという存在が全く常態の人間に感知出来ない事だけは確かだった。
誰にも感知されず、しかしそこにある事だけは確実な存在。まるで神のように絶対的に、人々を俯瞰する何か。
「……それらのアンノーンと共に進め。お前の能力、エンシェントと名づけよう。エンシェントの能力で排除するべき対象の名前は」
「分かっています。今、アンノーンが教えてくれました。ノア・キシベ。ナンバーアヘッドをオレは殺さなくてはならない」
ヨハネはその言葉に目を見開いた。何も言っていない。教えた事すらない。ノア・キシベの事を匂わせる何かを発した覚えはないのにノストラは最初から進むべき道を熟知しているかのようだった。
ヨハネは胸中で恐怖を覚える。この少年は自分の与り知らぬ事まで知っているのではないか。この偽りの世界を暴く術を、この少年は手に入れてしまった。
「ならば行け。ノア・キシベを倒すために。ノアズアークプログラムを実行するために」
ノストラは黙って病室を出て行った。ヨハネは改めて世界を懐疑した。この世界は何を内包しているのか。
アンノーンとは何か。ノストラの得た能力は何をもたらすのか。全ては闇の中だった。ただ一つだけ確かな事があるとすれば、その能力もまた自分を約束の場所へと押し上げる事だ。
「キシベの求めた理想へと。私は行かねばならない」