第六章 七節「呪縛と祝福」
ミュウもどきの動きは思っていたよりも速い。ルイはポケモンセンターを飛び出したが、街中はミュウもどきの根城となっていた。俊敏なミュウもどきの攻撃を掻い潜るには感知野の網を走らせるしかなかったが、ルイはそこではたと思い止まる。
リョウは同調が過ぎたばかりに相手からの攻撃を受けた。
そうでなくとも、とルイはそこらかしこに目を向ける。歩いている通行人の目は虚ろだ。恐らくは相手の能力の影響を少なからず受けたのだろう。自分達のように同調がなくとも自我を失うほどの力はある。だとすれば真っ向勝負は得策でない事ぐらいはルイでも分かった。
「この状況、叩くのは能力を使っているトレーナー。でも、ヨハネの気配が多過ぎてとてもじゃないけれど追い切れない」
状況が最悪なのはそれだけではない。メガシンカが出来るのは一体のみだ。二人のメガストーンと同調を併せてようやくメガシンカが達成するレベルである。
先ほどはリョウが先導してメガシンカを使っていたからリョウだけが敵の影響下に置かれた。もしあれが自分だったらと思うと怖気が走る。ルイはリザードンを繰り出すべきか迷った。ミュウもどきを倒してどうこう出来るレベルの問題であるとは既に思えない。
ヨハネは自分達だろうと誰でも犠牲にして、ノアズアークプログラムを完遂させるつもりだ。そのためならば罪のない一般人が犠牲になろうとも構わないと考えている。
リョウさえいてくれれば、と感じ始めていた自分を叱責する。
「……しっかりしなきゃ、ルイ。ボクだって守られてばかりじゃないんだ」
モンスターボールを手に掴むが、同調が相手の能力発動のキーになるのならばポケモンは出すべきではない。ミュウもどきのうち一体が口腔を開き、鉄砲水を発射する。「ハイドロポンプ」だ。ルイは行く手を阻まれたたらを踏んだ。道を縫うようにしてミュウもどきが浮遊しながらルイへと近づいてくる。獲物を前にした猛獣のようだった。じりじりと追い詰めて滅多打ちにするつもりだ。ルイはぎゅっとワンピースを握り締める。
このまま終わるつもりはない。終われば、ノアズアークプログラムは発動し、この世界は終焉を迎えてしまう。それだけは避けなければならない。
「……戦わなきゃ」
モンスターボールを翳す。ミュウもどきが額に一本の線を走らせた。何だ、と思っているとそこが縦に開き内部から電流が放射された。「じゅうまんボルト」だ。球形を形成していく高圧電流にルイは緊急射出ボタンに指をかけた。もう一度、深呼吸をして自分の覚悟を確かめる。
「逃げるわけにはいかない。ボクだって、戦える!」
モンスターボールを振り上げてルイは叫ぶ。
「いけ、リザードン!」
その瞬間、ミュウもどき達から十万ボルトの応酬が襲いかかった。しかし、リザードンは翼を広げて強靭な風圧を起こす。熱を伴ったそれは「ねっぷう」と呼ばれる技だった。電流が熱に絡め取られて勢いをなくす。空気中の微少な埃を交えたその攻撃によって十万ボルトの威力は幾分が減殺されたらしい。リザードンは大したダメージを受けなかった。
「リザードン。相手は偽者とはいえ、全ての技を覚えるポケモンの祖先、ミュウ。不利な手を打たれれば窮地に立つ事になる」
岩や水、または電気の技が来ればまずい。今の十万ボルトは不意打ちだったから消せた。もし、ミュウもどきに学習機能があり、自らの攻撃から次の手段を編み出してくるのであれば、ルイに打てる手立ては少なくなる。
「リザードン、逆鱗」
命じるとリザードンは内部骨格を青く輝かせた。尻尾の炎が灼熱の温度に達し、青い色を帯びる。一瞬にしてミュウもどきへと肉迫したリザードンはその鉤爪でミュウもどきを引き裂いた。
頭蓋の割れたミュウもどきが悲鳴を上げる。他のミュウもどきはそれらを静観していた。どうやらお互いに助け合うようには出来ていないらしい。援護がないのはルイからしてみれば僥倖だった。これらのミュウもどきには知性はない。ただポケモンの姿形をしているだけだ。その姿を取っているだけの仮初め、はりぼてに過ぎない。そう考えるとルイは幾分か自分を落ち着けさせる事が出来た。ワンピースを握り締め、「大丈夫」と呟く。リョウがいなくとも、戦ってみせる。
「リザードン! 相手へと続け様に攻撃!」
ルイの言葉に弾かれたようにリザードンは飛び掛る。その爪が次の標的を捉えようとしたかに見えた。だが、その時に声が発せられた。
(私を殺すのか……。R01B)
ざわりと総毛立つ。ルイの感知野を震わせたのはキシベの声だった。肌が粟立ったのに同期するかのようにリザードンがその爪を止める。ミュウもどきは片方の目をぎょろりと開いた。赤いてらてらとした瞳に自分が映っている。
(R01B、お前は私のものだ。逃げる事など、叶わないのだよ)
かつてのキシベと同じ口調でミュウもどきが喋る。ルイの鼓動がどくんと脈打った。指先が震え出す。
十年経っても逃れられぬ呪縛と支配の記憶が溢れ出すのを感じた。
――未だにキシベの支配からは逃れられていない。
ルイは命令の言葉を継げなくなった。リザードンが感知野でルイの恐怖が伝播したように動きを止める。リザードンの戸惑いが分かった。突然に主が動けなくなればどうしようもない。ただ一言、攻撃の命令を下すだけでいい。漂っているミュウもどきを倒す事くらい簡単だ。
だが、それはキシベの言葉の否定と何が違う?
闇雲に否定して、殺して、八つ裂きにして。それは十年前、ゲンガーを操っていた自分と何が違うというのだ。
「……ボク、は」
唇が震えてうまく言葉が使えない。ポケモンを操るとはどうするのだったか。命令を下すとはどうするのだったか。
記憶の奔流にあるゲンガーとの闘争と、自分とリザードンの関係は何が違うというのか。対象が移り変わっただけだ。相手を否定し、殺す点では何も違いはない。
ミュウもどきは赤い眼窩を押し広げ、ルイの動向を見守っているようだ。自分が自分自身の背負った咎で壊れていく様を愉しんでいるかのように。傲慢な瞳を、きっとリョウならば破壊してくれる。自分を押し包む暗く澱んだ凝りを消し去って、広い世界を見せてくれる。未だにそんな夢想をしている自分にルイは幻滅した。
「……もう十年も経つのに、未だにボクはキシベから離れられていない。ゲンガーも、忘れられていない」
生まれた時、自分に自由が与えられた時、呪いとして刻み込まれたゲンガーとキシベの言葉。それをまだ引きずっている。リョウが自分を救ってくれると。
(こちらへ来い、R01B)
(君に世界を見せてやろう。この濁った世界を)
ミュウもどきがキシベの声が有効だと知るや口々にその声で語る。ルイは耳を塞いだ。この現象を止めるには本体を叩くしかない。それが分かっていても、自分を今にも圧死させようとする言葉の渦から逃げ出したかった。
「消えて、全部!」
リザードンに送った感知野が爆発し、ルイの魂の叫びを引き移したかのようにリザードンが咆哮した。左手首のブレスレットが輝き、紫色の皮膜がリザードンを包んでいく。鼓動が早鐘を打つ。
それに同期したように皮膜が集束し、その殻をリザードンが叩き割って現れた。
「メガリザードンX! 壊して!」
黒い身体に炎熱する青い炎を引き連れたメガリザードンXの身体が跳ね、ミュウもどきを振るった爪で吹き飛ばす。ミュウもどきが連鎖して弾け飛ぶ瞬間、コードが拡散しルイは感知野が乱されたのを察知した。
それを知った時には既に遅い。感知野に絡みついたコードがルイの魂までも侵食しようとする。呑み込まれる、と感じた瞬間、ルイは臆するのではなく逆に飛び込んだ。
コードの中へと感知野の網を飛ばしたのだ。当然、ルイの侵入を予期していなかった相手の中身は丸裸だった。ルイは身体が硬直していくのを代価にして、意識をコードの向こう側へと直進させる。
複雑に絡み合ったコードだが、これは同調している相手をフリーズさせるためのものだ。こちらから働きかけるなど思いもしなかったのだろう。びくりと肩を震わせたのは髪を刈り上げた一人の少年だった。
「――届いた」
意識の声と現実の声がリンクする。ルイは意識だけの世界で少年と対峙した。少年の周囲にはミュウもどきやアネ゛デパミ゛、さらには形状を成していないモザイク状の何かが浮遊している。ルイからの意識攻撃に相手は戸惑っているようだ。だが、自分の得意な領域だと知ったらしい。口元に勝利者の笑みを浮かべた。
その笑みはキシベによく似ている。彼の周りにいたポケモンもどき達が弾けルイへと襲い掛かった。意識内ならば、と飛び込んだのは無策だったか。ルイは当然、メガリザードンXの意識まで引き連れているわけではない。だが、ルイの眼前でそれらは叩き落された。ルイが目を向ける。
ほんの小さな黒点だったが、それが集束したかと思うと一気に形状を帯びた。球体から、鬣を模したような影へ。さらには巨大な炎を思わせる影へと変化する。
その影の名を、自分は知っている。
「ゲンガー」
十年ぶりに呼ぶ名前だった。もう呼ぶ事はないと思い込んでいた名前だ。リョウが完全に消し去ってくれた自分の暗黒面。決して消せない罪の痕。
その影の巨大さに少年は狼狽しているようだった。それはルイを呑み込みかねないほどに燃え上がり、赤い眼が少年の視線と重なった。
ゲンガーは乱杭歯を覗かせて、嗤った。
「シャドークロー」
ゲンガーの腹腔が破れ、中からいくつもの影の手が直進する。弾け飛んだ影の手が弾丸の勢いを伴って少年のすぐ傍へと突き刺さった。ミュウもどきが頭蓋から貫通され消滅する。アネ゛デパミ゛がデータの核を破壊されて消え失せる。他のポケモンもどきも同様だった。ゲンガーの攻撃に成す術もなく殺傷されていく。
「これが、R01Bの、オレの父親が求めた力……」
少年の言葉にルイは痛みを押し殺すかのように目を閉じた。R01B。そして因縁の名前。やはり生まれを断ち切る事は出来ないのか。どう生きたところで、罪は贖えないのか。
ルイは十年前と同じように、小さな石ころを蹴飛ばすような軽さを伴って命令する。
「ゲンガー」
ゲンガーの影が広がり、口腔を開いて少年へと食いかかる。少年は尻餅をついた。逃げようともがくが影の手が無理やり引き寄せようとする。
「……殺して」
ゲンガーが牙を剥いて少年を睥睨する。少年が悲鳴を上げた。その時だった。
赤い光が少年とゲンガーの前に立ち塞がった。その光は刃の輝きを灯したかと思うと、影の手を切り裂いた。ゲンガーが光の威容にたじろぐように目を細める。ルイもそれを視界に入れていた。
光がすぐさま形を伴う。隻腕を掲げ、赤いジャケットをはためかせながらその光は口を開いた。
「――悪いな。させねぇよ」
その声にルイはハッとする。
そこにいたのはリョウだった。リョウが光となってゲンガーから少年を守っていた。リョウは指先をすっとゲンガーに向ける。ゲンガーの赤い眼をリョウは鋭く見返した。
「てめぇの勝手にはさせねぇって十年前にもう誓ったんだ。右腕一本犠牲にしたんだから、大人しく消えてくれただろうと思っていたが。心の奥底に潜んでやがったんだな」
リョウの言葉にゲンガーは怯んだのか、じりと後ずさる。少年もそれに乗じて逃げようとする。リョウは少年の首根っこを掴んだ。
「逃がすかよ。てめぇだな。ポケモンもどきを使って俺達を追い込んだのは」
リョウが鋭く睨んで発した言葉に少年はひぃと情けない悲鳴を上げる。
「本来ならゲンガーに食わせてやってもまだ足りねぇくらいだが、ルイの手を、もう血で汚さないって俺は決めたんだよ」
「ど、どうしてお前が……」
少年がしどろもどろに声を出す。リョウは鼻で笑った。
「馬鹿が。感知野と意識圏を使えるのは、何もルイだけじゃない。ルイに比べれば随分と遅くなっちまったが、てめぇの深層意識に飛び込んだ。もう逃がさねぇぜ」
少年は手を振り翳す。するとアネ゛デパミ゛が現れてリョウを食い殺そうとした。しかし、リョウは払った手で光を一閃させる。
「鈍い」
神速の域で発生させられた光の帯がアネ゛デパミ゛を切り裂いた。その光はリーフィアの形を取る。
少年は今にも腰を抜かしそうだった。突然現れたルイとリョウの存在に恐れを抱いているようだった。
「まだ、分の悪い戦いを続けるかよ」
リョウの言葉に、「オ、オレは」と少年は声を出した。搾り出したような声だった。
「オレは転がり落ちるだけの人生を送っていた。だがよォ、第一の使徒になった事で変わったんだ。ヨハネを、オレは命を賭けて守る。ヨハネの使徒が一人、ノエル。オレの名前は祝福されし者の名前だ。意識の中とはいえ、オレのフリーズの能力は有効!」
ミュウもどきが身体を跳ね上げてリョウへと襲いかかる。赤い眼窩を広げ「サイコキネシス」の光がリョウを押し包んだ。
「そのままひき肉になっちまえよ!」
ノエルの言葉にリョウは一瞥を向けた。
「その程度かよ」
リョウが手を振り下ろす。リーフィアの光がミュウもどきを切り裂き、ノエルを斬っていた。「あ……?」とノエルが間の抜けた声を出す。
「てめぇの能力は生身の意識を凍結させる能力。てめぇの意識の中に潜り込んだ俺を殺すには、少し足りなかったみたいだな」
ノエルが断末魔の叫びを上げる。リョウは、「聞いていられねぇ」ともう一度一閃を浴びせた。ノエルの意識が吹き飛んでいく。空間が震え、世界が鳴動した。
「ここでオレは死ぬだろう。だが、よぉく分かったぜ。ヨハネが、どうしてR01B、お前を排除しなかったのかが。そうか。それもまた、向かうべき答えに至る鍵の一つか」
ノエルがいやらしく口角を吊り上げる。リョウが吐き捨てる声を発した。
「ルイはそんなんじゃねぇ。俺がさせねぇ。消えろ」
ノエルの哄笑が鳴り響く。狂気の笑い声が耳朶を打つ中、リョウは黙ってその背中を向けていた。
生身の身体に意識を戻すと、まずリョウはルイがいるはずであろう場所へと駆け出した。ルイは入り組んだ路地裏に佇んでいた。生気を吸われたかのように呆然としている。終わったはずだ、とリョウはルイへと歩み寄って肩を揺すった。すると、ルイは赤い瞳を自分へと向けた。
「リョ、ウ……」
その声は震えていた。リョウはルイの身体を抱き締めた。片腕でも伝わるぬくもりがあると信じたかった。ルイは何も言わない。自分の中にまだゲンガーの因子があった事に衝撃を受けているのか。あるいはノエルの最後の言葉か。リョウは一言だけ、胸に誓った声を発する。
「お前は、俺が守るから」
十年前と変らない思いでリョウは口にしたが、それがルイに十年前と変らず伝わったかどうかは分からなかった。
ただ一つだけ分かった事は、これも一つの世界なのだ。
ノエルが操っていたポケモンもどき、それも自分達が普段目にしないだけのこの世界を構成する要素。ルイの中に存在したゲンガーの因子もそうだ。ルイはヨハネのためにいるのか。まだ呪縛を断ち切れていないのか。
しかし、とリョウは歯噛みする。
絶対に断ち切ってみせる。生まれも因縁も全て追いやって、運命の外側にルイを連れ出す。それだけが自分に出来る事だ。
キシベを忘れさせる事は出来ないのかもしれない。ゲンガーを取り除く事も出来ないのかもしれない。だが、幸福に生きる道はあるはずだ。そのために、最後の呪いを解くべく、自分達は戦わなければならない。
それがたとえ自分自身と向き合う事だったとしても。
マサラタウンに向かう高速艇の中で一人の乗客がショック死しているのが翌日、朝刊を賑わせた。身元を示すものはなく、トレーナーカードの類もなかったためにトレーナーではないと推測される。グレンタウン病院に医療記録が残っていたがそれは別の患者のものだった。結局、高速艇に乗っていた少年が何者なのかは誰も知らないまま事件は幕を下ろした。
死因はショック死、または脳死と考えられたが定かな事は何もない。ただ一つだけ、乗り合わせた乗客の一人が彼の言葉を覚えていた。
「オレは祝福されたんだ」と。
何度も繰り返していたという。