第六章 五節「フリーズ」
(気づいていたか)
「ヨハネは何のつもりだ? キシベの人格をポケモンに組み込むなんて正気の沙汰じゃねぇな。それとも、喋るポケモンは殺れねぇと思ったのか?」
リョウはリーフィアへと注意を飛ばす。いつでも神速からのリーフブレードが放てるように集中力を高めた。
(それは違うな、少年)
十年前と同じ口調でアネ゛デパミ゛が言葉を発する。いや、今やそれはキシベと呼ぶに相応しい。
「何が違うっていうんだ。ヨハネって奴も、こういうかく乱策でせいぜい逃げるだけの時間を稼ぐしか出来ないってわけか。それはつまり、相手だって相当追い詰められている証明になる」
リョウはアネ゛デパミ゛を一撃で屠ろうとした。一刀の下に斬。それで決着がつくはずだ。今、グレンタウンを襲っている能力の概要は分からないが。アネ゛デパミ゛やミュウもどきと無関係なはずがない。
ただ分からない事がいくつかあった。
「どうして、キシベの人格が入っている?」
キシベの人格、意識パターンはあの時、空中要塞ヘキサの最終局面で消滅したはずだ。だというのに、どうして今また、自分達の前に現れたのか。リョウの言葉にアネ゛デパミ゛は、(この世界を覆っているものは何だと思う?)と尋ねてきた。
「さぁ。政治や金じゃないのか?」
(それだけで世界は回らない。潤沢な世界を回転させるために必要なのは生きた人間だけが持つ電気信号とたんぱく質の身体。それを、人は美化して魂と肉体と表現するが)
「脆弱な身体に縛られていたらてめぇは何も見えないって言って自分から考える事をやめたんだろうが。そのつけが世界に回ってきている」
(そう。嘆かわしい事だ)とアネ゛デパミ゛はまるで他人事のように振る舞った。実際に、他人なのだろう。キシベの意思が注ぎ込まれているだけで、これはキシベではない。キシベの真似事をする全くの別人。否、別の生き物。
「キシベは死んだはずだ」
あの時、空中要塞ヘキサ陥落時に見たビジョンは間違いではないはずである。キシベは自身の娘ルナと共に彼岸へと旅立った。戻ってくる事など出来ないはず。しかしアネ゛デパミ゛は肩を竦める。
(全く、どうしてだか私にも分からないのだ。ただ、喜ばしき事、祝福である事だけは確かなのだろう)
「喜ばしき事、だと」
災厄の導き手であるキシベが蘇る事が祝福であるはずがない。リョウは感知野を飛ばし、リーフィアにいつでも命令を飛ばせるようにする。
「キシベはもういない」
ルイが断言する。リョウは首肯した。
「キシベは、向こう側へと消えていった」
(そう知覚したのは君達だけかもしれない。観測手段によっては、まだキシベは生きていると考える事が出来る)
「何を根拠に――」
(たとえば、二年前のブレイブヘキサ発足時における噂話)
遮って放たれた声にリョウは聞いた話を思い返した。リヴァイヴ団を操り、ウィルをも牛耳ろうとしていた存在がいると。その男はキシベの思想を色濃く反映した組織、彼の理想としたヘキサを作ろうとした。リヴァイヴヘキサ計画と呼ばれたそれはしかし、今のブレイブヘキサの長が食い止めたという。
だが、キシベの言った通りに世界は転がっている。火種を抱えたまま、今よりも悪い結果へと、流転する世の中。
(私は、観測手段によっては生きていると仮定する事も可能だと言ったんだ。キシベという思想が百年、いや千年続く事もあり得ると)
「宗教だ」
リョウは切り捨てた。それは最早人間の沙汰ではない。神の行いだ。だが、キシベの言葉には神の傲慢さが見て取れたのは事実である。
「ボクも、間違っていると思う」
リョウは何を前にしているのか見失いそうになる。目の前の存在はポケモンでも、ましてや人間でもない。では、何者か。キシベ、という観測存在が屹立し、自分達の前に立ち塞がっているようだ。
(宗教でも、最初はただの人間の思想だ。思想は宗教の発端であり、では考察は、と言えば人間の前身でもある)
「禅問答だって言ってんだよ」
リョウの言葉にアネ゛デパミ゛は、(そう考えるのもいいかもしれない)と応じる。
(間違っている間違っていない以前に、これは答えのない迷宮だと。ならば、少年。この迷宮が解けるか?)
「ゴールのない迷宮ってのはフェアじゃねぇんだ。それを吹っかけた時点で、そいつははりぼての理論を崩される覚悟があんのか、ないのか」
リーフィアが「リーフブレード」の刃を突き上げる。刀剣の輝きを帯びたそれに気圧される事なく、(私が殺せるのかね?)とアネ゛デパミ゛は尋ねた。
「ポケモンならば瀕死、人間ならば重傷程度にしてやるよ。まだまだ聞き出したい事が山ほどあるが、言葉を弄しててめぇの術中にはまるのはもう十年前に経験してんだ。今さら言葉一つで心乱される俺じゃねぇ。リーフィア」
呼ぶ声一つでリーフィアはアネ゛デパミ゛へと突っ込んだ。緑色の剣閃が瞬き、アネ゛デパミ゛の腹腔を破る。アネ゛デパミ゛はリザードンの鳴き声を上げた。
「これで……」
リョウは勝ちを確信する。だが、その予感は脆くも崩れ去った。一瞬にしてアネ゛デパミ゛の切り裂かれた腹部がバーコードで復元される。バーコードの波が渦巻いてアネ゛デパミ゛の形状を維持した。
「何をしたの」
ルイも戸惑っているようだ。リョウは自分の中にあるポケモンの知識を呼び出す。自己再生ではない。回復技ではなく、まさしく「復元された」という言い回しが正しい。
(どうやら私を、君達は殺せないらしい)
アネ゛デパミ゛が口角を吊り上げる。リョウはリーフィアを呼び戻した。アネ゛デパミ゛は攻撃をしてくる気配はない。だが、リーフィアでは倒せない事は明白だった。ボールを突き出して戻す。考えを巡らせる。相手は何者だ? どうして技が効かなかった?
(技が通用しない理由を探しているのだろう?)
見透かした声をアネ゛デパミ゛が発する。その時アネ゛デパミ゛の体表がぼやけた。まるで二重像を結ぶように激しくぶれる。アネ゛デパミ゛の身体はよくよく目を凝らしてみれば黒色の体色ではない。それらは無数の文字によって構成されていた。文字化けしたコードで編み込まれている。
(私自身も驚いているのだが、これは恐らくはポケモンという存在の裏面を、私が体現しているからなのだろう)
「ポケモンの裏面、って」
(データ生命体だよ)
アネ゛デパミ゛は答えた。リョウは目を見開く。ルイもうろたえているようだった。
(ポケモンはデータ変換出来る。これは誰もが知る事実だ。血肉の通った生命体でありながら、同時にデータとしても活動出来るのは矛盾しているような気がするが、その実では正しい。それが、ポケモンが他の生物とは違う点だ。人間が行使するのに、適している理由でもある。データとは人間ありきのものなのだからな)
「……何が言いたい」
アネ゛デパミ゛はそれこそ十年前のキシベのようにもったいぶって口にする。
(つまりだね、ポケモンであるがゆえに、私は殺せない。人間とポケモンでは)
「馬鹿げた事を」
リョウはホルスターに留めていたモンスターボールを手にする。それを翳して、「こいつでも殺せないって事はねぇだろ」と言い放つ。
「とっておきだ。行け、フシギバナ!」
放ったモンスターボールが割れて巨体が床を踏み締める。緑色の、いぼが浮かんだ扁平な身体。けばけばしい南国の花が頭上に咲いている。フシギバナはアネ゛デパミ゛へと敵を見据える目を向けた。
「ポケモンであるがゆえに、お前を殺せないって言ったな」
リョウは左手で胸元を引っ掴み、一気に服を引っぺがした。リョウの胸元には虹色の宝玉が埋め込まれていた。それが光を放ち、フシギバナが反応する。
「だったら、その楔を超えてやるよ」
宝玉が輝くのと同時にフシギバナの周囲へと紫色の皮膜が構築された。それが薄い卵の殻のようにフシギバナを覆い隠すと、直後、咆哮と共に皮膜が吹き飛ばされた。
そこにあったポケモンは既に姿を変えている。頭頂部に花びらが一枚被さり、シンボルだった巨大な花はさらに生長して幹が発達していた。フシギバナであって、フシギバナを超えたポケモン――。
「メガシンカ、メガフシギバナ」
メガフシギバナが気高く咆哮する。アネ゛デパミ゛は気圧されたように後ずさる。
(それが、メガシンカか)
「十年の隔たりを馬鹿にするもんじゃねぇぜ。もう、てめぇには負けない」
リョウは手を振り翳して叫んだ。
「メガフシギバナ、花吹雪!」
メガフシギバナが身体を震わせる。すると極小の花びらが彩りを持って宙へと吸い込まれる。それが視界に入ったのも一瞬、次の瞬間にはアネ゛デパミ゛の右腕が空間に沈むように引き裂かれていた。アネ゛デパミ゛が狼狽したようにリザードンの鳴き声を発する。リョウは、「見えねぇだろ」と言った。
「花吹雪は細かく刻んだ幾百の花びらの刃が、それぞれ鋭さを伴ってお前へと襲いかかる。時には球形に。時には鋭敏に。お前を囲み、切り裂き、その刃は決して視野で捉える事叶わない」
リョウでさえ、それを目で動かしているわけではない。極大化した感知野の網の中にメガフシギバナの思惟を乗せ、手足を動かすかのごとく操作しているのだ。当然、感知野で動かしているそれをアネ゛デパミ゛が視覚化できるはずがない。
リョウはタクトを払うように手を振り上げた。
「引き裂け、花吹雪」
その言葉の直後、アネ゛デパミ゛の身体が寸断された。コードで組まれた身体が分子構造のレベルまで細分化される。血を流す事はなかった。コードが空気に溶けていき、アネ゛デパミ゛が裁断される。リザードンの鳴き声の残滓が漂うだけで、アネ゛デパミ゛の姿は影も形もなかった。花吹雪がアネ゛デパミ゛をひき潰したのだ。
アネ゛デパミ゛の意識を形成するものがその時確かに掻き消えたのを感知した。一瞬のうちの消滅。それは避けられぬものだっただろう。リョウも、コードの一欠片まで破壊したのを確信したほどだ。
しかし、破壊こそがその真価であるとアネ゛デパミ゛とリョウは同時に察知した。アネ゛デパミ゛は消滅の瞬間に。リョウは倒したという手応えの瞬間にである。
突然、アネ゛デパミ゛を構築していたコードが開放され、周囲にコードの海が漂った。リョウとルイは突然に視界が弾け飛んだかのような衝撃を受けた。コードの拡散、それによる感知野の乱れ。リョウは集中していたがゆえに、その逆流をせき止める事が出来なかった。
(……そうか。今、理解した。私の役目は、最高の同調を果たした少年、君に倒される事だった)
アネ゛デパミ゛の声に確信する。もう戻れぬところまで来てしまったのだと。リョウは咄嗟に意識を掻き出そうとしたが、その反応速度はあまりにも遅い。メガフシギバナに同調していたのが仇となった。リョウが引き上げられる前に、攻撃をしたメガフシギバナごと、その現象は巻き起こった。
「まさか――」
リョウも理解した。アネ゛デパミ゛は倒される事によって自分を絡め取ったのだと。
――これは、クラックだ。
(いや、正確にはクラックではない)
リョウの心の声を代弁するかのようにアネ゛デパミ゛が掻き消えそうになりながら告げる。
(これは我が創造主、ノエルの能力、フリーズだ。そう、私は、今思い出した。私達は、お前達ポケモントレーナーとポケモンが産み出した負の遺産。それに誕生の機会を与えてくださったのがノエルだ)
クラックではない。それはある事実も示していた。
「ヨハネの能力じゃない……」
ヨハネは既に逃げおおせている。自分達がヨハネだと思って追っていた気配は、ノエルとやらが発生させた罠だった。
「お前の目的は、俺達のどちらかにメガシンカを使わせる事」
メガシンカは同調率がある一点を上回った瞬間に可能になる。即ち、完全同調に最も深い状態の事を指しているのだ。その状態で、もし、ポケモン側に意識を引っ張られたらどうなるか。その状態で、ポケモンのデータ部分に欠損を与えられればトレーナーはどうなるか。
――俺は、俺に戻る事すら出来ない!
トレーナーとしてのリョウの最期が眼前に横たわっていた。それを回避する術はない。リョウはメガフシギバナと共にフリーズの呪縛に呑まれた。